第十四話

 綺麗な月が出ていた。

「あー、本当に綺麗な月だなぁ」

 周りに誰もいないのに、「月が綺麗だ」とあえて口に出す事によって、その事実を確かなものにする。僕は今、寂れた団地の中にあるマンションの屋上で、ウイスキーを飲んでいた。

 このマンションの屋上は、前から目をつけていた。高さもちょうど良いし、屋上へ続くドアの鍵は壊れていて、そして何より静かだった。昔はこの団地にもたくさんの人が住んでいて、賑やかだったのだろう。たくさんの人の幸せを包み込み、温かい場所であったに違いない。しかし、時が経ち、新しかったマンションは古くなり、そうなると人はどんどんと新しい場所へと移ってしまう。ここに残っているのは時の流れについていけなかったわずかなモノだけ。未来も希望も無くて、ただその時だけを生きているような、そんなモノ。だから、ここは僕にはぴったりな場所だった。このマンションは退廃的っていうのかな?とにかくそういう「祭りの後」「夢の跡」的な感じがしていて、とても落ち着く。

 そして、今日はとても月が綺麗だ。僕の心がその淡い光に当てられて、汚れまみれでどす黒い僕の心の一部が反応して、浄化される。

 月は、本当にすごいと思う。

 特に今日は満月で、見る者を圧倒する荘厳な白の輝き、どんな芸術家も作る事が出来ない、人の心を掴んで離さない完璧な丸。満月の夜にオオカミになる人の気持ちが分かる。今日は、環境も、僕の気持ちも、全てがそろっていた。好条件だ。今なら、前からずっとやりたいと思っていた事が出来る気がする。

「風が、気持ち良いな」

「そうか?めちゃ寒いだろ」

 もやは最後まで僕についてきた。

 確かに寒い。特に首元が寒い。家の物を捨てた時にマフラーもあったのだが、使わないと思ってゴミ袋に入れてしまった。それをちょっと後悔するが、まあ、寒さなんて些細な問題だろう。

「気分の問題なんだよ。僕は今、とても気分が良いから、気持ちが良いとしか感じないんだ」

「こんなどうしようもない自暴自棄な状況で?」

 もやは笑う。それにつられて僕も笑う。

 ウイスキーを一口飲んだ。いつも飲んでいたものよりも少し高い、高級なウイスキーだ。赤いラベルから黒いラベルへと変わっている。ボトルに描かれたシルクハットの男が僕の事を見ている。

「こっちを見るなよ」

 もう一口ウイスキーを飲んだ。いつものやつよりは良いウイスキーのはずなんだけど、正直、違いが分からなかった。

 そのまましばらく、ウイスキーを味わう。

「ずっと考えていた事がある。お前はいつから僕の側にいたのか。何でお前は産まれたのか」

 そろそろ始めよう。そう思って、もやの方を向く。改めて、ちゃんともやの事を見ると、どこに目があるのか分からなかったが、とにかく目だと思う場所を見る。

「最初から僕の側にいたんじゃないか?僕が産まれたその瞬間から。今まではただ見えなかっただけでさ」

 もやを見つめる。もやは、返事をしなかった。しばらく静寂が続いて、僕はただ返答を待った。

「そうだな。俺は最初からお前の側にいた」

 もやが喋り出した。

「お前にだけじゃない。人が産まれた時に、すぐに俺みたいな存在が側につく。だから、今、この世で生きている人間全員に俺みたいな存在がついているんだ。だけど、そのまま俺みたいな存在に気がつかないで死んでいく人がほとんどだ。そんなのは嫌だから、人が気がつくまで俺みたいな存在は、あの手この手で気づいてもらおうとする」

 公園で僕に神様を信じるかどうか聞いてきたあの男の事を思い出す。あの男の後ろにも、もやがいた。あれはやっぱり、僕のもやとは違うやつだったのだ。

「何年も、何十年も気がついて欲しいから色々とやるが、全く気がついてもらえないまま終わる時、それはとてもむなしい。自分に存在意義とか、そういうものはいらないが、単純につまらない。つまらないのは嫌だ。反応が返って来ないというのは面白く無いんだよ。その点、今の俺は超ラッキーだ。お前は早くから俺に気がついてくれたからな」

 もやが僕の事を見た。さっきまで、目や鼻や口が分からなかったのに、今のもやは目も口も鼻もあって、完全な人型になっている気がする。

「例え俺の存在に気がついてくれても、そいつが死ぬ間際とかも多々あるからな。せっかく気がついてくれたのに、ちょっとからかったら終わりだ。何十年もかけたのに、たった数時間、数分の事もある。全然、物足りない。だけど、お前は違う。こんなにも早くに気がついてくれた。だから、遊ぶ時間はたっぷりある。それにお前は変わっているし、久しぶりに楽しめる人間だ。感謝しないとな」

 もやが仰々しくお辞儀をする。どこまでも嫌みな奴だ。だから、あえて僕はそれについて何も言わなかった。

「お前みたいな存在に気がついたら、その人はどうなるんだ」

「だいたいは壊れて終わりかな。心が壊れて動かなくなったり、死んじゃうか。でも、そうなったらまた別の所に行くだけだ。この世界には毎日たくさんの人が産まれるんだ。面白そうな奴を見つけて、そいつにくっつけば良い」

 ふーん、そんな感じなのか。

 僕はどうしてこいつに気がついたのだろうか?

 分からないけれど、波長が合ったとか、タイミングが合ったとか、そういう偶然なだろう。そして、一度もやの存在に気がついてしまったら、原因が何かを考えても、もやは消えない。生きていたいのならもやと共存をするしかないし、それが嫌なら答えは簡単だ。

 僕はそのためにここに来たのだ。

 静かな夜に、もやの声だけが響く。

「周りに人がいると、なかなか気がついてもらえない。周りの声に耳を傾けるのに一生懸命で俺のことに気がつく余裕が無いからな。楽しい事とかで心が満たされているやつも、心に俺が入り込む余地が無いから気がついてもらえない。俺はな、気がついてもらえないとすごく弱い存在なんだ。何も出来ない。だけど、お前は最高だ。孤独だし、心は隙間だらけ、おまけに『自分が一番正しい』と思っている。その考えが自分を苦しめているとも知らずに。俺はお前が俺から離れそうになった時に、ちょっと突いて道を修正してやるだけで良かった。お前はそれが正しいと思い込めば、俺が何もしなくても勝手に俺の方にやって来てくれる。誰かにコントロールされているというのに、自分で決めていると思い込んでな。そっちの方が力は強いんだ。誰かに決めてもらうよりも、自分で決めたと思い込む方が」

 僕はもやを見る。もやの顔を見る。もやの表情を読み取ろうとする。

「だから、俺のする事はお前に指示を出す事じゃない。お前に俺が望んでいる結果を、自分が望むものだと勘違いさせるだけで良い。そうしたら、お前は俺が考えるよりも早く、強く、俺の方に来てくれた。そして、一度固まった信念は変えられない。変えられるやつもいるが、お前は無理だ。お前は、救いようの無い程頑固だから」

 もやは笑っていた。それは今までの汚いニヤニヤ笑いでは無く、なぜだろう、どこかしら優しさすら感じた。

「お前は狂っている。この世界も狂っている。それが普通だ。でも、自分が狂っている事に気がついたお前はもっと狂っている。そして何よりお前は、『狂っている自分が格好良い』と思っている。何とかして自分に価値を持たせたいんだな。だけど、それじゃお前は救われない。狂った世界に気がついたお前が、普通の世界を生きられるはずが無い。お前は、一生『これじゃない』という思いを抱え、苦しみながら生きるしかないんだ。そんなお前を見るのが、俺は楽しい」

「そうか、お前を楽しませる事が出来て、僕は嬉しいよ」

「お前は最高の暇つぶしだよ」

「暇つぶし、か」

 僕はウイスキーを飲む。今まで全然喋らなかったのに、最近は喋る事が増えた。だから、よく喉が渇く。ウイスキーを飲んで、しっかりと喉を潤さなくてはダメだ。声が出なくなる。

「お前にこの世界の真実の一つを教えてやる」

「真実?」

「そう、真実だ」

「教えて」

「良いぞ」

 もやはそこで一呼吸おいた。正直、僕には世界の真実になんて興味は無かった。だから、もやが話したいのならどうぞという感じだ。

 僕はまたウイスキーを飲む。

「人が産まれてくる理由、これは分からない。だけど、人が産まれてから何をするのか、これは分かる。人が産まれてから死ぬまでする事は『暇つぶし』だ。何となくわけが分からないままこの世に産まれて、そして死ぬまで暇つぶしをする。それが人生だ。人生に他に意味なんて無い。それなのに、人はそこに暇つぶし以外の意味を持たせようとする。もっと高尚な何かのために生きているんだとね。そんなものは無いのに」

「そうなのか」

「そうだ。どうやら人は『暇つぶし』という立派な意味だけでは生きてはいけないらしい。人生は暇つぶしでしか無いのに、そこに無理矢理意味を作り上げて、喜んだり悲しんだり、そうやって人は足掻いている。それがたまらなく面白い」

 もやの話し声をBGMに僕は空を見上げる。流れ星でも見えないかと思う。僕はまだ人生で一度も流れ星を見た事が無くて、だから、一生に一度ぐらい見たい。

「疑問だけどさ。どうせ暇つぶしなら、その無駄に足掻いているのも、無駄に意味をつけるのも別に良いんじゃないの?それも暇つぶしじゃん」

 空を見ながら、もやに聞く。

「そうかもな。そう考えられたら楽だろうな。だけど、人間はそう簡単に考えられないんだ。どうしても欲張ってしまう。無駄に複雑に考えてしまう。そして苦しむ。それが面白い」

「じゃあ、どんな人間なら面白く無いんだ?」

「面白く無い人間はいない。人間はそういうものだ。自分の人生を何か大切な物だと思い込んでしまう。だからこそ人間は自由にはなれないし、辛い思いをする。人間観察は本当に面白い。最高の娯楽だ。そして、その娯楽はこの世界に人間が存在する限り続ける事が出来る。だから、お前の飲んでいる酒、そんなもの無くても俺は満足だ。そんなわけの分からない液体なんていらないよ」

 僕は手元のウイスキーを見た。左右に揺らして、琥珀色の液体を動かす。

「じゃあ、酒を飲んでいる僕は、少なくともそういう足掻いている人間を見て楽しめる人間じゃ無い、って事だな」

 目を閉じてウイスキーを飲む。体内に入ったウイスキーが小さな身体の震えと共に全身に広がっていく。この感覚がたまらなく好きだった。

「そりゃ、お前も面白い人間だからな」

 そう言って、もやは笑った。

「人間じゃ無いお前も、似たようなものだぞ」

 僕も笑い返した。

「俺はそれでもかまわない。暇つぶしだし、面白ければ何でも良い」

 そうか。

 そういうものなのか。

 色々考えて、馬鹿らしい。

 本当に。

「お前、今日はよく喋るよな。思えば最近ずっとそうだ。僕にめちゃくちゃ話しかけて来る。最初の頃からそんなだったか?」

 また喉が渇いて来たのでウイスキーを飲んだ。もう味も匂いもしない。高級だろうが何だろうが、酔っ払ってしまえば一緒なのだ。

「それは、最近のお前がちゃんと俺の声に反応をしてくれるからだ。俺が話しかけても、いつもお前は無視するか怒鳴るかのどっちかだっただろ」

「そうだっけ?」

 あんまり自分では意識をしていないが、もしかしたら僕も変化している部分はあるのかも知れない。もやがよく喋るようになっただけじゃない。僕もよく喋るようになっている。確かに、こうして会話をする事が増えた。

「俺は元々おしゃべりなんだ。もっとたくさん話をしたいんだ。だから今日は嬉しいぞ。すごく珍しい事に、お前とこんなにちゃんと会話が出来ている。明日は雪が降るかもな」

 僕は空を見上げた。今日の空には雲一つ無い、満天の星空が広がっている。満月も相変わらず美しく輝いている。

 綺麗な星空。

 星座には詳しく無いけれど、一つだけ知っているものがある。オリオン座だ。いつだったか忘れたけれど、寺島さんが教えてくれた。

「あれがオリオン座だよ。真ん中に点が三つ並んでいて、それを結んでベルトになっている。あんなに綺麗に三つ並んでいる事なんて奇跡だから、オリオン座は見つけやすいね。ギリシャ神話の無敵の狩人の星座だよ」

 寺島さんの可愛らしい笑顔と、僕の耳を優しく撫でる声を思い出す。場所がどこだったか忘れたけれど、夜、どこかの公園で教えてくれた。だから、オリオン座だけは知っている。

「明日は雪は降らないよ」

 僕は、夜空に浮かぶオリオン座を見ながら、キッパリと言った。

「そもそも、明日がどうなろうと、僕にとってはどうでも良い」

 視線を夜空からもやに移して言う。

「明日なんか、僕の知った事じゃない」

 ボトルに残っていたウイスキーを一気に飲んだ。強烈な吐き気が喉元にまで登って来る。全身に力を入れて、それを飲み込む。まだ少しだけ残っているウイスキーのボトルをその辺に投げ捨てる。カランカランとボトルが転がる音がした後、何かにぶつかって大きな音がした。

 そして、辺りが静かになる。それを確認してから、僕は立ち上がった。

 そのままよろよろと歩き、落下防止用のフェンスを掴む。自分の背丈よりも高いそのフェンスを、僕はよじ登って行く。ウイスキーばかり飲んで、たいしたものを食べていない上に運動不足だから、このフェンスを登れるか不安だったけれど、案外簡単に登れた。

 フェンスの向こう側にゆっくりと降りる。僕の足先にはもう地面は無く、はるか下の方に木々の頭だけが見えた。このマンションの裏は誰も立ち入らなさそうな雑木林が広がっている。もちろん手入れなんてされていないから、色々な植物が伸び放題で、荒れ果てていた。それも僕にはちょうど良かった。

 木々の頭の下は暗闇で何も見えない。視線を上に上げる。オリオン座が綺麗に見えた。

「すごく気持ちの良い日だな」

 大きく息を吸い込んで、深呼吸をする。肺に溜められるだけ空気を溜めてから、ゆっくりと吐き出していく。

「本当に良い日だ」

 もう一度大きく息を吸う。肺にしっかりと溜めてから、ゆっくりと吐く。気持ちが落ち着いて来た。

「お前、やる気か?」

 もやはフェンスをすり抜けて僕の横に来た。

「今のお前の顔、それを俺は知っている。今までにも色々なやつのその顔を見た」

 もやが、今までで一番静かな声で言った。

「そうなんだ」

 僕がどんな顔をしているのか、もう興味が無かったので聞かなかった。

「前々から決めていたんだ。でも、タイミングが無くてね。でも、今日はとても良い日だ。とてもタイミングの良い日」

 僕の気持ちはこの上なく晴れやかで、こんな開放的で自由な気分を味わえるなんて、僕はきっとすごくラッキーなのだろう。

「そうか。決めた事なら仕方が無いな。短い間だったけれど、楽しかったよ。お前みたいな逸材にはしばらく会えないだろうけれど、気長に待つよ。さようなら」

 下を見ると暗闇が僕を歓迎してくれていた。

 大きく息を吸う。今までで一番大きく。肺が破裂するんじゃないかって程大きく息を吸って、少し止める。そして、それからゆっくりと、ゆっくりと、息を最後の最後まで丁寧に丁寧に吐いた。

 決心がついた。

「ああ、さようならだ」

 そう言って、僕は一歩を踏み出した。

 踏み出したつもりだった。

 だけど、僕は一歩も足を踏み出していなかった。

「どうしたんだ?」

 もやが話しかけて来る。

 僕は近くにいたもやを鷲掴みにすると、そのまま下に広がる暗闇に向かって思いっきり放り投げた。もやは何も言わずに静かに落ちて行く。そのまま音を立てる事も無く、暗闇に消えて行った。

 しばらく、その暗闇を見つめる。どれだけ見つめても、そこにはただ暗闇があるだけだった。

 一つ、また大きく深呼吸をする。

 暗闇から目を離し。振り返ってフェンスを登る。

 そしてそのまま安全地帯に戻った。

 フェンスを降りる途中、手が滑って落ちてしまう。コンクリートの地面に転がり、身体を打ちつけた痛みが僕を襲う。その痛みを感じられた事が、今はとても嬉しかった。

「あーあ、今日は疲れたな」

 正真正銘の独り言を言う。視界の隅っこに、さっき投げ捨てたウイスキーのボトルがあった。僕はそれを拾って飲む。

 ウイスキーを飲み終わると、仰向けに寝転がった。満月、オリオン座、色々な美しいものが見える。宇宙はこんなに広く、素晴らしいものなんだ。もしかしたら、宇宙人の乗るUFOだって見えるかも知れない。

「あー、本当に今日は疲れたな」

 もう一度、さっきよりも大きな声で独り言を言った。そしてそのまま僕は目をつむった。

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