十七

 凄まじい音の正体は、藁紐が引き千切れた音だった。 

 バヅンッ!という音と共に、一斉に藁紐が引き千切れたかと思うと、それにぶら下げられていた無数の鋏たちが、放射状に弾け飛んだのだ。

 爆風によって吹き飛ばされたかのようなそれらは、勢いよく地面に散らばり、刺さり、ぶつかり合って、ガチャガチャと音を立てた。いくつかは、俺たちの足元にまで飛んできた。


「うあああああああああっ!」


 悲鳴を上げたのは、岩澤だった。それを契機として、その場にいた全員が踵を返し、走り出していた。

 ようやく言う事を聞いた身体は、ガクガクと未体験の恐怖に震えていた。外側だけではなく、内側——心臓も早鐘のように打ち震えていた。

 何だ、あれはっ!?——あの液体か!?——いや、まさか――井戸から這い出てきて――どうして――鋏が――そんな馬鹿な――化け物?—―幽霊?——映画じゃあるまいし――でも――あれは――急げ――早く――逃げろっ!

「うああっ!あああああっ!」

 横で、岩澤がまた悲鳴を上げた。なりふり構わず、転がるように走っている。その後ろで、白石が息を切らしていた。タバコを吸っているせいか、走るのが随分と辛そうだ。

 ——―待て、アマネは?

 咄嗟に振り返ると、アマネは俺の真後ろにいた。置いて行かれないように、必死でついて来ている。

 良かった、と安心した瞬間、

「うあああっ!」

 と、声がしたと思ったら、何かに足を取られて派手に転んだ。

「うあっ!……うぅっ…‥」

 咄嗟に受け身を取った肩が、鈍痛に呻く。どうにか痛みを堪えて立ち上がろうとすると、右手が何かに絡まった。顔を上げると、岩澤が真横に倒れていて、その腕が俺の右手に重なっている。

「岩ちゃんっ!」

 白石が駆け寄り、肩を抱えて立ち上がらせようとしたが、岩澤は、

「あっ、あああっ!あぁああっ!」

 と、狼狽しながら、その手を振り払った。

「岩ちゃんっ、岩ちゃんっ!しっかりしろっ!何だか分かんねえけど、早く逃げるぞ!」

 白石も白石で相当慌てふためいていて、口から唾を飛ばしていた。無理もないだろう。いくら馬鹿でも、あれがヤバいものだという事は本能的に理解できたはずだ。

 ベチベチと頬をはたかれる岩澤を横目に立ち上がった。今はとにかく、ここから逃げなければ。

「岩ちゃんっ!」

 白石が呼びかけるが、岩澤は腰が抜けてしまったのか、地面にへこたれたままだった。口の端から泡を吹きながら、ガサガサと這うように後ずさりをしだす。

「クソッ!おい、手ぇ貸せよクソ女!」

 白石が、俺の後ろに向かって吠えた。振り返ると、アマネがおろおろと狼狽えていた。肩で息をしながら、しきりに走ってきた方を振り返っている。その目は、恐怖に怯えていた。

 ……くそっ!

「岩澤さんっ!しっかりしてくださいっ!」

 本音を言えば、さっさと逃げ出してしまいたかった。が、一人でこの場から逃げ出すのは、許されないことのような気がした。

「早くっ!」

「うあ、あああっ!」

 白石と一緒に、狼狽し続ける岩澤の腕を掴み、無理矢理抱え上げた。どうにか立たせて、そのまま肩を抱え、元来た藪道を急ぐ。

「何なんだよっ、あれっ!」

 白石が息を荒げながら言った。恐怖と苛立ちとが混ざった声色だった。

「分かりませんっ、でも、早く逃げないとっ!」

「んなこた分あってるよっ!クソッ!」

「あ、ああ、あああ……」

「クソがっ!なんか手伝えよ、クソ女!」

 あまりに苛立ったのか、後ろでおろおろとしていたアマネに、また白石が吠えた。

「アマネさんっ!先に逃げてくださいっ!」

「何言ってんだっ!俺らは置き去りかよっ!」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!早く、先にっ――」


 ——―——うぅうぅぅあぁああぁぁああああ


 それは、背後から俺たちの背中を撫ぜるように響いてきて、耳に纏わりついた。瞬間、全員の動きが止まる。

 この声は……。

 恐る恐る振り返った。


 ——―——びちゃっ……ずるっ……びちゃっ……ずるるっ……


 夜の山の深い暗闇の中に、何かが蠢いていた。その、黒く、暗く、おぞましい、大きな何かは、地面をはたきながら、ずるずるとこちらに這い寄ってきていた。

「うわああああああああっ!」

 耳元で、岩澤の劈くような悲鳴が響いた。瞬間、岩澤が暴れ出し、白石と俺の腕を振り払って藪道の横の藪をかき分け、雑木林の中へ転がるように消えていった。

「い、岩澤さんっ!」

 目で岩澤のネックライトの灯りを追ったが、それはあっという間に雑木林の暗闇に紛れて見えなくなってしまった。

「岩澤さんっ!岩澤さんっ!」

「おい!逃げるぞっ!」

「で、でもっ!」

「ほっとけ、あんなシャブ中っ!」

 白石は忌々し気に怒鳴ると、一目散に走り出した。あれだけ世話を焼いていたのに、途端に薄情になりやがって、と思ったが、その余裕が無いのも確かだった。後を追うように、俺も走り出す。

「はっ、はっ、はあっ!」

 石や木の根に躓きそうになりながらも、飛ぶように走った。時折、横の藪から突き出た枝葉が邪魔してきたが、それを突き飛ばすように駆け抜けた。

 後ろを振り向く余裕は無かった。あれが、あの得体の知れない化け物が迫って来ているかと思うと、身体は〝前を向いて逃げる〟以外の行動を選ばなかった。

 走り続けていると、藪道が終わってあの斜面に辿り着いた。勢いのまま駆け降りようとしたが、地面に走ってきた藪道以上に石や木の根がひしめき合っている上に角度が急で、とても駆け降りれそうにない。

「くっ……」

 仕方なく、なるべく急ぎながらも、足場を慎重に選びながら降りていくと、

「きゃあっ!」

 と、横で甲高い声が響いた。見遣ると、アマネが木の根に足を取られて転んでいた。勢いを止められないのか、斜面を派手に転がり落ちていく。

「アマネさんっ!——う、うわっ!」

 駆け寄ろうとして、俺まで派手に転んでしまった。全身を強かに打ちつけながら、急な斜面をゴロゴロと転がり落ちていく。

 肩を打ち、脚を打ち、腹を打ち、尻を打ち、腕を打ち……ひとしきり転がり、ようやく止まったと思ったら、水平な地面に身体が打ち捨てられていた。

「く、ううっ……」

 よろよろと、身を起こした。目の前に、石造りの道がある。どうやら、真下まで転がり落ちてしまったようだった。

 土の地面の方で良かった。石造りの道に転がり落ちたなら、無事では済まなかっただろう。

 全身の痛みに喘ぎながら、どうにか立ち上がった。白石は、アマネは、どこへ行った?

 きょろきょろと辺りを見渡すと、斜面の終わり際の辺りで倒れているアマネを見つけた。

「アマネさんっ!」

 駆け寄ると、アマネがふらふらと身を起こした。灰色のツナギが、土くれと枯葉まみれになっている。

「は、早くっ」

 手を引いて斜面を降りようとしたが、アマネは立ち上がらなかった。焦って、力強く引っ張ると、

「痛いっ……!」

 と、辛そうに言った。

「早くっ、逃げないとっ!」

 檄を飛ばしたが、アマネは首を横に振った。

「痛い、あ、足が……」

 よく見ると、転がり落ちている途中に脱げてしまったのか、アマネは右足に長靴を履いていなかった。

「……っ、いいから、行かないとっ」

 全身の痛みを堪えて、アマネの肩を抱えた。今はとにかく、逃げなければ。

 どうにか斜面を降り、石造りの道に出る。辺りを見渡してみたが、白石の姿はどこにもなかった。まさか、先に降りていってしまったのだろうか。どこまで薄情な奴なんだ。

「くっ……」

 よたよたと、不器用な二人三脚のように石造りの道を進み―――、


「——―うわあああああっ!」


 ビクッと、心臓が跳ねる。

 今の悲鳴は……岩澤だ。

 咄嗟に斜面の方に振り返ったが、そこには深い暗闇があるばかりで、何の姿も捕らえられなかった。

 どこだ、どこに岩澤は―――。


「——―——ぎゃあああああああああっ!」


 今度は、はっきりと悲鳴の出所が分かった。

 岩澤は、まだ斜面のはるか上の方にいる。どうやら、まだあの藪道の横の雑木林の中を彷徨っているらしい。

 だが、それはついさっき聴こえてきた悲鳴とは種類が違っていた。

 まるで、死ぬ直前に上げる声、断末魔の叫びのような―――。

「……っ!」

 背筋にゾワリと寒気が走り、身が震えた。

 まさか、岩澤はあの化け物に……?

 一刻も早く、ここから逃げなければっ!

 不器用な二人三脚を再開する。恐らくだが、あの化け物は岩澤の所にいる。つまり、はるか上の方にいるということだ。一心不乱に逃げてきたから、後ろは振り返らなかったが、俺たちはあの化け物に追われていなかったのかもしれない。不謹慎ながらも、その可能性に安堵した。

 だが、こんな所に留まっているのはごめんだ。一刻も早く、山を降りないと。

 精一杯急ぎながら、よたよたと石造りの道を進んだ。あの建物の残骸が目の前に現れたが、真ん中を突っ切る気にはなれなかった。ただでさえ気味が悪い上に、アマネが靴を履いていないのだ。散乱している釘を踏んで怪我でもしたら、今よりもっと面倒くさいことになる。

 迷った末に、残骸の左側の方へ回り込むことにした。雑草だらけだが、釘や木片よりはマシだろう。

「はっ、はっ、くうっ……」

 アマネを抱えている肩が痛む。さっき斜面から転がり落ちた時は、必死だったせいで気が付かなかったが、酷く打ちつけていたようだった。肩だけでなく、あちこちが鈍痛に呻いている。

 ポリタンクを背負っていたせいで、頭を怪我していないのは幸いだった。背中側で、ちょうどクッションのような役割を果たし、頭部だけが無事で済んだようだ。もし、強く打って気絶でもしていたら、あの化け物の餌食になっていただろう。

 ランドセルが分厚く作られている理由を、しみじみと納得していた時だった。


 ——―ガサッ


 思わず、足を止めて、辺りを見渡した。


 ——―ガサッ、ガサガサッ


 どこかで、藪がざわめいている。どこだ、どこで――いや、そんなことを気にしている暇はない。

 何かが、確実にこちらに向かってきている。逃げなければ!

「くそっ……!」

 よたつきながらも、急いで残骸の横を通り抜けようとした。が、ガサガサという藪のざわめきは止むことなく、何者かの気配が段々とこちらに近付いて来る。

 急げ、あの化け物だったら、きっとただでは済まない。急げ、急げっ!

 だが、その努力も束の間、背後で勢いよく藪がざわめき、何者かがこちらに向かってくる気配がした。

「……っ!」

 思わず振り返り、身構えた瞬間、


 ——―ガサガサッ!


「お前らっ、無事だったのかっ!」

 藪から勢いよく飛び出してきたのは、白石だった。

「し、白石さんっ、どうして……」

「さっき、降りてくるときに転んで藪の中に入っちまったんだ。戻るよりも、こっちの方が安全だと思ってそのまま降りてきたんだが、クソッ!いってえな……」

 白石は、忌々し気に左手の甲をさすった。木か何かに引っ掛けたのか、大きな切り傷ができている。

「い、岩澤さんは?」

「知らねえ、さっき聴こえたのは、岩ちゃんの悲鳴か?あの化け物、人を襲うのかよっ!」

「分かりません、でも、早く逃げましょうっ。ここにいたら――」


 ——―——ぁぁあああぁあぁああ


 ゾワゾワと全身の毛が逆立ち、息が止まった。

 白石とアマネも勘付いたようで、表情を硬くしていた。二人とも、わざわざ言わずとも、取るべき行動が分かったようだった。

「……っ!」

 俺たちは無言で、降り口の方へと駆け出していた。一瞬アマネの方を気遣ったが、痛みが和らいだのか、それどころではないのか、俺の手を借りずに走っていた。

 どちらでもいい。とにかく、早く逃げなければ。

 残骸の横を突っ切り、石造りの道へ躍り出ると、真っ直ぐに走った。このまま、あの鳥居の所まで―――。

 だが、俺たちは、鳥居へと続く石造りの坂道を前に、立ち止まらざるを得なかった。


 ——―ぁああぁぁぁああぁああ


 坂道の中腹辺りに、こちらに向かってびちゃびちゃと這い寄ってくる化け物の姿があった。

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