二十二

 その腕は、一つでもなく、二つでもなく、無数にあった。まるで暖簾のように、軒先から何本もの腕がぶら下がっている。

 それは、どろどろと垂れて伸び、カーテンのように成り果て、ゆらゆらと揺れて―――、

「うわあああっ!」

 気が付くと、悲鳴を上げていた。慌てふためきながら、お堂の中へと転がり込むと、一息遅れてアマネが、

「きゃああああああっ!」

 と、叫んだ。

 あれは、まさかっ――と、その時、腕のカーテンがグニャグニャと蠢いて、捻じれるように混ざり合い、二対の巨大な腕になった。それが、ゆらりと持ち上がり、石造りの道の地面を、


 ——―べちゃっ!


 と、はたいた。それはまさしく、あの化け物が這う音だった。

「う、あああ、ああっ!」

 悲鳴を上げながらへたり込んでいると、アマネが横でへなへなと崩れ落ちた。恐怖のあまり、悲鳴すら上げられないのか、茫然としている。


 ——―ぅううぅあぁああぁあああ


 あの、枯れた喉で息を吐いているかのような呻き声が響いた。瞬間、二対の巨大な腕がグネグネと蠢き、頭上から、


 ——―べちゃべちゃっ……


 と、粘ついた音がした。

 ——―天井?いや、屋根の上?

 あれは、まさか、ずっと、このお堂の屋根の上に……。

 ビクビクと胃が震えて、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。今まで、ずっと頭上にあれがいたのかと思うと―――。

「う、げっ、げえぇっ!」

 口から溢れたゲロが、びちゃびちゃと床に滴り落ちた。ツナギの前面にもかかったが、それどころではなかった。

 目の前に、あの、化け物がっ―――!


 ——―ぁあぁああぁああ


 また呻き声が響いたかと思うと、二対の巨大な腕の間に、何かが舞い降りた。いや、何かが舞い降りたのではない。

 巨大な腕の主が、現れたのだ。

 それは、灰色の着物——振袖を纏っていた。地面に突きたてられた二対の腕が、その袖口にズルズルとしまわれていく。そして、長く、擦り切れた裾が地面に付き――あの化け物が、降り立った。

「う、げっ、ううっ……!」

 ゲロを吐きながら、ひれ伏すようにその姿を見つめた。

 灰色の振袖を羽織った、長身の――女。黒く、長い髪の毛が、まるで水中を揺蕩うかのように乱れて舞っている。羽織っている振袖は帯を緩く締めていて、そのせいで首元や足が艶めかしく覗いている。

 顔だけは、なぜか見えなかった。黒く、暗く、おぞましい概念にどろりと塗り込められていて、見通すことができない。まるで、フィルターを掛けられているかのように。


 ——―ひたっ……


 と、音がして、化け物が裾を引きずった。

 ——―こっちに来る!

「うああ、あああっ!」

 逃げようにも、逃げ場が無かった。お堂の出入り口はひとつだけ。そこに、化け物が立ち塞がっている。これでは、袋のネズミだ。


 ひたっ……ひたっ……


 化け物が歩み寄ってくる。

 息が上がる。

 目に、涙が滲む。

 口の中いっぱいに、ゲロの味がする。

 横で、アマネが震えている。

 怖くて、立ち上がれない。

 為す術が、無い。


 ——―ぁあああぁあぁぁあああ


 化け物が、とうとう、石段を、ひたひたと登って―――、

 と、その時、突然化け物が、ピタリと動きを止めた。瞬間、


 ———……ォギャアアアッ!


 と、叫んで、バッ!と、後ろへ飛びのいた。


 ——―ォギョアアッ!ギャアアッ!


 再度、化け物が叫んだ。が、なぜか化け物は、お堂の方へ向かって来なかった。石造りの道に立ったまま、揺らめく髪を振り乱している。今にも襲い掛かって来そうだったが、叫ぶばかりで、一向にその場を動こうとしない。

 ……な、なぜ、どうして―――。

 震えながら、疑問に思っていると、目の前の床に、木札が落ちているのに気が付いた。このお堂で見つけて、ポケットに入れておいたはずの。

 ……まさか、これは。

 恐る恐る、木札を拾い上げた。それを、化け物に向かってかざしてみる。


 ——―ギェァアアッ!ギュアアアアアッ!


 化け物が叫びながら、じりじりと後ずさった。

 顔は見えなかったが、その仕草からは、悔しがっているような雰囲気が見て取れた。

 やはり、この木札は……!

 かざしたまま、立ち上がった。いつの間にか化け物は、また振袖の袖口から大きな腕を覗かせて、威嚇するかのように広げていた。が、やはり、襲い掛かってくる気配は見せない。

「……っ!」

 木札をかざしたまま、素早い動作でお堂の扉に手を掛けた。そのまま、後ろへのけぞるようにして、勢いよく閉める。

 その後も、格子戸から見えるように、木札を掲げ続けた。その間、化け物はただひたすら、ギャアギャアと叫び続けるばかりだった。

 ああ……。

 極限まで張り詰めていた緊張が解けて、全身の力が抜け、思わずへなへなと座り込んだ。念の為に、木札は扉の方へ掲げたままにしておく。

 どうやら、この木札はあの化け物に

 理屈は分からないが、これを持っていれば、あの化け物に襲われることはないようだ。見つけておいて良かった。神仏など信じていなかったが、多少は当てになるようだ。捨てる神あれば拾う神あり、か。

 ほっと息をついていると、不意にアンモニア臭が鼻を刺した。振り返ると、アマネがヒュウヒュウと息を荒げていた。灰色のツナギの股間の部分と、へたり込んでいる床が濡れている。

「あ、アマネさっ……」

 久しぶりにまともな言葉を喋ったせいで、声が上擦った。どうやら、アマネは恐怖のあまりに失禁してしまっていたようだった。

「だ、大丈夫ですかっ」

 肩を揺すったが、アマネは茫然自失としていた。見開いた目の焦点が合っていない。

「アマネさんっ、アマネさんっ!」

 それでも肩を揺すり続けると、ようやくアマネは、

「あ、ああ……」

 と、声を漏らした。

「アマネさんっ!」

 追い打ちで一喝すると、アマネの目の焦点が合った。泳がせながらも、俺を見つめてくる。

「あああっ……!」

 不意に、抱きすくめられた。華奢な身体が、ガクガクと震えているのが伝わってくる。大丈夫だ、となだめるように、それを受け止めた。

「あ、あれはっ……」

「入って来れないみたいです。……これのおかげで」

 ありのままの状況を伝えると、持っていた木札を見せた。どうやら、ずっと掲げていなくても大丈夫らしかった。化け物は相変わらず叫び声を上げ続けているが、襲い掛かってくる気配はない。

 それに気が付くと、アマネは落ち着きを取り戻したのか、荒げていた息を段々と元に戻した。呆然としてはいるが、どうにか状況を呑み込めたようだ。

「あ、ああっ」

 突然、アマネが下を見て、おろおろと狼狽えた。どうやら、失禁しているのに気が付いたらしい。足を閉じて、必死に床のシミを隠そうとしている。

「ご、ごめんっ」

「だ、大丈夫ですから。別に……」

 気を遣って、顔を背けた。俺だって、人のことは言えない。さっき、派手にゲロを吐いたのだから。

 口の中に残っていたゲロを隅にペッと吐くと、汚れていたツナギの前を袖で拭った。随分と酷い有様だ。汗とゲロで、じっとりと濡れていて、酷い臭いがしている。

 もう、こうなれば、着ている必要もないだろう。ずっと背負いっぱなしだった背負子を降ろし、ツナギを脱いだ。アマネも俺に倣って、いそいそと背負子を降ろし、ツナギを脱ぎ出す。

 黒いシャツにグレーのカーゴパンツという出で立ちに戻り、ツナギを放った。が、ゲロ臭さは消えたものの、汗臭さはそのままだった。

 構いやしない。今更、なりふり構ってはいられないのだ。

 スマホと木札を丁重にポケットに入れていると、アマネも元の金のラインが入った黒いジャージの上下に戻っていた。下が、灰色のツナギよりも濡れているのが目立っていなかった為、安堵する。俺はむくつけき男だからいいだろうが、女はさすがになりふりに構うだろう。

 装いを新たにすると、心と身体がリセットされたような気になった。慌てふためいて回らなくなっていた脳味噌が、落ち着いた思考を取り戻していく。

 ……さて、しかし、これからどうするか。

 身を守れたはいいが、よくよく考えてみると、状況は変わっていない。結局、お堂に閉じ込められたままだ。木札を持っていれば襲われないらしいが、このまま外に出ても、その状態は継続するだろうか?

 もしかすると、このお堂が俺たちを守っているという可能性もある。そもそも、あの化け物はこのお堂自体に入って来れないのではないか。

 いや、木札をかざした瞬間に、化け物は怯んだ様子を見せた。だとすれば、やはり木札を持ってさえいれば、外へ出ても襲われないのでは……。

「アマネさん……」

 振り返ると、アマネは俺が取ってきた長靴を足に押し込んでいた。脱げていたのは右足だったようで、左足用の長靴を無理矢理履いている。

「大丈夫そうですか?」

「う、うん」

 アマネはコツコツと、踵を鳴らした。サイズがぶかぶかそうだが、履いていないよりはマシだろう。

 準備が整ったな……。


 ——―ォギャアアッ!


 化け物は、懲りずに延々と叫び続けている。

 ふううと、深く息を吐いてから、立ち上がった。扉の向こうにいる化け物を、視界に入れる覚悟を決める。

 化け物を追い払って、ここから逃げるのだ。

 木札を握り、格子戸の向こうに―――、

「……!?」

 ——―化け物が、いない。

 まさか、そんな、さっきまで叫んでいたではないか。一体どこへ―――、


「オイ」


 不意に、声が聴こえた。

 それは、紛れもなく、白石の声だった。

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