第八話

「辞めるって、どういう事だよ!」

 きつい部活動が終わった後、人のいなくなった部室で僕と北野はにらみ合っていた。後、数ヶ月もすれば高校球児の夢の舞台、甲子園への出場をかけた最後の夏の大会が始まる。そんな時に……。

 僕と北野はこの野球部で一年生の頃からバッテリーを組んでいる。北野がピッチャーで僕がキャッチャーだ。

 北野はこの地区でも知られている好投手だった。速くて伸びのあるストレートを最終回まで投げ続けられるスタミナがあり、コントロールも抜群で、切れ味が最高のスライダーも投げられる。それらを駆使して北野は三振の山を築いていった。高校生にはなかなか打てるピッチャーでは無い。バッテリーを組んでいる僕ですら最初の頃はまともに捕球が出来なかった。特にスライダーがすごかった。本当に目の前から消える。「カミソリような」とか「ナイフのような」とか、そんなイメージのスライダーだ。

 中学時代にエースピッチャーだった僕は、進学した先の高校でも野球部に入りピッチャーをしようと思っていた。僕が進学した高校は県内でも有名な進学校で、部活動よりも勉強に重きを置いた学校だ。当然、野球部はそんなに強くは無い。僕が入学する前の年の夏の大会は、それ程強くない高校を相手に「十二対〇」のコールド負けをしていた。そんな弱小野球部なら、高校でも僕はエースピッチャーになれると思っていた。ところが、練習初日に新入生の北野が投げる球を見て驚いた。「なんでこんなすごい奴がこんな弱小校に入ってくるんだ」と、みんなも驚いていた。

 すぐに「こいつには勝てない」と分かった。僕とは格が違う。平凡な中学校でエースピッチャーになって「自分には才能がある」と思っていたけれど、北野を見て圧倒的な差を前に初めて自分が「凡人だった」という事を知った。

 才能の絶対的な差、それは努力で埋められる差では無いのだ。

 結局、僕は肩の強さと僕以外に北野の球をまともに捕れる奴がいないという理由でキャッチャーになった。北野が投げない時には時々僕が投げた。そんな立ち位置は正直不満だった。中学生の頃はエースピッチャーで背番号は当然「1」で、高校生ではエースにはなれず、控えピッチャーで背番号は「2」で。でも、仕方が無い。だって僕は北野には勝てないから。

 北野は自分の才能に甘える事無く誰よりも練習に打ち込み、球の速さ、コントロールの良さ、変化球の質、スタミナなどをどんどん伸ばしていった。最終学年になる頃にはプロ野球球団のスカウトも見に来るレベルのピッチャーになった。

 北野は本当にストイックだ。納得が出来ない時には納得が出来るまで球を投げ続けた。それにバッテリーを組んでいた僕も付き合わされたのだが、とてもキツかった。でも楽しかった。「試合に勝つ」という最高の結果がついて来たから。

 僕達が最上級生として出場した秋の大会では北野のおかげで県で優勝する事が出来た。それは学校が始まって以来の快挙であった。春の選抜高校野球に出られるかも知れないと周りから言われた。その次の各県の代表が集まるさらに大きな大会で負けてしまったので、結局選抜には出られなかったけれど。

 北野が野球部の希望となり、勝つ事が出来る、甲子園に行けるかも知れないという雰囲気が出て来ると、他の部員達も練習に力が入る。勝てる可能性の無い弱小野球部だとモチベーションが上がらない。どうせ頑張っても無駄だと思うからだ。でも、可能性があると人は変わる。誰に言われずとも自分達で考えて練習をするようになった。

 「自分が見てきた中で、お前達の世代が一番練習をしている」と監督に言われた。そう言う監督自身も力が入っただろう。こんなチャンス、こんな弱小野球部じゃもう来ないかも知れない。一生に一度のチャンスだ。一度も甲子園に出場した事の無い、毎年一回戦でコールド負けをするチームに超高校級のピッチャーが現れた事は話題になり、今年の夏の大会のダークホースだと言われ、期待されていた。

 それなのに。

 ブルペンでの投球練習後に北野から「少し話があるから、部活が終わった後に部室に残っておいて欲しい」と言われた。その時は「今、言えよ」と軽い感じで返したのだが北野は真剣で、何か重要な事を言おうとしているのは分かった。それが部活を辞める話だった。

「言ってただろ?俺、医者になりたいっていう夢があって、そのために目指している大学があるって。医者は俺の人生をかけた夢だ。一番大切なものだ。野球よりも」

 北野は野球だけでなく、勉強も出来た。難関大学にたくさんの合格者を出すこの高校でも上位の成績を残している。学年全体で一桁台の順位だとも聞いた事がある。確かに「医者になりたい」とも言っていた気がする。あんまりちゃんと聞いていないから意識はしていなかったけれど。

「この前の模試、少し成績が悪かったんだ。もっと勉強をしないと、もっと勉強に時間を使わないと、自分の夢は叶わない。そう分かった」

「それで辞めるのか?」

「そうだ。野球なんかをやっている場合じゃ無いだろ。自分の夢が危ないかも知れないのに。優先順位を間違えたらいけない。俺が一番に優先するのは『医者になる事』だ。野球なんかじゃない」

「野球なんかって……」

 自分の声がどんどん冷たくなっていくのが分かった。今、北野にどんな夢を語られても、僕にはそれを応援出来る気がしない。

 心の奥から熱い怒りが湧いてくるのを感じる。他のみんなも一体どんな気持ちで野球に取り組んでいると思っているんだ。

「元々、野球は高校で終わりにしようと思っていたんだ。最初は楽しくてやっていた。だけど、最近は野球がちょっと上手いから周りの期待に応えるためになんとなくやっているだけになっている。周りから言われてやっているんだ。自分に余裕があればその期待に少しぐらい付き合ってやれるけれど、今は余裕が無い。高校野球が終わっても人生は続く。自分の夢と高校野球どっちが大切か。すぐに答えは出た」

 北野の意思は固く、もうどうするか決まっていた。僕に相談をしたいわけでは無く、ただ結果を報告したかっただけのようだ。

「だけど、今年の夏の大会はこの野球部が始まって以来の大注目で、だって、今まで大会で一回勝てば奇跡みたいなチームが甲子園に行けるかも知れないんだぞ。それはお前がいるからだ。お前がいるからチームが勝てる。チームが勝てるからみんなも頑張れる。それなのに、一番重要なお前が辞めたら……」

 ここで僕が北野を止めないと、僕を含め他の部員達の人生を変えてしまう事になる。北野がいないと、少し練習をして力をつけているとは言え、元の弱食野球部に元通りだろう。それぐらい北野はこのチームには重要なのだ。北野がいなくなって、希望を失ったら、残った僕達は何をモチベーションに残りの期間を頑張れば良いんだ?

 だけど、僕は北野を止められる気がしなかった。北野は一度決めた事は必ずやる。そういう奴だった。他人の思惑に流されたりしない。自分が大切にしているものを一番に考える。自分が人生に必要だと思えば、周りが何と言おうとやる。そういう芯のある奴だった。

「夏の大会、応援には行くからさ。頑張ってくれよ」

 そんな他人行儀な言葉を聞いた瞬間に、僕の中にあったものが爆発した。

「お前!お前がどれだけの人の期待と夢を背負っているのか分かっているのか!?その人達の事を裏切るのか!?お前、そんな自分勝手な事が許されると……」

 僕が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げても、北野は表情を一切変えない。ずっと冷静だ。僕の言葉をそっと遮り、自分の考えを言う。

「それは、君達が勝手にやっている事だ。俺が期待してくれと言ったわけじゃない。そんな他人が勝手にした期待になんで俺が自分の人生を崩してまで応えなくちゃいけないんだ?余裕があれば多少は応える。だけど、今は余裕が無いんだよ。俺が自分勝手だって?自分達の夢のために俺に期待を押しつける君達の方がよっぽど自分勝手じゃないか?」

 もうこれ以上、北野と言い合っていても無駄だと思う。北野は部活を辞める。もう自分の夢を目指す事しか考えていない。いや、最初から自分の夢しか見えていない。真っ直ぐな奴だから。僕らの事なんか見えていないんだ。

「お前みたいな人でなしが、良い人生を送れると思うなよ!」

 僕はそう叫んだ。何を言っても変わらないが、何かを言わないと僕の気持ちが収まらない。

「俺は、お前とバッテリーを組めて楽しかったよ。ありがとう」

 そう言う北野を無視して、僕はバッグを掴むと部室から出て行った。

 後日、北野は退部届を出した。他の部員達は焦り、慌ててしばらくその話で持ちきりになっていたが、僕はその輪には入らずにひたすら自分の事に集中していた。

 その後、時々、北野が図書室で勉強をしている姿や塾に行く姿を見かけた。髪型も坊主頭から徐々に普通の髪型になっていった。あのマウンド上で堂々としていて、頼もしかった北野はもういない。北野は僕にとって、ただただ憎らしい奴になった。

 絶対的なエースを失った僕らは、操縦士のいなくなった飛行機のようで、もう、どうしたら良いのか誰も分からない。あれだけ頑張っていた練習も「練習時間が来たからとりあえず」という惰性でやるようになった。どの部員も心ここにあらずだった。今、何が起こっているのかを誰も理解出来ていなかった。みんなが悪い夢を見ているような、そんな気分だった。

 その無意味なふわふわ飛行を変えられないまま、あっという間に夏の大会を迎えた。

 僕達は、初戦で格下と言われていた相手に十対〇のコールド負けをした。最後のピッチャーマウンドには僕が立った。

 相手の六番バッターに、レフトスタンドにダメ押しのホームランを打たれた事は覚えている。ランナーを背負って、これ以上は点を取られたくは無いと、気持ちを込めて投げたのだが、相手は難無くそれを捉えた。僕はただ、フェンスを越えて行くボールを見る事しか出来なかった。

 約束通り、北野は応援に来てくれた。応援席に座る北野は僕らと違って日に焼けておらず、髪も長髪と言われるぐらいに伸びていた。涼しい顔でうちわを仰ぎながら見ていた。

 最後のマウンドに立った時、僕は北野の方を見た。北野も僕を見ている、そんな気がした。その北野を見ていると、腹立たしい気持ちが湧き上がってきて「こんな所で終われるか」と気合いを入れて全力で投げた。その結果が十対〇のコールド負けだった。

 涙は出なかった。他の部員も誰も泣いていなかった。みんな、北野が辞めたあの日からずっと口をぽかんと開けて「訳が分からない」という顔をしていた。そしてそのまま僕達は最後の夏を終えた。

 北野は目指していた大学に合格し、大学でもちゃんと勉強して無事に医者になれたらしい。

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