十九

 今までに聞いたことがない種類の声が耳から脳を直撃し、身体が硬直した。

 いや、これは、先程聴いた岩澤の悲鳴と、同じ種類の声だ。

 断末魔の叫び―――、


「ぎゃあああああっ!」


 再度、叫び声が響き、ビクッと心臓が跳ね、バクバクと痛いくらいに脈打ち出した。


「ぎゃああっ!……ぁあああっ!」


 額に滲んでいた汗が、いくつも筋となって顔に流れていくのを感じた。


「ぎゃあっ、い、いたっ、あっ、ぎゃああっ!」


 降り口の方へ逃げなければならないのに、身体は無意識に、残骸からじりじりと後ずさりをしていた。


「あ、ああっ!……ぎゃ、あっ……あっ……」


 と、その時、残骸の山の上から、何かが覗いているのに気が付いた。


「ぁあっ……ぎっ、あっ……」


 それは、あの化け物の腕だった。大木のような腕が、残骸の山の上から覗いていた。それは、まるで地面を引っ掻いているかのように、せわしなく動いていた。


「ああっ………」


 段々と弱々しくなっていた白石の声が、突然途切れた。それに呼応するように、化け物の腕もピタリと動きを止めた。

 いつの間にか、息が上がっていた。カヒューッと、喉から空気が漏れている。全身の毛という毛が逆立ち、腕と脚がガクガクと震えている。


「あっ」


 酷く間の抜けた白石の声が、短く聴こえた。瞬間、


 ——―――ォギャアアアアアアアアアアアッ!


 獣の咆哮のような、枯れた喉で上げた悲鳴のような、叫び声が響き渡った。と同時に、止まっていた化け物の腕が動き出し、ブチブチグチャグチャと、肉を引き千切るような音が残骸の山の向こう側から聴こえてきた。

「あ、ああ、ああああああっ!」

 悲鳴を上げた。が、それは叫び声——化け物の絶叫に掻き消された。化け物は絶えずギャアギャアと叫び続けながら、腕をせわしなく動かしていた。


 ——―ぼとっ


 と、何かが飛んできて目の前に落ちた。

 それは、長靴だった。白石が履いていたはずの――いや、正確に言うと、白石はその長靴を履いていた。

 その長靴には、

 その中身は、ちょうど膝下の辺りで千切れていた。伸びきった皮膚が、バナナの皮を剝いたようにでろりと捲れていた。ささくれ立った肉の断面から垂れる血が、石造りの地面にジワリと滲んでいった。

「え、あ、う、あああっ!うわあああっ!」

 そんな、まさか、死んだ、殺された、白石が、さっきまで、生きて、話していた、白石が、化け物に、引き千切られて、殺されたっ! 

 理性が吹っ飛び、恐怖のあまりに腰が抜けた。石造りの地面に尻もちをついたが、痛みなど感じなかった。へたり込んだまま、目の前の光景から逃れたい一心でずるずると後ずさった。

 そうしている間にも、化け物の腕は地面を引っ掻くように動き、その度に何かを撒き散らしていた。あちこちで、その何かがボトボトと地面に落ちた。

「うああっ……!あ、ああっ……!」

 とうとう悲鳴が枯れかけた時だった。必死に後ずさりをしていた背中に、ドムンと何かが当たった感触が伝った。瞬間、ぐいっと何者かから背中を引っ張られた。

「うああっ!やっ、やめっ……」

 慌てふためき、腕をめちゃくちゃに振り回しながら抵抗しようとすると、それが人の腕で、俺の背負っている背負子を掴んでいることが分かった。ハッとして見遣ると、いつの間にか左右に地蔵が並んでいるお堂の前まで辿り着いていた。その扉が片方開いていて―――、

「早くっ!」

 中から、アマネが腕を伸ばし、俺を引き入れようとしていた。

「……っ!」

 俺は死に物狂いでお堂の入り口へ続く石段を這い上がり、中に転がり込んだ。と同時に、アマネが勢いよくお堂の扉を閉め、へなへなと床にへたり込んだ。

「はっ、はっ、はっ、はあっ……」

 床に伏せたまま、切れた息を必死で整えていると、


 ——―ギョァアアアアアアアアアアッ!


 と、化け物が叫んだ。

「ううっ……!」

 思わず、耳を塞ぐ。扉の方を見遣ると、アマネも耳を塞いで床に伏せていた。その背中に、薄暗い月明かりが差している。

 ——―月明かり?

 まさかと、入ってきた扉を見ると、上半分が目の粗い格子戸になっていた。それも、所々朽ちていて、欠けてしまっている。

 なんてことだ。隠れたはいいが、これでは丸見えではないか―――。

 その瞬間、格子戸越しにこちらを覗き込んでくる化け物の姿が頭をよぎり、咄嗟に扉側の方へと這った。今はともかく、見つからないようにしなければ。

 外から見えないように、扉側の壁に張り付くようにして、お堂の隅へ身を寄せた。恐怖のあまりか、アマネもこちらの方へ這い寄ってきた。二人並んで、震えながら身を寄せ合う。

 外からは、絶えずギャアギャアと化け物の叫び声が聴こえてきた。未だに、白石の身体を引き千切り、嬲っているのだろうか。

 耳を塞ぎ、強く目を瞑った。が、化け物の絶叫は掌を容易く貫通し、鼓膜を震わせてきた。歯を食いしばり、悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え続ける。

 頭の中で、これは現実じゃないと繰り返した。夢なら早く覚めろと願った。が、目が、耳が、肌が、これは紛れもなく現実なのだと言っていた。瞬きを繰り返しても目覚めることはなく、耳を塞いでも化け物の叫び声が止むことはなく、身体中にゾワゾワと悪寒が這いまわっている。

 力むあまりに、後頭部に突き立てている爪が、ギリギリと肌に食い込んだ。血が出ている気がしたが、力むのをやめられなかった。その痛みさえも、これは現実なのだと言い聞かせてくる。

 ——―やめろ、よせ、頼む、もう、嫌だ、助けてくれ……!

 必死に祈り続けていた時だった。叫び続けていた化け物が、


 ——―ォギョアアアッ!


 と、一声上げたかと思うと、途端に沈黙した。

 震えながらも、恐る恐る耳に当てていた手を離すと、辺りは急激に静寂に包まれていた。絶えず響いていた叫び声が止み、何の物音もしなくなっている。

「——―っ………」

 荒げていた息を止め、耳を澄ました。が、極限まで研ぎ澄ました聴覚ですら、何の音も捕らえることができなかった。さっきまでの騒ぎが嘘のように、場が静まり返っている。

 アマネと、顔を見合わせた。アマネも突然の出来事に困惑しているようで、怯えながらも眉をひそめている。

 しばらくそのまま固まっていたが、ゆっくりと膝で立った。アマネが俺の袖を掴んで首をブンブンと横に振ったが、ジェスチャーで〝大丈夫だ〟と伝える。

 物音を立てないよう、慎重に動いた。膝立ちのまま扉の方へ行き、ゆっくりと身をよじって、格子戸の端から外の様子を窺う。

「………」

 後ずさりしてきた石造りの道に、長靴が――白石の足が落ちている。その向こうの暗闇の中に、残骸の山が見えた。が、どこにも化け物の姿が無い。

 まだ、残骸の山の向こうにいるのだろうか?しかし、それなら巨大な腕が見えるはず……いや、もしかしたら、あの化け物は姿を変えられるのかもしれない。そうだ、それこそ、残骸の山の間の道を通っている時は、足しか見えなかったものの、人の姿をしていたではないか。

 ならば、やはり残骸の山の向こうに、あの化け物は―――。

 ゆっくりと戻り、壁にもたれて座り込んだ。アマネが〝どうだったの〟と言いたげに見つめてきたが、俺は黙って首を横に振った。

 確信が無い。確信が無いのだ。姿が見えないだけで、まだ化け物がどこかに潜んでいるかもしれない。

 頭を抱えた。これでは、どうしようもない。のこのこ出て行けば、あっという間に襲われるのがオチだろう。助けなど来るはずはないし、どうすれば……。

 あっ、と思い出した。

 そうだ、スマホがあるではないか。白石が勝手に取り返してきたスマホが。

 急いでツナギの前を開け、ポケットを探った。スマホを取り出し、今は亡き白石の愚行に感謝しつつ、祈りながら画面を立ち上げる。

 時刻は一時過ぎ、電池は満タンに近い、通信状況は――圏外。

 ……くそっ。

 思わず、膝にスマホの画面を打ちつけた。助けは呼べないと言う事か。呼ぶとしても、どこに連絡すればいいのか分からないが。

 念の為に、サウンドモードをサイレントにしてから、LINEを立ち上げてみた。トーク履歴から麻理を選択し、適当なスタンプを送ってみる。


 〝メッセージを送信できませんでした〟


 と、通知に表示が出た。何度か再送ボタンをタップしてみたが、同様に通知が表示され続ける。

 諦めて、項垂れた。ひび割れた画面には、午前中に交わしたばかりのくだらないやりとりが表示されていた。アイコンの中で、加工アプリによって少し顔を変えた麻理が無邪気に笑っている。

 麻理……。

 虚しくなり、画面を閉じた。

 どうしてこんなことに―――。

 易々と、このバイトを引き受けたことを後悔した。最初に怪しんでいた通りに、断ればよかったのだ。後ろ暗い、きな臭い、信用できないと。それが、高額な報酬に目が眩んだあまりに……。

 だが、そんな後悔をしている内に、沸々と怒りが湧いてきた。

 このバイトの運営側——大畑は、こうなることを知っていたのではないか?

 今にして思えば、大畑の挙動には、妙なところがあった。身の上をはっきり明かさなかったり、スマホを没収したりするのもそうだが、この山に入る時も、大畑はチラチラと時計を気にしていた。まるで、何かを待っているかのように。

 それに、大畑は山頂の井戸のことも、その周りに囲いがあることも知っていたではないか。それには触れるなとも言っていた。

 時計の時刻、あの異様ながらも神聖な装飾が施されていた囲いと、古びた井戸……。もしかしたら、俺たちがやった、得体の知れない液体を井戸に注ぎ込むという奇妙な作業は、何らかの儀式だったのではないだろうか?

 その儀式には条件があり、入山する時刻や方法が定められていて……そして、危険なものだったのではないか。内容を知っているならば、自分で実行するのを躊躇うほどの。

 だから、俺たちのような人間を雇い、儀式を代行させた……?

 分からない、分からないが、現に俺たちはあの化け物に襲われた。別に、何のいわれもない俺たちが。そして、白石は命を奪われた。化け物に引き千切られ、バラバラにされて。

 やはり、俺たちは騙されたのだろう。高額な報酬を餌に、まんまと危ない橋を渡らされたのだ。

 不甲斐ない自分に腹が立ったが、それ以上に運営側——大畑に対して腹が立った。自業自得?違う、俺たちは被害者だ。卑劣な運営側に騙され、命の危険に晒されているのだ。

 ……くそっ!

 行き場のない怒りをどうにか抑え込み、ため息をついた。ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしっていると、隣でフッと小さな白い灯りがともった。見遣ると、アマネがスマホの画面を見つめている。

 〝どうだ?〟のジェスチャーをしたが、アマネは首を横に振った。

 やはり、同様か。現状をどうにかする手段が失われた。完全に八方塞がりだ。

 どうすれば……。役立たずのスマホを片手に、また項垂れていると、隅にいたアマネがゆっくりと這い寄ってきた。思わず〝静かにしろ〟と、人差し指を口元に当てると、アマネはスマホの画面を、おずおずと俺に見せてきた。


 〝外は?〟


 ほとんど白一色の画面に、その文字列がポツンと打たれていた。

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