二十一

 それから俺たちは、スマホの画面を通して様々な会話をした。

 内容は、全て他愛もないものだった。白石や岩澤に抱いていた印象、大畑に対する文句、支給されたツナギや長靴に対する愚痴、自販機でお茶を選んだ理由、ネックライトの安っぽさについて、など……。

 この山で目にした異様なものや、あの化け物については、一切話題にしなかった。くだらないやりとりをして恐怖を紛らわせる為、いわば現実逃避をしようとしていることを、アマネも理解しているようだった。

 それだけでなく、お互いの身の上を詮索するような質問もしなかった。俺はそういったことについて明かすつもりは無かったし、アマネもなんとなく、自分の身の上を明かしたくはないようだったからだ。

 物音ひとつしない静寂の暗闇の中、お互いに暗黙の了解を守りながら、スマホの画面を引っ掻き続けた。外界に満ちる得体の知れない恐怖から逃げるように、身を寄せ合ってくだらない会話の文言をひたすら練り続けた。

 だが、それも三十分と持たなかった。スマホの画面のデジタル時計が一時半過ぎを指した頃、俺もアマネも示し合わしたかのように、手を止めてしまった。

 ……分かっていた。ずっと分かっていたのだ。こんなことをしたって、どうにもならないのだと。

 汗ばんだ掌と同じ温度を宿したスマホを床に置き、ため息をついた。夜明けまで、ここに缶詰になっていても仕方がないのではないか。しかし、外へ出れば……。

 膝立ちになり、格子戸から外の様子を窺った。相変わらず、石造りの道の向こうに残骸が居座っているばかりで、何の姿も見えない。深い暗闇に染まった山からは、不気味なほどに何の音も響いてこない。

 どうすれば―――。

 腰を下ろし、アマネの方を見遣った。

 ……いや、どうすればいいのか、本当は分かっている。ただ、その勇気が出なかっただけだ。決断が、できなかっただけだ。

「…………」

 意を決して、床に置いていたスマホを拾い上げた。


 〝ここから、逃げよう〟


 文言を見せると、アマネは伏し目がちに首を横に振った。しばらく消え失せていた怯えの色が、どろんとしたメイクに汚れた目元から、また滲む。


 〝ここにいた方が危険かもしれない、いつか、あれに見つかってしまうかも〟


 画面をかざして、説得を試みた。すると、アマネは、


 〝朝までここにいれば大丈夫かも〟


 と、弱々しい手つきで打ち込んだ。

 どうやら、同じことを考えていたようだ。だが―――。


 〝朝になったらあれがいなくなる、って保証はない〟


 その文言を見せると、俺はすぐさまその下に、


 〝ここから出た方がいい〟


 と、続けた。

 危険な決断だとは、重々承知していた。朝になったらあの化け物がいなくなる、という保証が無いのと同様に、外に出ても襲われることはない、という保証も無いのだ。

 だが、ここでじっとしているよりかは、行動を起こした方が身の為だと思えてならなかった。来ないであろう助けを待つよりかは、自分から動いてこの状況から脱さなければ、埒が明かない。

 続けた文言を見るなり、アマネは項垂れていた。パサパサに渇いた茶髪が、ふるふると震えている。

 気持ちは分かる。自分から切り出しておいて何だが、俺だって怖いのだ。命に関わり得る恐怖が、外に待ち受けているのだから。

 しかし、それでも―――。

 アマネの肩を叩き、画面を見せた。


 〝先に俺が外に行く〟


 アマネが、目を見開いて首を横にブンブンと振った。それをなだめるかのように、スマホに新たな文言を打ち込んで見せる。


 〝靴が無いと走れないだろ、様子見で、長靴を取ってくる〟


 ゆっくりと床が軋まないように立ち上がり、格子戸の向こうを指差した。アマネも続いてそろそろと立ち上がり、外を覗く。

 このお堂から、残骸の山へと続く石造りの道。その途中に、白石の長靴が落ちている。で。

 俺の立てた計画はこうだった。

 まずは俺一人で外に出て、あの長靴を取ってくる。それが無事で済めば、アマネに長靴を履かせて、二人で一目散に山を降りる。

 もし、上手くいかなかったとしたら――そんなことは考えるな。とにかく、この計画を実行しなければ、事態は一向に進展しないままだ。

 再度、意を決して、お堂の扉に手を掛けた。その袖を、アマネが引く。今にも泣きそうな顔で、首を横に振っていた。

 〝大丈夫だから〟と、ジェスチャーでそれを制し、ゆっくりと扉を押した。鍵もなく、木と木のはまり具合だけで閉まっていた開き戸の片方が、キイィ……と、小さく軋みながら開く。

「………」

 耳を澄ましてみたが、やはり何も聴こえない。そのまま、ゆっくりと石段を降りた。一歩、二歩、三歩……降り切って、石造りの道の地面を踏む。

 辺りを見渡したが、残骸の周囲にも、転がり降りてきた斜面の方にも、化け物が這い上がってきた降り口の方にも、一帯を取り囲む雑木林にも、化け物の姿は無かった。が、だからといって油断はできない。もしかしたら、未だに残骸の向こう側に潜んでいるかもしれないのだ。白石の亡骸と共に。

 極限まで感覚を研ぎ澄ましながら、ゆっくりと石造りの道を進んだ。もし、気配を捉えたら、すぐにでも―――、


 ——―クシャッ……


 ブワッと、全身の毛が逆立った。音がした足元を見遣ると、枯葉を足先で踏みつけている。

「……っ」

 ゆっくりと足を上げ、耳を澄ました。悲鳴を上げそうになるのを、息が上がりそうになるのを、必死に堪える。


 ——―――――………


 大丈夫だ、何も聴こえない。何の気配もしない。

 身体を落ち着かせて、足を踏み出した。枯葉を踏まないように注意を払いながら、前へと進んでいく。

 もう少しだ、あと、一歩、二歩……着いた。

 ゆっくりとしゃがみ込んだ。黒いボロボロの長靴が横たわっている。中身の断面から流れた血が、小さな溜まりを作って石造りの地面を汚していた。

 ……勘弁してくれ。

 長靴を手に取ると、中身を脱がしにかかった。が、ぴったりとフィットしているのか、揺するだけでは一向に脱げない。

 ……くそっ。

 さすがに、血だらけの中身に直に触れるのは躊躇ったので、足を使うことにした。断面の辺りを踏みつけて、長靴を引っ張る。

 すると、じわじわと長靴が脱げていき、脛が露わになった。血だらけでない代わりに、ゴワゴワと汚らしく毛が生えている。

 さっさと脱がそうと、その部分を手で掴むと、ブニャッとした気持ちの悪い感触が伝った。まだ冷たくなっておらず、体温を保っている。だというのに、確実に生命の気配が失われているというのが分かる、不気味な手触りだった。

「……っ」

 さっさと手放したい一心で、一思いに長靴を引っ張った。ずるりと容易く脱げ、中身が剥き身になる。すると、仄かに漂っていた血生臭い臭いが、唐突にすえたような臭いにかき消された。

 どうやらそれは、靴下からプンプンと発せられているようだった。死んでもなお、足の臭いはそのままらしい。

 最後の最後まで俺に迷惑を掛けやがって。そう心の中で毒づいた後、長靴を手に立ち上がった。ゆっくりと向き直って、また枯葉を踏まないように注意しながら、お堂の方へと戻っていく。

 大丈夫だ、恐らく、あの化け物はいない。ここまで行動できているのだから。

 後は、この長靴をアマネに履かせて、山を降りるだけだ。そういえば、アマネはどちらの足の長靴が脱げていただろうか。この長靴は、左足だが。まあ、いい。あべこべだったとしても、裸足よりはマシだろう。

 とうとう、お堂の目の前まで戻ってきた。中で、アマネが不安げな目つきをしながら、俺を待っている。

 長靴を抱えて、そのまま石段を上がり―――、


 ——―――にちゃっ……


 不意に粘ついた音が聴こえ、全身が硬直した。


 ——―——にちゃっ……ぐちゃっ……


 背後に、気配を感じた。背筋に、ぬらぬらと悪寒が這い回った。

 目の前にいたアマネの顔が、みるみるうちに恐怖に染まっていく。見開かれた目が、俺の後ろを見遣っている。

 恐る恐る、ゆっくりと、振り返った。

「……っ!」

 そこには、お堂の屋根の軒先からねばねばと垂れ下がった、赤く、黒く、茶色いアメーバの腕があった。

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