第二話

「あれ?」

 ぼやけた視界の先に汚れた天井が見えた。冷たい床と頭にリュックサックの感触、少しゴツゴツしているのはリュックサックの下にある空のウイスキーボトルのせいだろう。

「はぁ」

 深くため息をつく。どうやら眠っていたようだ。いつ眠ったのか、よく覚えていない。そんな事を思い出せる程、僕の頭は働かない。お酒の飲み過ぎで、最近の僕は常に二日酔いだ。毎日酔っているので「二日酔い」という言葉は当てはまらないかも知れない。毎日酔い、毎秒酔いだ。

 髪をかきむしる。伸ばしっぱなしで風呂にも入っていない髪は脂ぎっていて手に絡みついてくる。とても鬱陶しい。髪を切らなくてはいけない。そういう気持ちはある。だけど、何もしたくは無いという気持ちがいつも勝つので、僕が髪を切る日は来ないかもしれない。そもそも、髪を切らないでいた所で僕の生活には何の影響も無いので、もうどうでも良い。

 ああ、頭が痛い。心臓の鼓動に会わせて大きな石でガンガンと頭を殴られているみたいだ。誰が殴っているのか知らないけれど、痛いから止めてくれ。ぼやけた視界も全然クリアにならない。霧がかかったように景色が見える。そもそもまぶたに何かが引っかかっているようで、ちゃんと開かない。

「よっこらしょ」

 そんな情けないかけ声と共に身体を起こそうとする。だけど、起こせなかった。身体を起こそうにもまず頭が上がらない。脳みそが重たい液体になっているみたいだ。多少頭が動いても重たい液体は常に下に向かって溜まり、その物体を上に上げようとするのは普通よりも労力がかかる。僕の頭はなかなか床から離れられない。しかも、頭を動かす度に頭痛が酷くなる。今は、髪を掴まれて床に叩き付けられているみたいだ。このままじゃ死んじゃうよ。

 とりあえず、もう一度身体を起こそうと頑張ってみた。床に手を付き、全ての力を込める。すると、手のひらに激痛が走った。僕は思わずうめき声を上げる。力が抜けて、そのまま床に倒れ込んでしまった。立ち上がる事が出来ない。

 自分の手のひらを見ると、血が流れている。その流れる血の原点を見てみると小さなガラス片が刺さっていた。それはおそらくコップの破片だろう。そういえば、昨日、コップを割ってしまってそのまま片付けないで放置した気がする。

 ガラス片を手から引き抜いて、その辺に放り投げ、三度身体に力を込める。今度はすんなり起き上がる事が出来た。

 周りを見渡す。散らばったいくつかの小説、質の悪いラジカセ、財布、請求書などのよく分からない紙くず達、いつ洗濯したのか分からないしわくちゃになったシャツ、中身の入ったゴミ袋、そのゴミ袋からはもちろん酷い臭いがしている。そして、床に転がる大量の空のウイスキーボトル。それがざっと見た感じの僕の部屋だった。

 部屋には音楽が流れていた。昔、脳に良いからと音楽なんて一つも興味が無いのにクラシック音楽のCDを買った。モーツァルトとかそういう人の曲だ。今、流れているのは何の曲だろうか?よく分からない。だけど、月明かりに照らされているかのような静かなメロディーで、そのメロディーは僕の心の中の不満を刺激し、叫び出したくなるぐらい僕をイライラさせる。

「おはよう、やっと起きたか。気分はどうだ?」

 ああ、思い出した。

 この部屋には僕だけでは無く、もう一人いた。いや、正確には「一人」というのはおかしいか。なぜならそいつは人では無いからだ。そいつがどんなやつなのかと言うと、一言で言えば「もや」だった。どす黒い、この世の汚いものを全部混ぜ合わせたような黒っぽいもや。そいつは部屋の隅っこにいて、僕の事をじっと見ている。形なんて良く分からないのに、僕はなぜかそいつを感覚で人型だと思っている。そいつは僕を見て、ニヤニヤと汚く、人をイライラさせる笑みを浮かべている。そんな気がする。「気分はどうだ?」だって?最悪だよ。お前がいるから。

「今日は何をするんだ?」

 もやが聞いてきた。もやの声を聞くとムカついて来て殴りたくなる。だけど、こいつを実際に殴る事は出来ない。なぜなら、もやだから。やり場の無い怒りを拳に込める。手を握り過ぎて爪が皮膚に食い込んで痛い。

「今日は何をするんだって、聞いているだろうが」

 無視をしようとする僕に、もやはさらに聞いてきた。心底面白くて仕方が無いようだ。僕は耳を塞いだ。

「またそうやって耳を塞ぐ、俺の声を聞かないようにする。無駄だよ、そんなの」

 もやの声はまだはっきり聞こえる。

 耳を塞いだ所で意味は無い、そんなのは分かっている。僕がこうして耳を塞いでいるのは、自分の気持ちの問題だ。僕はもやを意識の外にやるため、最近学んだマインドフルネスを実践した。具体的には自分の呼吸にだけ集中する。

「お前、今日も何もしないんだろ?」

 僕の頭の中に、静かで美しいクラシック音楽が流れる。

 呼吸に集中して。吸って、吐いて。

「お前は何もしない。いや、何も出来ない」

 もやの声が美しいクラシック音楽に紛れて聞こえてくる。

 呼吸に集中。吸って、吐いて。

「お前は何も出来ない。何もだ」

 いつの間にか、クラシック音楽が止まって、もやの声だけになっていた。

 吸って、吐いて。

「何も出来ないんだよ。お前は、クズだから」

「うるさいんだよ!」

 その辺に転がっていた割れたコップをもやに投げつけた。コップはもやをすり抜けて後ろの壁に当たって落ち、バラバラに砕けた。もやは笑っていた。それを見て、僕はさらにイライラする。

「あーあ、完璧に割っちゃった。そのコップ、お前の大切な人からもらった大切なコップなのに。あーあ、もったいない。ちゃんと後で片付けておけよ。足とか切っちゃって危ないからな」

 僕はもやを無視して横になり、目をつむった。もう寝る。こんな時にはもう寝るしかない。大きく一つ息を吐く。アルコールと吐瀉物の臭いがした。

「おやすみ」

 もやがそう言った。その声にイラッとして、すぐに起き上がってまた何かを投げつけたくなったが止めた。そんな事をしても無駄だから。もやには何の意味も無い。どうする事も出来ない怒りを抱えながら、僕は眠りに落ちていく。

 今の状況では、考えたら負けなんだ。

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