呪われた狼に弾丸を

Aiinegruth

第1話

 揺蕩えども沈まず。それが、パリの標語だった気がする。見上げれば、相変わらず空は水底にも似て暗い灰色の煙に満ちていて、重鈍な大気が割れたアスファルトに圧を駆けながら流れる。災厄の町、ジェヴォーダンの大通り。車一つ通らない国道の左右にそびえた雑居ビルの葬列は、ナントから続く高速道路、オートルート一一号線の高架下で行き止まりを迎えていた。


「見つけたわよ、ルーガルー!」

「おいおい先走るなベルナデット!」

「アンタが遅いのが悪いのよアベル」


 色のない世界で、アスファルトに積った塵埃に靴の跡を残しながら、進む影が二つ。アベルと呼ばれた男は、先を往く少女、ベルナデットに追い縋るように走る。背中に銃を抱えているのもあるが、彼女と彼では基本の膂力が違う。唸る足の筋肉、乱れない呼吸。常人離れした、いや、ヒト離れした運動神経は、この場においてはベルナデットだけの特権ではなかった。

 半壊した道路の下に、背の高い男の影がある。人に化ける獣、ルーガルー。この街でたまに見かける行商人に似た浅黒いマントを被った怪物は、振り向くと、曇った翡翠の瞳をきらめかせて、言う。


「チッ、その匂い、特攻課か……もう一人はおいおい、お仲間じゃねーか」

「誰が仲間だッ!!」


 地面を蹴る音。同類呼ばわりされた少女は、凄まじい速度で飛び出すと、その男の首元に爪を突き立てる。だが、直撃の寸前、彼女の視界を闇色が覆った。こいつが着ていた布だ。そうベルナデットが気付いたときには、大男は身を綺麗に翻して数メートル右方の地面に降り立っていた。跳躍に少し遅れて、着地。二つの動と静があたかも一人のもののように重なってアスファルトを叩く。男は舞にも似て身体を引き、あるいは進め、少女の攻撃を軽くいなしながら笑う。


「いきなり襲いかかってくるとはマナーがなってないなお嬢ちゃん」

「黙れ! ルーガルーは全部殺す!」

「そうか、お前、なりそこないかぁ……通りで弱っちい」


 激怒の咆哮が響く。女性というには小さな手足が何度も感情のままに空気を裂く。度重なる大振りな攻撃は、男にとって余りに大きな隙だった。風切り音。裂帛の蹴りが、爪を振り被ったベルナデットの腹部に命中する。小さな身体は砲弾さながらに八〇メートル先の半壊した高速道路の側面に着弾し、激震と共に打ち崩した。


「ベルナデット!?」


 街を揺るがす爆音が響く。建造物に巣食った鳥や小さな獣たちの影が、慌てるように距離を取る。地鳴りに彩られて倒壊するのは、高架橋の上の煤色の二車線道路。いままでどうにか形を保っていたジェヴォーダンの文明の名残り。舞い上がった煙から逃れ、叫びを上げたアベルだが、灰燼の中から堂々とした足取りで現れた大男の姿を正面に捉えて、呼吸を整える。

 フランスがこんなに揺れた日はそうないだろう。あらゆるものが崩れ落ちる音を背負って、一人立つ翡翠の眼の男。彼はマントの下の青く意匠の多い軍服に飛び散った砂を面倒そうに払うと、短いその髪を掻き上げながらアベルをすがめた。人に化ける獣、ルーガルーはいつもそうだ。そうやって、当たり前のような顔で破滅を連れてやって来る。


「おいおい特攻課がなりそこないの心配してる場合か?」

「チッ、タイマンは得意じゃないってのに……」

「グルウァ!」


 武器を取り出す暇は、どうにかあった。スコーピオンEVO3。握られるチェコ産のカービン銃。獣性を隠そうともしない飛び掛かりを前転で躱すと、アベルは振り向きざまに一撃をしかける。


「当たれ!」

「おっと危ねえ」

「銃撃を簡単に躱すなよ化け物」

「食い殺す」


 弾丸は命中しなければ無意味だ。一方が獣の筋肉を唸らせた攻撃を加え、もう一方が、いなし、躱し、撃つ。だが、膂力が違う。攻防を重ねるにつれて不利になっていくのはアベルの方だった。少しずつ後退し、崩壊した高速道路の壁面に腰を打ち付ける。頬に鋭い血の線が走り、ポケットから漏れた警察手帳が細断されて宙を舞う。上がる息。こいつには隙がなさ過ぎる。一人では、勝てるかどうかすら怪しい。そう思ったアベルは、背後の灰色の壁を拳で叩きつけて叫んだ。


「そろそろ起きろベルナデット!」

「何?」


 身体を深く構えた眼前の大男の動きが止まる。

 その一瞬ののち、二人の直下、瓦礫に埋まった地面が爆発した。


「言われなくても」

「しまったこいつ、まだ死んで――」


 飛び上がる小さな影。口から血を漏らした少女、ベルナデット。彼女は、男の腹に一撃を食らわせて中空へかち上げ、そのまま獲物の上を取ると、首を掴み、凹凸だらけの地面に叩きつけるように墜落する。


「よし、そのまま抑え込め!」

「わかっ……てる!」

「こいつ、半人の癖に爪が……」

「これが私の爪撃そうげき!」


 気品に満ちた服の下、硬い肉を断つ感触がする。ベルナデットの長く鋭い爪が、立ち上がろうとしたルーガルーの首筋から脇腹に抜けるように振り下ろされた。空気を濡らし、少女の頬に、建物の残骸に、割れたアスファルトに、おびただしい量の血が散る。


「ガッ、ハッ……」


 生まれた一瞬の隙を逃さない。人を超えた二人の攻防を見ていたアベルが構えた長銃の先は、一片の狂いもなく、地面に倒れそうになる怪物に向けて火を噴いていた。


「がら空きだぞルーガルー」

「まだ死ねるか!」


「……! こいつ腕を犠牲に!?」


 深く刻まれた傷と、額に流れる汗。左の肩口から先を代償に特攻弾をやり過ごし、拘束から逃れた翡翠の眼の怪物は、深く足を沈めた。刹那。もはや神性の混じった威圧の咆哮が灰の街を満たす。手負いの獣が最も恐ろしいことはアベルも知っていたが、対面するとそれ以上だ。遥か彼方で旋回しながら鳴く鳥の声も、風が運ぶ瓦礫片の音韻も、喉から溢れるはずの次の指示の言葉さえ、全ての空気の震えが淡く遠ざかり、聞こえるのはやけに落ち着いて響く自分の心拍だけ。

 臨死のきわ、万物の熱はもだす。永遠に続くかに思えた沈黙は、この場を支配した怪物の一声によって終わりを告げた。


「俺の自慢は脚力でね……」


 それは、ジェヴォーダンの断末魔に違いなかった。ルーガルーの姿が視界から消えた。と同時に、左右に構えた数十棟の雑居ビルの硝子が甲高い音を立てて爆散した。獣は死に満ちて嵐となる。ふざけた速度でアベルとベルナデットを囲うように走る翡翠の瞳の男は、生み出した風圧で大通りのあらゆるものを呑みこんだ。

 ガキンという爪同士が弾ける音がして、アベルの正面に小さな少女が入ってくる。右手一本の男と、両手の少女の差を逆転させるほど、必死の迎撃だ。線を引く翡翠が灰燼を巻き上げて円環のように二人を覆う。古びた理髪店の看板も、断線した街灯も、煤けたままの食堂のコンロも、かつてこの街でヒトをヒトたらしめていた全てが呪詛にも神威にも似た膂力でかち上げられていく。


「速い!? どうするのアベル!」

「待ってろ、脚を撃つ……構えとけベルナデット」


 死がすだく。逃れられない塵埃の竜巻という超常と、チェコ産のカービン銃。だが、冷静を取り戻したアベルに、決して譲った様子はない。狙い澄ます特攻弾。ルーガルーを狩る刑事の眼。翡翠の線のなかに何度も弾を撃ち込みながら、少しずつ足を進める。アベルもベルナデットも、降り注ぐ硝子や小ぶりな瓦礫片によって傷を増やしていく。何度も爪と爪がぶつかり合う響きが起こるが、その中に着弾の音はない。


「ハハッ、当たらねぇなぁ」

「――見えた。ベルナデット!」

「了解!」


 血風さえ混じる嵐の中を進んで、十四歩目。唐突に響いたのは、銃声でも、ほかのどんないままで聞こえていた音でもなかった。特攻弾の連射で中央の二人に気を張っていた怪物は、背後のものに気付かなかった。吹き飛ばされようのない文明の遺構。ジェヴォーダンの意地、重量にして二〇トンの砕けた高架橋のコンクリート塊。アベルが吹きすさぶ灰燼の隙間に捉えた直方体状のそれは、思った歩数で、竜巻の風を止める位置に来た。


 バゴンッと、とんでもない速度で真横の硬質の壁にぶち当たる怪物。

 ――不意の衝撃に、ふらついたその一瞬の凪をベルナデットは逃さない。


「今までの銃撃はブラフ!?」

「お前は追い詰めてるつもりだったんだろうが、追い詰められてたんだよ」

「捕まえた……もう動けないよルーガルー」


 片腕のない状態で馬乗りにされた男に、十分な抵抗の手段はもはや残されていなかった。身体をねじり、暴れる。代償のない力はない。身の丈を超える暴威を振るった男は、必死に懇願するように叫ぶ。


「離せ! 離せ! 死にたくない!」

「お前に喰われた人達も同じ気持ちだっただろうさ」


 足にもう二度と動けないほど深い爪撃を加えたベルデナットが飛びのくと、今度こそ、銃声と着弾音が響いた。誤差はない。一つの銃から生み出された二つの音は、ヒトの熱を示すように、重なり合って街に灯った。


「終わった? アベル」

「ああ、心臓に特攻弾を撃ち込んだ」


 アベルが本部に連絡を取って石張りの地面に腰を置くと、軽い治療を済ませた小さな少女が真横の彼に身体を預けて倒れ掛かる。半獣。確かな人のぬくもりと、獣性を伴った鋭い爪を持った彼女は、そっと漏れるままにつぶやく。


「あと、何匹狩れば終わるのかな」

「お前の呪いが解けるよう、ちゃんと生きてる内に終わらせてやるよ」

「……ありがと」


 揺蕩えども沈まず。嵐は、何もかもを遠くに流してしまった。見上げれば、ジェヴォーダンを覆う灰色の雲海は吹き散らされ、二人を引き上げる水面色をした空が満ちる。そこからは、彼らのこれからを祈る、ただ柔らかな午後の日差しが漏れるだけだった。


 

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