第十二話

「お前が望む幸せは手に入れられたか?」

 もやが話かけて来た。

 固い床の感触、鼻に残るウイスキーと吐瀉物の臭い、そして血の臭いも少し。

 僕は天井を見上げていた。また夢を見ていた。起き上がり、すぐにウイスキーを飲む。

 最近、ウイスキー以外に何を口にしているのかが分からない。まともに食べ物を食べていない気もする。体重もだいぶ落ちている。腕も細くなった。最後に何かを食べたのはいつだろう?いつかは分からないが、ドーナツを食べた記憶がある。それはチョコレートやホイップクリームがたくさん入った甘いドーナツのはずだったが、何の味もしなかった。全然美味しくない。これじゃあ、食べ物を食べる意味が無いなと、食事をしなくなったんじゃなかったっけ?僕は、甘い物が大好きなはずだったのに。

「父さんや母さんを幸せに出来たか?親孝行出来たか?それが当たり前なんだろ?」

 コップに残っていたウイスキーを飲み切り、辺りを見渡す。空のウイスキーボトルがいたる所に転がっていた。これじゃあ、ウイスキーボトルで絨毯が出来そうだ。そして、中身が入っているものは一本も無い。ちょっと前までは、中身の詰まったウイスキーボトルしかなかったはずだ。有り金全部を使い切る勢いでウイスキーを買ったのに、それもすぐに無くなる。

 何でだよ。

 何で無くなるんだよ。ウイスキーは僕の命だって言っているだろ。ウイスキー無しで、僕はどうしたら良いんだよ?

「お前、父さんの声を覚えているか?」

「父さんの声……」

 父さんの声を、僕はもう何年も聞いていない。正直、どんな声だったのか、もう覚えてはいない。

 お金の事で実家に電話をする事はあっても、必ず母さんにかけていた。父さんとは話さない。それは、父さんに怒られるのが嫌だからでは無い。電話をかけると怒ったりして面倒臭くなるのはむしろ母さんの方だ。父さんなら二つ返事でお金をくれるかも知れないし、もしかしたら僕の現状を変えてくれる何かをしてくれるかも知れない。父さんと話をすれば、僕が変われるチャンスはあると思う。だけど、それは出来ない。父さんに連絡をするのは絶対に嫌だった。

 父さんには、今の僕を知って欲しくはなかった。

 父さんはものすごく現実的に物事を考える人だった。それなのに、僕がどんなに荒唐無稽な夢を語っても応援をしてくれた。飽きっぽい性格もあって、僕の将来の夢は次々と変わったけれど、そんな僕を父さんは一度も否定しないで、全部の夢を応援してくれた。「東京で働きたいから」と突然言った時も、「頑張れ、応援する」とだけ言ってくれた。

 僕が実家を出た日、駅のホーム。あれやこれやと、ずっと僕に話しかけて来る母さんや弟から少し離れて、父さんは静かに缶コーヒーを飲んでいた。

 電車がいよいよ出発するという時になって、父さんは僕の方に静かに近づいて来た。そして「お前の成長を楽しみにしている。立派になったらちょっとで良いから家に帰って来い。その時、一緒に酒でも飲もう」と言ってくれた。

 その後、父さんはすぐに離れて、それからは何も言わなかった。短いけれど、その言葉に父さんの優しさが詰まっている気がして、とても嬉しくて、東京に向かう電車の中で僕は泣いた。

 そんな事を言ってくれた父さんに、今の僕の姿は見せられない。人として立派にならないと、僕は実家には帰れない。

「結局、お前は、お前の父さんの願った、たった一つの幸せすらもぶち壊しているんだよ」

 僕は手に持っていたコップをもやに投げつけた。しかし、もう、投げる手に力が入らなかった。緩い放物線を描き、コップはもやをすり抜けて壁に当たった。すごく弱々しい音が鳴った。そのままコップは床に落ちる。コップは割れなかった。中に入っていたウイスキーが少しこぼれただけだった。

 僕はこの部屋でたくさんのコップを割り、たくさんの物を壊した。だから、この部屋は色々な物の残骸だらけになっている。掃除もしないから、どんどん溜まっていく。この部屋を歩くとパキパキと音がする。素足で歩くと怪我をする。そんな部屋だった。

 物を一つ壊す度に、僕の心も一つ壊れていった。そしていよいよ、壊れる物が無くなる時が来たみたいだ。

「残念だね」

 もやが笑う。

「頼むから、静かにしてくれ。もう、僕を放っておいてくれ」

「それは無理だな」

「どうして?」

「面白いから」

 身体に力が入らない。僕はこいつを黙らせる事が出来なくて悔しい。その無力感も嫌だ。だけど、もうどうする事も出来ない。僕に出来るのは、ただ唇を噛む事だけ。噛んだ唇から血があふれて来る。ウイスキーと吐瀉物と血の混じった臭いがする。もやは、そんな僕を見てさらに笑う。

 何でこいつは僕につきまとうんだ?何で僕の心をかき乱すんだ?何で僕の大切な思い出を全部踏みにじって行くんだ?何で僕を苦しめるんだ?もうやめてくれよ!

「今から寝るんだろ?もう良い感じに酔っ払っているもんな。そろそろ気絶するみたいに寝る時間だぞ。だから、今のうちに言っておくな。おやすみ」

 もやは容赦してくれない。今の僕のたった一つの願い事すら聞いてくれない。

 この部屋で、僕の心はどんどんボロボロになっていって、残骸となって部屋に溜まっていく。それをゴキブリか何かが食べているかも知れない。

 最近、色々な事が薄っぺらくなって来た。色も温度もよく分からない。食べ物の味も、花の香りも、美しい音楽も、人の優しさも、何もかも薄っぺらくて、全然現実感が無い。

 今の僕が現実感を感じるものは、お酒ともやだけだった。

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