第十六話
アパートに戻って来た。
駐輪場には僕がアパートを飛び出した時そのままに自転車が倒れていた。その自転車を丁寧に駐輪場に止める。ついでに倒れているバイクも直す。自転車もバイクも、目立つ傷は無いようだ。
階段を上り、二階の自分の部屋へと向かう。
僕の部屋の前に、隣人にプレゼントしたウイスキーのボトルが置かれていた。そしてその横に、父さんが立っていた。
僕の足が止まる。父さんが突然目の前に現れた事を理解出来ずに、僕は動けなくなった。久しぶりに見る父さんは、何だか少し小さくなって、老けて見えた。
「誠、元気か?少し痩せたな。髪も髭も伸びまくっているじゃないか。そろそろ切れよ。お前の、良い顔が台無しだぞ」
戸惑って何も出来無い僕に対して、父さんは、世間話でもするように、軽い感じで話しかけて来る。その何でも無さが、僕が実家を出た時の、あの駅のホームでの父さんと重なる。多少見た目は変わっていても、父さんの喋り方や雰囲気は全く変わっていない。あの時のままだ。
僕は、こんなにも変わってしまったのに。
でも、父さんは、それでも僕に、あの日と何も変わっていないかのように話しかけてくれた。
僕の胸の奥から、熱い物がこみ上げて来る。ダメだ。我慢出来そうに無い。どんなに止めようと思っても、止められない。目頭も熱くなる。
ああ、もうダメだ。
僕の目から温かい滴があふれて来て、頬を伝って地面に落ちた。
それからの僕は、次から次へとあふれて来る涙を止める事が出来ず、涙を拭く事も出来ず、ただその場に立ち尽くすだけだった。そんな僕の様子を、父さんは何も言わずに見守ってくれた。それもまた拍車をかけて泣いてしまう。僕の事を考えてくれているのだと、分かるから。
こんな情けない姿を、父さんには見せたくは無い。僕は立派になって、父さんの自慢の息子になって、笑顔で胸を張って父さんに会うんだ。そう決めていたんだ。高級車の一つでも買ってあげられるような、そんな自分になってから父さんに会うんだ。そう決めていたんだ……。
だから、父さんに会えるのは、こんな僕じゃないんだ。今の僕は、父さんに缶ビール一本も買ってあげられない。
「父さん、ごめんなさい」
しゃくりあげながら、やっとそれだけを言った。そんな僕に、父さんは優しく声をかけてくれる。
「何で謝るんだ?お前は何か悪い事をしたのか?大丈夫だから。とにかく元気そうで良かったよ」
痩せ細って、髪も髭も伸ばしっぱなしで、ボロボロで汚れて酒臭い服を着て、情けなく泣いている僕が元気だって?父さんは面白い事を言う。父さんには、こんな感じで少し抜けている所があって、時々ズレたおかしな事を言う。それが僕を救ってくれる。
「僕、元気かな?」
服の袖で涙を拭う。
「元気だろ。だって、今、お前、笑っているじゃないか」
僕が笑っている?
自分の頬を触ってみる。口角が上がっていた。ああ、確かに、僕は笑っているようだ。
父さんを見る。父さんは腕を組んでいて、満足そうに笑っている。
「誠、家に帰ろうか」
父さんは、軽くそんな事を言った。僕の人生最大の決断を、本当に何でも無い事のようにサラッと言う。
「帰るよ」
人生最大だと思っていた決断だったけれど、僕もすぐに答えられた。
「良かった。母さんに言っているんだ。誠が帰って来たら、すき焼きを作ってやってくれって。お前、すき焼きが好きだろ?」
「うん、好き。ありがとう」
「父さんも好きだ。ビールだって用意してもらっている。一緒に飲もう」
それから父さんは、僕の部屋の前に置かれているウイスキーのボトルを見た。
「父さんはウイスキーが苦手なんだ。昔、格好良くオンザロックで飲んだ時にアルコールが強過ぎて吐いてしまってな。それがトラウマで、それから一切、飲んでいない。誠は、ウイスキーが好きなのか?」
「いや、好きじゃないよ。僕もウイスキーは飲めないんだ。お酒なら、ビールが好きだよ」
僕がそう言うと、父さんはとても嬉しそうだった。
「そうか、良かった。じゃあ、一緒に飲もう。息子と一緒にビールを飲むのが、父さんの夢だったんだ」
「そうなの?」
「ああ、そうだ。夢が叶いそうで、すごく嬉しい」
その言葉を聞いて、僕も嬉しくなる。
父さんは、僕の部屋の前に置いてあったリュックサックを背負った。あれは、父さん愛用のリュックサック、僕のよりも頑丈で、僕のよりも色々な物が入る。
「さて、用事も済んだし、そろそろ行こうかな。誠はいつ家に帰って来られる?」
「ちょっと色々片付ける事もあるから、すぐには無理かな。でも、近いうちに、絶対に帰るよ」
僕の家にはほとんど何も無くなってしまっているから、帰ろうと思えばすぐにでも帰れるけど、少し時間が欲しかった。
「そうか。帰る日が決まったら連絡をくれ。母さんも誠からの連絡を待っているぞ」
母さんとの最後の電話、とても酷い切り方をしてしまった事を思い出して、少し胸が痛む。
「分かった。だけど、僕、携帯電話を壊しちゃって、どうやって連絡したら良いかな?」
そう言うと、父さんはポケットに手を突っ込み、自分の携帯電話を取りだして、渡してくれた。
「これを使え。父さんはあまり電話が好きではなくてな。母さんが持てってうるさいから、一応は持ってはいるが、無い方が気楽だ。お前が使ってくれ」
「ありがとう、大切に使うよ」
父さんの携帯電話を自分のポケットに入れる。
「後、これも。少ししか無いけど」
父さんは封筒をくれた。中を覗くとお金が入っている。
「色々とお金が必要だろ。持っておけ。また何か困った事があったら言ってくれ。連絡は母さんにな。それじゃ」
父さんは僕の横を通り抜け、階段を降りて行く。
「父さん、もう帰るの?これからどうするの?」
父さんが階段の途中で立ち止まり、振り返った。
「泊まるホテルは決まっている。誠は心配しなくても良い。そうだな。せっかく東京に来たんだし、観光でもしようかな」
「それなら、僕が東京を案内しようか?」
僕の提案に、父さんは首を振った。
「いや、大丈夫だ。今は、誠は自分の事だけをしなさい。父さんは一人で適当にブラブラするよ。そういうのが好きなんだ」
「分かった。気をつけて。また、連絡するから」
「ああ、待っているぞ」
父さんは手を振って、再び階段を降りて行き、その後は振り返る事無く、アパートから出て行った。
しばらく父さんが消えた方角を眺めてから、足下にあるウイスキーのボトルに目を移し、そのボトルを拾って家に入った。
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