3-2.蘇芳の着物

 シトシトシト――


 線のように細い銀色の雨が、イナサとシナトに降りかかる。鬼は夜目がきくため、雨が降るうっそうとした森の中もさほど苦ではない。イナサは、何も言わず、シナトの前を歩く。二匹の鬼のびちゃびちゃ水をたっぷりと含んだ土を踏む音だけがシナトの耳に届く。


 ―― 今、ここで、お館様を後ろから襲ったら?


 いつも使っている大剣は邪魔になるからと置いてきたが、懐に短剣を隠している。シナトは短剣を取り出そうと胸に手をやるが、服の端をぎゅっと握りしめるしかできない。

 

 ―― なぜ、お館様は私を人攫いに誘ったのだろう?

 ―― なぜ、私とお館様だけなのだろう?

 

 普段、ハヤテと一緒にいてもイナサはシナトに話しかけない。二人で出かけたことなど一度もない。だから、人攫いについてこいと言われ最初はひどく警戒していた。しかし、イナサは、両手を広げて、前を歩くだけだ。


 十数年前、初めてイナサに会った時、その闇のように深い藍鉄色の鬼気ききを恐ろしいと思ったことを思い出した。シナトはふるっと体を震わせ、自分のつのをそっと触った。雨に濡れて、角はますます冷たく、その熱量を失っていく。




 もう少しで、夜叉山の森をぬけるというところで、「おい」と言って、イナサが振り返った。


「なぜ、剣を抜かなかった?」

「……」

「後ろで、殺気を飛ばしたり消したりしていたが、なぜ、剣を抜かなかった?」

「……、わかっていたのですか……」

「ふん。お前よりもわし方が年寄りだからな。それより、理由を言え」

「迷っていました……」


 シナトは正直に答えた。


「ばかなことを。鬼は奪うもの。己が欲しいと思うものは命がけで奪いにこい」

「しかし、貴方を屠ったら、ハヤテに会わせる顔がありません。それに、蓬の畑を作ってもらいました。人間の書物を手に入れてもらいました。恩があります。卑怯な手を使いたくありません」

「ふん。わしも情けをかけられるとは年をとったものだな。まだ、お前ごときには負けんのにな」


 藍鉄色の鬼気が、かげろうのように立つ。シナトは、少し後ずさりをする。

 シナトの動揺にイナサがにやりと笑った。そして、鬼気を霧散させると、里の方を顎で指した。目線を里に向ける。里も雨が降っている。小さな家には、灯りがぼんやりとともっている。


「まあいい。この先に里がある。今夜は雨だから、家の戸口はしっかり閉められていよう。しかしな、お前は角さえ隠せれば人に見えなくもない。ここから先は一人で行って若い女を一人攫ってこい。そうだな、肉つきはいい方がいい。あまり骨ばかりだとみなに文句を言われるからな」

「……わかりました」

「これをかぶっていけ」


 イナサが、懐に手を入れるとシナトに蘇芳色した着物を放ってきた。シナトはぎょっとしてイナサを見る。蘇芳色は里にはない色だ。イナサがもう何年も前に蘇芳の木をすべて燃やしてしまったから、里に材料となる蘇芳の木がない。


「ふん。お前がばばに何をしゃべっていたかは知らん。ただ、十数年面倒を見てきたのだ。機会をやったのに、……馬鹿な奴だ」


 そういうと、イナサはどかりと大きな木の下に座り込んだ。懐から砂時計を出した。


「これから、この砂時計が落ちるまで、わしはここにいる」

「……この着物は……?」

「ふん。昔むかし、妹の名前と同じ名前の色の布をばばに染めてもらったのだ。ただ、妹には渡せなかったがな……」


 イナサはそれっきり何も言わず、目を閉じた。


 サラサラサラ……サラサラサラ……。


 砂時計が落ちていく。シナトは頭を下げると、里にむかって走り出した……。


「ふん。帰ってくるなよ」


 イナサの独り言は、シナトの耳には届かなかった。


 サラサラサラ……サラサラサラ……。


 砂時計が落ちていく……。





「馬鹿な奴だ」


イナサが目を開けた先には、蘇芳色の着物を着たシナトが立っていた。


「馬鹿な奴だ」


 懐に入れていた紐で、シナトを縛り上げた。


「馬鹿な奴だ」


 お面を被せると、牢屋に放り込んだ。



 ハヤテが十七になる日の朝早く、イナサは誰もつれずに牢屋にやってきた。寝られなかったのか目だけがぎらぎらとしている。イナサは、近くにあった石を使って牢屋の鍵を壊した。


「このままでは、ハヤテは鬼なのに鬼ではない存在になってしまう。お前を引きずり出しても、あいつは屠ることを拒むだろう。それは、当主としては認めるわけにはいかん。鬼は屠るもの。鬼は喰らうもの。それをえるわけにはいかんのだ」


 



 そして、夕方、ハヤテと里の鬼達を連れて牢屋にやってきた時には、牢屋には誰もいなかった。


「シナトが人間の女を逃がしたのだろう」とイナサ。

「そんなことはしない」とハヤテ。


「あいつは所詮、混ざりものの鬼だから人間の女に惚れたのかもしれんなぁ」

「俺はとっさまの言葉より兄者を信じる!」


 ハヤテは走り出した。


  ―― 兄者のことだ。きっと、夜叉山にいる。



 





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