十八
それは、俺たちのネックライトの灯りによって、ぼんやりと姿を暴かれていた。
まず、否が応でも目に付いたのは、二対の巨大な――腕だった。
腕、としか言い様がなかった。赤、黒、茶が肉々しく混ざり合った色のアメーバが、うねり育った大木のように形を成し、グニュグニュと蠢いている。それは、タランチュラの前足を思わせるような動きで持ち上がり、石造りの地面をべちゃりとはたいた。
指だ―――。腕には、掌があり、指があった。腕を大木とするならば、根の部分が、まさしく根のようにどろどろと広がり、掌の形を成している。
その巨大な腕の先、正確に言うと付け根には、ボロボロの布切れが纏わりつき――いや、違う。あれは、袖口だ。
二対の巨大な腕は、振袖と思しき袖口から覗いていた。腕が蠢く度に、擦り切れた袖がはらはらと揺れている。
その間に、黒く、暗く、おぞましく蠢く、何かがあった。そこだけは、やはり灯りを通さなかったが、何が位置しているのかは理解できていた。
その蠢いている何かから、おぞましい視線を感じたからだ。
——―見られている。
当たり前のことだ。あれが腕ならば、その付け根にあるのは――首、つまり、頭、つまり、顔。
——―べちゃっ!
「うああああああっ!」
今まで生きてきた二十余年の人生で、初めて悲鳴というものを上げた気がした。化け物の姿を前にして、完全にタガが外れてしまった。
恐怖を抑える理性、というタガが。
気が付くと、横にいた二人は、我先にと踵を返して逃げ出していた。
「あ、ああ、あああっ!」
情けない声が口から漏れた。ガクガクと身が震え、心臓がバクバクと脈打ちだす。そうしている間にも、化け物がべちゃりべちゃりと蜘蛛のように這い上がってくる。
最早、考えている暇はなかった。俺も踵を返し、建物の残骸の方へと駆け出す。
どうするっ!?あれでは降りられない。いや、それどころではない。逃げなければ、しかし、どこへ!?斜面を登るか!?そんな暇はない。今にも、あの化け物がっ!
——―べちゃっ!
どうする!?
——―べちゃっ!
どうするっ!?
「くそっ……!」
咄嗟に、建物の残骸の間の道へ入り込んだ。そのまま突っ切って、斜面の方へ、しかし、もう間に合わない、登る暇がない、どうしたらっ―――。
——―ぁああぁぁあぁあああ
「……っ!」
背後から響いてくる化け物の呻き声に追い立てられ、俺は咄嗟に残骸の右側の山の方へと隠れた。身をかがめて、降り口側から見えないように四つん這いになり、息を殺していると、ネックライトが付きっぱなしになっていることに気が付いた。慌ててスイッチを切り、灯りを消す。
——―べちゃっ……べちゃっ……べちゃっ……
段々と、濡れた雑巾をはたくような音――化け物が這う音が、鮮明に聴こえてくる。あの化け物が坂道を上がり終えたのだろう。恐らく、そのまま石造りの道を這って、ここへ。
額に厭な汗を滲ませていると、目の前の残骸の山の中に、髪の毛を振り乱した日本人形の首があった。ボロボロに朽ちた顔が、恨めしそうに俺を見つめている。
やめろ、こんな時に、そんな目で俺を見るな……!
「……ぉぃ」
不意に声が聴こえて、ビクッと心臓が跳ねた。思わず口元を手で押さえ、声のした方を見ると、ほとんど真横、左側の残骸の山の影に、白石がいた。カエルのように地面に伏せて、俺の方を見つめながら、口に人差し指を当てている。〝静かにしろ〟のジェスチャーだ。
口元を押さえたまま、ゆっくりと頷いた。どうやら、白石も俺と同じように、残骸の山に隠れることを選んだようだ。
……待て、アマネはどこだ?
辺りを見渡したが、アマネの姿は無かった。逃げおおせたのだろうか。それとも、俺たちと同じようにどこかへ隠れたのだろうか。
——―べちゃっ……べちゃっ……
化け物が這う音が近付いてくる。息を殺し、見つからないよう必死に祈った。あれが何なのかは分からないが、どう見ても危険な存在としか思えない。
——―べちゃっ……べちゃっ……
頼む、こっちに来るな、どこかへ行け、頼む……!
——―べちゃっ…………
不意に、化け物が這う音が止んだ。と思ったら、不気味なほどの静寂が、辺りを包んだ。
……何だ?化け物は何をしている?
向こう側の残骸の影に隠れている白石と、顔を見合わせた。白石も不可解に思っているようで、薄く剃られた眉をひそめている。
念の為に耳を澄ましてみるが、耳鳴りがしそうなほどに、何も聴こえなかった。物音ひとつしていない。
そういえば――と、あの鳥居をくぐってから、虫の声が止んでいたことを思い出した。
生命の息遣いが感じられない領域、か。
やはりここは、この山は、異常な場所だったに違いない。でなければ、あんな化け物がいるはずが―――。
ふと、向こう側にいる白石が、もぞもぞと動いていることに気が付いた。伏せたまま、残骸の中から何かを取り出している。
それは、角材だった。釘が刺さり、ささくれ立ったベニヤ板の切れ端が引っ付いたままになっている角材を、白石は残骸の山の中から、ゆっくりと引き抜いている。
思わず〝やめろ〟のジェスチャーをした。しかし、白石は聞き入れる様子は無く、角材を引き抜くのをやめなかった。積み重なっている残骸が、今にもガラガラと崩れてしまいそうだ。
固唾を呑んで見守っていると、ゆっくり、ゆっくりと、角材が残骸の山から引き抜かれた。ちょうどバットくらいの長さだったが、先端にベニヤ板の切れ端が引っ付いていて、斧のようにも見える。
それを、白石はグッと握り込んだ。まさか、あれで化け物と戦う気なのだろうか。そんな無茶な。一体どこまで馬鹿なのだ。
呆れていると、白石が残骸の山の隙間から、向こう側の様子を窺っていた。俺も、いてもたってもいられず、残骸の影から慎重に様子を窺ってみる。
積み重なった木材に顔を隠すようにして、その隙間から向こう側を覗き込んだ。が、視界が狭い上に真っ暗で、何も見えない。まだ、目が完全に暗闇に慣れていないようだ。
目を見開き、必死に視界を暗闇に慣れさせた。月明かりが辺りを頼りなく照らしているおかげで、物の輪郭くらいは捕らえられるが、それだけでは何も分からない。
早く、早く、と祈っていると、ようやく夜目が効き出した。ぼんやりと、黒一面の視界が鮮明になっていく。
あの化け物はどこだ。どこで何をしている。
残骸の隙間から、向こう側を見渡す。が、その隙間からは、左右の残骸の間の道までしか見通すことができなかった。そこには、何の姿も無い。
まさかと思い、咄嗟に振り返ったが、背後にも化け物の姿は無かった。先程降りてきた斜面と鬱蒼とした雑木林があるばかりで、微塵も気配が感じられない。
消えた……?まさか、そんなはずはない。どこかにいるはずだ。
息を殺したまま、必死で化け物の気配を探っていた時だった。
——―——ひた……
極限まで研ぎ澄ましていた聴覚が、何かを捉えた。
これは……。
——―ひたっ……ひたっ……
……裸足の足音だ。
もう一度、残骸の隙間を覗き込んだ。左右の残骸の山の間、釘と木片が汚らしく散らばった土の地面の道。
そこを、何者かが、こちらに向かってゆっくりと裸足で歩いて来ていた。
「……っ!」
息を呑んだ。思わず、口元を押さえる。
あれは、何だ……?まさか、あの化け物か?
俺の反応を見たのか、白石が残骸の隙間を覗き込んだ。と思ったら、すぐにこちらに向き直り、驚愕の表情で見つめてきた。あれを見たのだろう。
白石は、あれは何だと言いたげに、歯を剥き出しにしてきた。そんなの、こっちが知りたい。化け物がいたと思ったら、今度は裸足の足だ。
再度、残骸の隙間を覗き込んだ。積み重なった木材で遮られているせいで、足しか見えなかったが、それは生きている人間のものではないように思えた。なぜかは分からなかったが、その足は、そんな風に感じさせる異様さをジトジトと滲ませていた。
よく見ると、その人物は何かを羽織っているようだった。白く、艶めかしく、妖しい足が、地面に付くほど長い裾をズルズルと引きずっている。それは、灰色で、酷くボロボロで……あれは、着物だ。
連想したのは、いつしか出席した高校の同級生の結婚式で見た、花嫁衣裳だった。お色直しの際に、和装で現れた花嫁が、あのように着物の裾を引きずっていた。気のない拍手をしながら、それを出迎えた記憶がある。
あの足の人物は、灰色の着物を羽織っている。着物——あの化け物は、巨大な腕を振袖のような袖口から覗かせていた。……まさか、そんなはずは―――。
咄嗟に、白石に向かって〝外側へ回り込め〟のジェスチャーをした。あれがあの化け物かどうかはともかくとして、遭遇しないに越したことはない。見つからないように、残骸の外側へ回り込んで、降り口の方へ逃げなければ。
ところが、白石はなぜか、覚悟を決めたような目で、手に握った角材をじっと見つめていた。
……まさか。
必死に〝よせ〟のジェスチャーをしたが、白石は聞き入れる様子は無かった。ギリギリと角材を握り込み、様子を窺っている。
一体どこまで馬鹿なんだ。もう何度、白石に対してそう思っただろうか。最早、呆れを通り越して、虚しくなってきた。曲がりなりにも人の姿をしているとはいえ、得体が知れない存在に、角材で立ち向かおうなどと、どんな人生を送ればそんな思考に至るのだろう。
だが、それがこの状況を脱する突破口になるかもしれないと、ほんの僅かに期待している自分もいた。もしかしたら、どうこうしたものがどうにかなって状況がひっくり返り、助かるかもしれない。
だが、それに便乗するほどの勇気と無謀さを、俺は持ち合わせていなかった。ゆっくりと身をよじり、残骸の山の外側へ回り込む準備を始める。
——―ひたっ……ひたっ……
裸足の足音が、ゆっくりと近付いてくる。勘付かれないように、伏せたままの姿勢でじりじりと横向きに這った。と、その時、
——―カン、カタンッ
と、音がして、何かが目の前を転がった。
それは残骸の中にあった、あの日本人形の首だった。髪の毛を振り乱したそれが、地面の上で朽ちた顔をこちらに向けていた。
その瞬間、
「——―うおらああああああっ!」
突如として緊張の糸が切れたせいか、白石が立ち上がりざまに角材を振りかぶって、残骸の間へと消えていった。
「しらっ――!」
思わず声が出たが、気遣う余裕は瞬く間に消え失せた。俺は無様にどたどたと這いながら、残骸の外側へ回り込んだ。
あの馬鹿――くそっ――とにかく――逃げろっ!
「クソがああああっ!」
「オラああっ!」
「んだコラぁあああっ!」
残骸の向こうから、白石がめちゃくちゃに喚いている声が聴こえてくる。あの得体が知れない足の人物と、格闘しているのだろうか。
―――知ったことか。結果はどうであれ、俺は逃げる!
四つん這いでいるのが馬鹿らしくなり、立ち上がって走り出そうとした時だった。
「うぎゃあああああああああっ!」
突如として響き渡った白石の絶叫が、ビリビリと鼓膜を震わせた。
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