第六話
「佐藤君の将来の夢って何?」
ここはどこだ?
頭がぼんやりとしていて働かない。目の前には見覚えのある学生服に身を包んだ女の子がいて、どうやら僕は椅子に座っているようだ。
首元が苦しい。
その苦しさの原因を探すために自分の身体を調べると、僕もまた見覚えのある学生服を着ていた。詰め襟の学ランだ。
ああ、なるほど。
詰め襟のせいで首元が苦しかったんだ。高校を卒業してから学ランなんて着る機会が無くなったし、そのすごく久しぶりの感覚に慣れずに息がちゃんと出来ない。
思い出した。ここは僕が通っていた高校で、僕が三年生を過ごした教室だ。
「ふう」
一つ大きく息を吐いて、とりあえず詰め襟のボタンを外す。首元が解放され、涼しい空気が入ってきて気持ちが良い。
肘が何か固いものに当たった。僕の肘に飛ばされた何かはバサリと音を立てて床に落ちる。それは数学の教科書だった。
ああ、そうか。その数学の教科書を見てさらに思い出す。ちょうど現代文の授業が終わった所で今から僕は次の数学の授業の準備をしようとしていたのだ。
さっき話かけて来た女の子が僕の落とした教科書を拾ってくれた。僕はそれを受け取り、礼を言う。
「それで、さっきの話に戻るけど、佐藤君は何か夢がある?」
女の子が同じ質問をする。この子の名前は、確か寺島さんだ。
寺島さんとは最近行われた席替えで隣の席になった。同じクラスでもほとんど話した事が無い。席が隣になっても挨拶をする程度だった。
「えっと、急にどうしたの?」
今まで会話らしい会話をした事が無い寺島さんから話かけられたので、戸惑ってしまった。
「私達、そろそろ自分の将来を決めなきゃいけない時でしょ?進学か、就職か、もしくは他の道か。どんな道かは分からないけどね。実は、私、まだ何も決まっていなくて、それで他の人の夢を聞いて参考にしようかなって」
「他の人の夢でも参考になるの?」
「分からないけど、このまま私だけで考えても全然出て来ないんだよね。私のやりたい事とか、夢って」
僕らが高校三年生になってしばらく経つ。僕は大学に進学しようと思っていたので、部活動を引退したら本腰を入れて受験勉強をしなくてはいけない。ただ、大学に進学するとは決めていても、将来自分が何をしたいとか、夢とか、そういったものは僕にもまだ無かった。とりあえず大学に行けば、何か見つかると思っていた。
「うーん。実は僕もまだ将来の夢とか無いんだよね」
正直にそう答える。
「そうだよねー。そんな簡単に見つからないよねー」
緊張感の無い、軽い様子で寺島さんはそう言って、笑った。
「佐藤君って、あんまり将来の事を考えて無さそう。今を生きられればそれで良いやって感じで」
「別にそういうわけじゃ無いんだけどね」
「じゃあ、どんな事を考えているの?」
実際、何も考えていない。
「うーん。でもまあ、普通かな。普通に生きられたら良い。お金を持ちたいとか、権力を持ちたいとか、人から注目されたいとか、そういう事は思わないし、僕は何不自由無く普通の幸せな人生が送れたらそれで良い。だから、普通に生きるにはどうしたら良いのかを考えているかな」
僕がそう言い終わった瞬間、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、僕の高校時代の仲の良かった友達、真田がいた。そう言えばこいつ、僕の後ろの席だったな。
「誠は夢がねえな。プロ野球選手になるとか言っとけよ」
プロ野球選手なんて。
自分がそんなものになれないと、はっきりと分かるぐらいには僕は大人になっている。
「プロ野球選手なんてなれるわけないじゃん」
「いや、分からないだろ」
「無理だね。それに、そんな夢、全然なりたいと思わない。いいか、大きな夢を叶えるにはそれだけ努力が必要だ。苦労も多い。僕は人生を出来るだけ苦労しないで生きていきたいんだ。プロ野球選手みたいな大きな夢じゃなくて、自分の身の丈にあった夢を生きる。自分の手の届く範囲にあるものを大切にして生きていきたいんだよ」
「はあー、つまんねえな。寺島さんもそう思うでしょ?」
真田が寺島さんに話を振った。急に話を振られた寺島さんは、少し困惑したが、すぐに表情を戻して言った。
「まあ、人それぞれ考え方はあるから別に良いんじゃない?それじゃあ、真田君の夢は何なの?」
寺島さんが僕に聞いたのと同じ質問を真田にもする。真田との付き合いは長いが、そういえば、僕も真田の夢を知らなかった。どんなのだろう。少し気になる。
「俺はまず良い大学に行く。それも理系の大学だ。理系の中でも化学系だな。そこに行って自分が興味を持った事について研究をするんだ。全てをそこに注ぎ込んでな。そのままエリート街道をばく進して、将来は大学教授になりたい。さらに研究に打ち込んで、世界に衝撃を与える成果を出して、ゆくゆくはノーベル賞とか獲って、俺の名前を後世に残すんだ」
真田は自信満々に胸を張ってそんな事を言った。それを聞いた僕は呆れた。ノーベル賞?そんなの無理に決まっている。
「僕は普通の大学卒業して、普通の会社に就職して、普通に結婚して、普通に子供が生まれて、普通にその子を育てて、普通におじいちゃんになって、普通に寿命を全う出来たら良い。真田みたいなアホみたいな夢なんか叶うわけが無い。そんなの追いかけるだけ無駄だよ」
僕がそう言うと、真田も意地になって返して来た。
「お前みたいな人生省エネ野郎に言われたくはないな。そんな普通の人生の何が楽しいんだよ?小さいんだよ、夢が。『少年よ、大志を抱け』って言葉をお前は知らないのか?誰が言ったのかは俺も忘れたけど、そんな感じで大きな夢を持っていたら人生も大きくなるんだよ。人生が大きくなったら楽しいんだよ。それが幸せなんだよ」
売り言葉に買い言葉、僕もついつい熱くなって言い返してしまう。
「それはどうかな?大きな夢しか見ていないと、小さな夢を見失ってしまう。それにさ、人の欲望は無限大なんだよ。大きな幸せを手に入れても次から次へとより大きな幸せが欲しくなる。終わりが無いんだよ。それじゃあ一生報われない。だから普通が良いんだよ。自分の足下に転がる幸せを拾って、それを大切にして、それに満足して『自分は幸せだ』って感じられる方が絶対に良いんだよ」
「何を偉そうに」
真田は拳を軽く握って僕の肩にパンチをした。
「痛いだろ。止めろよ」
僕も軽く叩き返す。
「向上心の無い若者に渇を入れてやっているんだよ」
「余計なお世話だ」
「二人は仲が良いんだね。面白い」
僕らの会話を聞いて、寺島さんがまた笑った。
「何を偉そうに」
もやが話かけて来た。
僕の目から涙が一粒こぼれる。何で泣いているんだろう?こんなのどうでも良い、昔の話なのに。
服の袖で涙を拭ってから、僕はウイスキーを飲んだ。舌の上でウイスキーを転がしてから一気に飲む。身体中にウイスキーが浸透していく感覚。それがとても気持ち良い。
ウイスキーを飲みながら、ぼーっとしているといつの間にか眠ってしまう。その時、たまに昔の夢を見る。いつの事を夢に見るのかは選べない。それは突然始まる。
夢は、登場人物として僕が出ているし、僕の視点で進むのだが、どうも現実感が無い。映画でも観ているように感じる。自分が主人公だけど、それを画面越しに観ているみたいな。自分が言葉を発しても、それを『今、自分は言葉を発したな』と判断出来る。俯瞰視点っていうのかな?その出来事を空から眺めているみたいなやつ。その夢では、僕がストーリーの流れと違う事をしようとしても出来ない。あらかじめ決められたゴールに向かって勝手に進んでいく。だから僕は、夢に身を委ねる事しか出来ない。そういう所が余計に映画っぽさを思わせるのだろう。
そういう夢は嫌いでは無い。本当に映画を観ているような気分で、この夢が今の僕にとってお酒以外の数少ない娯楽だ。だから、僕はそのまま夢を楽しむ。
夢から覚めると必ずもやが話かけて来た。それを無視して僕はウイスキーを飲む。どんな夢の内容だろうと、見終わった後のぼんやりとした余韻が好きだった。そういう夢を見て、何か行動を起こそうという事は無い。夢は夢、昔の事は昔の事だ。そんなものはどうでも良い。
こうしてまた夜が終わり、朝が来る。毎日毎日、時間だけは規則正しく過ぎていく。そして僕は、ただ生きていかなくてはいけない。
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