十六
やがて、傾けていたポリタンクがほとんど真横になり、口から吐き出されていた液体が先細り始めた。そこからさらに傾け、口が真下になるように上下を逆転させると、中の液体が滑るように落下していき、ポリタンクはすっかり軽くなった。
中身が残らないように、上下に揺さぶり、底面の方を叩いた。口からポタポタと垂れてくる液体が無くなるのをじっと待つ。
一滴残らず、大畑はそう言っていた。まあ、比喩表現だろうが、そう努めることに越したことはないだろう。
念入りに揺すって中身が残っていないのを確かめると、キャップを閉めた。地面に置いていた背負子を抱えて、井戸の前から離れる。
「……んじゃ、お先に」
入れ替わりで、白石がポリタンクを抱えて井戸の前に向かった。何が、お先に、だ。先にやったのは俺だろうが。
苛立ちながら、しゃがんで空になったポリタンクを背負子に取り付け直した。今度は、そこまできつく締め上げなくていいだろう。
「うぇっ、くっさ!」
背後で、白石が声を上げた。どうやら中身の臭いを嗅いだらしい。
「んだよ、こりゃ。キメえな、クソッ」
文句を垂れないでさっさとやれ。そう心の中で毒づいていると、
―――ボチョボチョボチョ……
と、水音がか細く聴こえてきた。が、それが次第に、
―――ボチャッ、ボチョッ、ボチョッ!
と、激しくなっていく。何事かと振り返ると、白石はポリタンクを逆さまに抱えて、中の液体を勢いよく井戸の中へ振り落としていた。
まったく、ガサツにも程がある。もう少し丁寧にやればいいものを。
しかし、見た限りでは、白石のポリタンクの中身も、先程俺が捨てたものと同じらしかった。どろりと粘性を帯びていて、赤く、黒く、茶色く、小さな固形物が混じっている。
どうやら、ポリタンクの中身に差異は無いらしい。その肝心の中身が何なのかは分からないままだが。
「うっし、こんなもんか」
白石は井戸の縁にポリタンクをガンガンと叩きつけて雑に液体を切ると、キャップを閉めて向き直った。気怠そうに戻ってくると、ポリタンクを地面に放っておもむろにタバコを咥えだす。
「お次は?」
白石が言うと、ヌウッと岩澤が前に出た。どうやらこいつらは、レディーファーストという概念を持ち合わせていないようだ。いや、俺以外の全員が、俺ファーストという概念を持っているだけか。
背負子を地面に置いたまま、時間が過ぎるのを待った。岩澤とアマネが捨て終えれば、後は山を降りるだけだ。さっさと高額な報酬を受け取って、こんな治安の悪い連中とおさらばしたい。ああ、そういえば、大畑に携帯を勝手に持ち出した言い訳をしなければ。まあ、白石が勝手にやったことだと弁明すればいいだけだが、大畑がそれで納得するかどうか―――、
「うあああああああっ!」
突然の悲鳴に、ビクッと身体が跳ねた。
何だ、何が―――。
咄嗟に井戸の方を見ると、岩澤が地面に尻もちをついていた。その前には、キャップが取り去られたポリタンクが置かれている。
「うぅっ、あああっ!あああああっ!」
岩澤は、また悲鳴を上げると、へたり込んだままズリズリと後ずさりを始めた。井戸の前から逃げるように、こちらに戻ってくる。
「ど、どうした、岩ちゃんっ」
白石がタバコを咥えたまま駆け寄ろうとしたが、岩澤は既に俺たちの所まで辿り着いていた。ガクガクと震えながら、井戸の方を見つめている。
「あ、あ、あああっ!あああっ!」
「岩ちゃん、どうしたんだっ、まさか、切れちまったのか?」
なおも後ずさろうとする岩澤を、白石が肩を抱えて受け止めた。
「ちっ、ちがっ、なんであれがっ、なんでえっ!」
「おいっ、落ち着けよ、岩ちゃんっ!」
「あああっ!そんなっ、ああああっ!」
岩澤は口の端から泡を吹いて狼狽していた。白石の言葉の通り、クスリの効き目が切れてしまったのだろうか。まるで、キメる前の状態に戻って――いや、違う。
岩澤は、ちゃんと正気を保っている。なぜか、そう思えてならなかった。狼狽えてこそいるが、感情に筋が通っているのだ。理性を保っているからこそ、その理性が感情によって崩壊しているように見える。
恐怖、という感情によって。
「落ち着けって岩ちゃん!なんか見えんのか?それはいつもの幻覚だろっ!」
白石が渇を入れ続けるが、効き目はなく、岩澤は狼狽し続けた。
何かが見える―――。
ふと、井戸の方を見遣った。注連縄が回され、妙な植物が周りに茂っている、今はもう使われている様子のない、古びた井戸。
あの中から、あの有名なホラー映画のように、幽霊がおどろおどろしくヒタヒタと這い出てきて―――。
そんな光景を思い浮かべてしまい、思わず身が震えた。
まさか、岩澤は幽霊が見えたのか……?
馬鹿な、そんなはずないだろう。幽霊など、現実に存在しないのだから。岩澤はきっと、クスリの効き目が切れて、妙な幻覚を見たに違いない。
「岩ちゃん、落ち着けって。ちゃんと仕事しなきゃダメだろ?」
白石がなだめるように、だが、苛立ちを抑えながら諭したが、岩澤はウグウグと喉の奥で唸った後、両手で顔を覆って地面に伏せてしまった。白石が何度か呼びかけたが、小刻みに震えるばかりで、一向に立ち直る様子を見せない。
「岩ちゃんっ、岩ちゃんっ……チッ、おい、内藤クンよ」
「は、はい?」
「見ての通り、非常事態だ。岩ちゃんの代わり、やってくれ」
白石はそう言うと、岩澤が放り出した井戸の前のポリタンクを顎でしゃくった。
「……分かりました」
最早、怒りを通り越して呆れ果てていた。こいつらは、どこまで俺に迷惑を掛ければ気が済むのだ。勝手ばかり言いやがって。
「アマネさん、貸してください」
傍らで呆然と立ち尽くしていたアマネに呼びかけた。こうなれば諸共だ。残りは全部、俺がやってやる。
アマネは困惑していたが、やがておずおずと背負子を差し出してきた。そうだ、それでいい。そうした方がさっさと事が済む。
やけ気味にアマネの背負子を抱えて、井戸の前に向かった。とりあえず地面に置き、放り出されていた岩澤のポリタンクを抱え上げる。と、その時、地面にシミができているのに気が付いた。
山の黒土が、いびつな楕円形に濡れそぼっている。まさかと思い、ポリタンクの口を見ると、縁に赤黒いものが付着していた。どうやら、中身を少々零したらしい。
一滴残らず井戸の中へ。大畑はそう言っていたが、無理に終わったな。
ふん、と鼻を鳴らしてポリタンクを井戸の縁に乗せると、先程と同じ要領で、だが、少し大胆気味に中身を注いだ。ボチャボチャと、激しい水音が底から響いてくる。
やろうと思えばできたが、井戸の底をネックライトで照らす気にはなれなかった。底がどうなっているのだろうかと気にはなったが、それを知ったところでどうにかなるわけでもなかったし、それに、俺だって岩澤ほどではないものの、この井戸に対して多少の恐怖心は持ち合わせていたからだ。
赤く、黒く、茶色い液体が、虚穴のような井戸の中へと注がれ、暗闇に消えていく。その様を見ていると、ふと思った。
——―岩澤は、何が見えたのだろうか?
ポリタンクの中身を零したということは、地面に落としたのだろう。キャップを開け、中身を注ごうとした時に。つまり、井戸を覗き込んだ時に、何かを見たのだ。抱えていたポリタンクを思わず落とすほどの何かを。
それは、岩澤に動けなくなるほどの恐怖をもたらした。恐怖、怖いという感情……やはり、幽霊だろうか。さっき俺が連想したような。
……井戸の中から幽霊か。ベタにも程があるな。
恐怖を押し殺すように、口の端を無理矢理曲げて笑った。井戸から幽霊が這い出てくるなど、随分と古臭いビジュアルだ。岩澤も、古風な幻覚を見たものだな。
いつの間にか、ほとんど中身を吐き出し終わっていたポリタンクを、逆さまにして揺すった。垂れてくる液体を入念に切り、キャップを閉める。
後は、アマネの分だけだ。岩澤のポリタンクを、放り出されていた背負子に取り付け直すと、アマネの背負子からポリタンクを外しにかかった。
まったく、貧乏くじだ。一番働いているのは俺に違いないが、どうせ報酬は均等に配られるのだろう。
もし、白石が条件違反で無報酬になったら、その分を俺に回してもらいたい。それくらいの働きは十分にしているはずだ。
苛立ちながら、アマネの分のポリタンクを抱え上げた。手際よく井戸の縁に置き、キャップを外す。三つ目ともくると、慣れたものだ。グンと傾けて、中身を勢いよく井戸へ注ぎ込んだ。
20リットルのポリタンクが四つ。つまり、この得体の知れない液体が80リットル、底へ溜まることになるわけだ。
ボチャボチャと、粘り気のある水音が響いてくる。すでに60リットル分の液体が溜まっているから……いや、俺が一番最初に注ぎ込んだ時、既に水音はしていた。
このバイトは今までに何度か行われているようだった。その度に、井戸にはこの得体の知れない液体が注がれたのだろうか。底の方に溜まっているのは、今までに捨てられた液体の残留だろうか。
大量に溜まったそれは、いずれ井戸からどろどろと溢れ出て―――。
——―ピチャッ……
気が付くと、すっかり空になったポリタンクから最後の一滴が落ちていた。
「……」
頭の中に浮かんだおぞましい光景を掻き消すと、ポリタンクのキャップを閉めた。地面に置いていたアマネの背負子に、手際よく取り付け直す。
これで終わりだ。業務の山場は越えた。後は、さっさと山を降りるだけだ。
岩澤とアマネ、二人分の背負子を抱えて、他の面々の元に戻った。岩澤は白石の介護を受けて落ち着いたのか、地面に体育座りをして項垂れていた。
「終わりました。早く戻りましょう」
「ああ。岩ちゃん、立てるか?ほら、終わったから、帰ろうぜ」
「……あ、ああ、あぁ」
岩澤は汗とよだれにまみれた顔をツナギの袖で拭うと、よたよたと立ち上がった。岩澤が汗を掻いているのを、初めて目にした気がした。
無言で岩澤に背負子を手渡した後、アマネにも手渡した。アマネは何かもの言いたげに、口を噤んでいた。恐らく、一言礼を言いたいのだろうが、白石と岩澤の前ではそれを口にしたくないらしい。
別に、礼などどうでもよかった。済んだことをどう言われようが、今更何も思うことはない。
さっさと自分の分の背負子を背負うと、身なりを整えた。背負子はすっかり軽くなっていて、まるで何も背負っていないかのように感じた。今までが重すぎたせいだろう。
「じゃ、帰るか」
白石はそう言うと、咥えていたタバコを地面に捨ててグリグリと踏みつけた。まだ囲いの中にいるのに、なんてことをするんだと思ったが、口には出さないでおいた。この男に道徳や倫理観を説いたところで無意味だろう。恐らく、この場に漂う――主に注連縄が漂わせている神聖な雰囲気も読み取れていないに違いない。
先陣を切った白石に連れられるように、岩澤が囲いの外へ出た。その後をアマネが続く。俺も、黒土にまみれたタバコの吸い殻を見つめた後、それに続いた。
「しっかし、何だったんだろうなあ、アレ。キモくて臭かったけどよ。なんか変なのも混じってたし、まさか——―」
——―――びちゃっ……
軽口を叩いていた白石が黙り込むと同時に、俺を含めた、その場にいた全員が立ち止まった。
……何の音だ?
——―――びちゃっ……びちゃっ……
何だ?この、濡れた雑巾をはたくような音は……。
ゆっくりと、囲いの方に振り返った。
先程くぐったばかりの、アーチ状に鋏がぶら下げられた囲いの入り口。その向こうには、古びた井戸。
——――――びちゃっ……びちゃびちゃっ……
……井戸から音が聴こえている?
あの、先程まで、得体の知れない液体を注ぎ込んでいた、井戸から―――。
——――――びちゃ……
何かが、這い上がってきている?
——――ぁあぁああぁあぁああぁあああ
突然、濡れた雑巾をはたくような音が止み、風鳴りのような、枯れた喉で息を吐いているかのような音、いや——呻き声がした。
その場にいた全員が、俺と同じように息を呑んでいる気がした。
——―びちゃっ……びちゃっ……びちゃっ……
四人分のネックライトの灯りが、ぼんやりと囲いの向こうの井戸を薄暗く照らしていた。
——―びちゃっ
井戸の縁に、何かがどろりと垂れ下がった。それは、まるでアメーバのように滑り気と粘り気を帯びていた。
——―びちゃびちゃっ
また、井戸の縁にアメーバがどろりと垂れ下がった。その色は、赤く、黒く、茶色かった。
——―びちゃっ……
どろどろと、アメーバが井戸の縁から地面まで垂れた。かと思ったら、それは意志を持っているかのように、グジュグジュと脈打ち、元に戻った。
元に、戻ったのだ。垂れたアメーバが重力に逆らい、井戸の縁に纏わりつくように盛り上がって、グニュグニュと波打ち―――。
——―ずずっ……ずるっ……ずっ……
逃げなければ。今すぐ、この場から。
そんな危険信号を脳が発していたが、なぜか身体は硬直していて、言う事を聞かなかった。目の前で起こっている不可解な光景から、目を逸らすことができない。
——―ずるっ……ずるるっ……
赤く、黒く、茶色いアメーバが、グジュグジュと縁に纏わりついていた井戸から、何かが湧くように現れた。
その影は、今までに見たことがないほど黒く、暗く、おぞましかった。
——―ぬちゃっ………
それは、四人分のネックライトの灯りをもってしても、姿を暴くことができなかった。まるで底の見えない虚穴のように灯りが通らず、暗闇の中に、それよりも濃く、暗いシルエットが存在していた。
ただ、その形から―――、
——―ぁああぁぁあ
それが、人で、あることが、分かった。
その瞬間、
——―——バヅンッ!
と、凄まじい音が響き、囲いにぶら下げられていた無数の鋏が、ひとつ残らず弾け飛んだ。
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