第十一話
「僕、将来、プロ野球選手になるね」
「ほお、それは楽しみだ。それなら、今のチームでも四番バッターにならないとだな」
父さんはビールを飲み、唐揚げを食べながらそう言った。
ここは僕の実家だ。何年も前の、僕が小学生の頃の。
「今日の練習でもホームランを打てたし、監督にしっかりアピールも出来ているから、そのうち僕が四番バッターになるよ」
「それは楽しみね。でも、母さんはそっちよりも宿題の方が心配よ。ちゃんとやっているの?」
「うっ……。宿題は、後でちゃんとするよ……」
一切宿題に手をつけていない僕は、母さんからその事を言われて勢いがそがれてしまう。
「兄さん、野球から帰って来て、ずっと部屋でゲームしていたもんね」
「おい、それを言うなよ」
弟に言われたくない事を報告されて、僕は焦って言う。
こんな感じで、家族みんなで食卓を囲む楽しい時間に、僕は将来の夢を語っていた。
父さんは今度は枝豆を食べながらビールを飲んでいる。テレビでは野球中継が流れていて、父さんはそれを見ている。父さんはプロ野球の試合を見るのが好きだ。そしてビールが大好きだ。仕事が終わって家に帰って、家族みんなでご飯を食べながらビールを飲むのが最高に幸せなのだそうだ。
母さんは新しい料理を持って来たり、僕達が食べ終わった食器を片付けたりしながら、時間を見つけて自分も食べている。母さんは効率的に動く事を重視している。何事もきちんとやる性格の人だ。
弟は、嫌いなトマトを見つめながら、険しい顔をして悩んでいる。食べ物を残すと母さんに叱られるからだ。
それは何でもない、でも幸せな家族の時間だった。
「僕がプロ野球選手になったらたくさんお金がもらえる。そうしたらそのお金で父さんも母さんも幸せにしてあげるよ」
「それは楽しみだ。何を買ってもらおうかな?車とかでも良いのか?」
父さんはビールを飲んで上機嫌だ。僕の話にもどんどん乗ってくれる。
「めちゃくちゃすごい高級車を買ってあげるよ」
まだプロ野球選手になってもいないのに、将来なれると根拠も無しに確信していた僕は、自信たっぷりにそんな事を言った。
「私は何をしてもらおうかな?庭付きの一戸建てとかどうかな~。花壇でお花を育てるのが夢なの」
母さんがデザートのプリンを持って来ながら言った。
「ものすごく広い庭のある一戸建てを買ってあげるよ」
また僕が自信満々にそう答える。
「そんな広い家だと手入れが大変そうだなぁ。母さん大丈夫か?あっ!ホームランを打たれた!!」
父さんが応援しているチームが相手にホームランを打たれて逆転されたようだ。父さんは「キャッチャーの配球が悪いんだよ!」とか言いながら悔しがっている。
「僕は新しいゲーム機で良いよ」
弟がトマトだけを残したお皿を母さんに見つかって注意されている。その中でも僕へのアピールを欠かさない。
「お前は自分で稼いで買えよ」
「何で僕だけ買ってくれないんだよ」
弟が文句を言う。でも、それは本気で言っているわけではなくて、冗談で言っているのが分かった。僕は本気なのだが。
「僕は父さんと母さんを幸せにしたいんだよ。お前は自分で頑張れ。頑張ってお前も父さんと母さんを幸せにするんだ。後、トマトも食べろ」
僕は弟のトマトを指差しながらそう言った。いよいよ逃げられなくなった弟は、泣きそうになりながらトマトをかじりだした。
「何でいきなりそんな事を言い始めたんだ?」
父さんが聞いてきた。当然の疑問だと思う。だけど、そんな大きな理由があるわけでは無い。ただ、今日、学校で書いた作文のテーマが「将来の夢」で、僕はそこに「プロ野球選手」と書いたからだ。
「子供が親に孝行をしようとするのは当たり前の事じゃない?」
「兄さんがよく言うよ。いつもお小遣いが少ないとか、母さんの文句ばっかり言ってるのに」
僕が純粋な気持ちで本気で話しているのに、弟は茶化して来る。
「お前も、もっと親孝行する事を考えろよ」
「兄さんみたいにポッと思いつきでやるのは嫌だなぁ。誰かに言われたんでしょ?『親孝行は良い事だ』って。兄さんは良い事をして褒められたいだけなんだよ。そんな、見返りを求めるような薄汚い心で親孝行をするのはどうかと思う」
「お前はまたそうやって理屈をこねるばかりで。ほら、これをやるよ」
僕は自分の分のトマトを弟の皿に入れた。
「何でだよ!」
「僕の優しさだよ」
「いらないよそんなの!」
弟がしかめっ面でトマトを僕の皿に戻して来る。僕はそれをすぐに食べた。
「あ~、美味しい」
「そんなの美味しいなんて、どうかしているよ」
「あんたは早く食べなさい!」
母さんが弟を注意する。また弟はトマトとにらめっこを始めた。「どうかしている」はこっちの台詞だ。こんな美味しい物を食べないなんて、弟はどうかしている。
「でもな、誠。父さんは今のままでも十分過ぎる程、幸せだぞ」
父さんがビールを飲む手を止めて、野球中継から目を離し、僕の方を見て少し真剣な顔になった。
「お金が無くても、高級車が無くても、庭付きの一戸建てが無くても、新しいゲーム機が無くても、母さんやお前や信治がいるだけで父さんは幸せだ。別にお前が何か特別な事をしているわけじゃない。だけど、毎日毎日、私の前に現れてくれて、どんな話でも良いから私と会話をしてくれて、コロコロと変わるお前の表情を見て、時に笑って、時に泣いて、そんな感じの事を出来るのが父さんの幸せなんだ。これ以上は特に無くても良い。ただ、今みたいに家族みんなで楽しく過ごせたら良い」
テレビからは父さんが応援してるチームがまた点を取られたという情報が流れているが、父さんはそちらを一切見ずに僕の顔を見ている。
「格好をつけているみたいに見えるし、何かの映画の台詞みたいだけど、それが父さんの本心だからね」
僕のさっきまでの勢いは完全に無くなってしまった。
「でも……。でもさ。お金があって、色々な物が手には入ったら、そっちの方が良いでしょ?」
「確かに良いかもしれないが、そのために今ある幸せを失うのは嫌だ。それに、大切なのはお金や物で何をするかだよ。今のままで幸せなら、これ以上、そんなにたくさんのお金はいらないし、物だってそんなにいらないんじゃないかな」
「そうなの?」
「ああ、そういうもんだぞ」
たくさん物が手に入れば、その分、幸せになれると思っている僕には少し理解が出来なかった。物を手に入れればそれで何をやるかなんてすぐに分かるし、そういう事を積み重ねれば幸せになれるんじゃないの?
「でもまあ、とにかく。僕はプロ野球選手になるよ」
「頑張れ。誠の夢を、父さんは応援するよ」
父さんはビールを一口飲み、野球中継に戻った。
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