十五
四人分のネックライトの灯りによって、それは全貌を暴かれていた。
まず、目に付いたのは木でできた立派な柵だった。立派な太い角材の柱が、二メートルほどおきに地面に突き刺さっている。高さは俺の背丈よりも高く、それらの先端は同じ太さの角材の梁によって、ぐるりと繋がっていた。ひとつ、ふたつ、みっつ……八角形だ。木の柵は、八角形を象って造られている。
そして、その柵には注連縄が掛けられていた。柱と柱の間——上に回された角材の梁の真下と、縦の角材の柱の真ん中辺りに、注連縄が二本、ずらりと回されている。すっかり朽ちていた鳥居のものと違って、どちらもきちんと原型を留めていた。
それだけなら、寺や神社で目にしそうな少々仰々しい柵として見て取れるが、それを奇妙たらしめていたのは、その注連縄に施されている装飾だった。
ずらりと回されている上下二本の注連縄に、無数の細い藁紐が括り付けられていて、その先に
それは、形や大きさもバラバラだったが、どれも鉄でできていた。事務や工作で使うような普通の鋏から、形状から察するに、恐らくは裁ち鋏、金切り鋏、枝切り鋏……。中には、美容師が使うような細身の鋏や、小ぶりな糸切り鋏に、一体何を切る為に作られたのか分からないほど大ぶりで柄が湾曲した鋏もあった。長い間、風雨に晒されているらしい錆色をしたそれらは、柱と柱の間を無数に埋め尽くしていて、さながら鋏でできたカーテンのようだった。
その柵の下の地面には、ずらりと大小様々な石が並べてあった。やはり、その石も八角形を象るように並べられていたが、中には積み石が施されているものもあった。大ぶりな石の上に、小ぶりな石が何段も積み重ねられている。
そして、その柵の向こう――中心部に、石で組まれた古めかしい井戸があった。その井戸にも注連縄が回されており、周囲には積み石が施されていた。
―――何なんだ、これは……。
今までに見たことがない異様な光景を前に、言葉を失っていた。
柵……と呼んでいいのだろうか。いや、柵には違いないが、これは単なる柵ではない。大畑の言っていた通り、これは……囲いだ。まるで、井戸を外部から守っているかのような……。
〝今はもう使われていない古い井戸があります。その中に、ポリタンクの中身を一滴残らず捨ててきて頂きたいのです〟
大畑は、そう言っていた。紛れもなく、囲いの中にある、あの井戸がそれだろう。
だが、そんなことをしていいのか……?
仰々しくも異様な囲いを前に、躊躇っていた。井戸、と聞いた時は別に何とも思わなかったが、いざ目の前にしてみると、あの中にものを捨てるという行為が、何とも罰当たりなことに思えてくる。
それを助長させているのは、囲いと井戸に回された注連縄だった。注連縄が回されているというだけで、あの古びた井戸が神聖なものに見える。いや、実際にそうなのだろう。でなければ、こんな立派な囲いをするはずがない。
しかし……この無数の鋏は何なんだ?
それだけが、腑に落ちなかった。鋏の装飾さえなければ、この囲いは、こんなにも異様に映らない。鋏だけが、注連縄と井戸が醸し出している神聖さを汚しているようにも思える。なぜ、こんな装飾を施してあるのだろう。
「……どっから入りゃあいいんだ、これ」
白石が、ボソリと呟いた。確かに、囲いのどこに入り口のようなものが―――。
「あっ……」
よく見ると、ちょうど正面の部分だけ、下の注連縄がやや高めに掛けてあった。そこだけ鋏がアーチを描くようにぶら下げられている上に、下に並べられた石も短く途切れている。どうやら、あそこから出入りしろということらしい。
おずおずと、そこに向かった。目の前に来ると分かったが、アーチ状にぶら下げられた鋏は、そのまま進めば頭に当たりそうなほど低い位置にあった。
そういえば大畑は、囲いには触れないように、とも言っていた。言われなくとも、こんな異様なものを触れる気にはならないが。
身をかがめて、慎重に囲いをくぐった。中に入ってみると、囲いが漂わせている異様さが、より一層増したような気がした。
「……」
振り返り、他の面々を見遣る。最早、恒例行事になっているようだった。何をするにしても、俺が一番にやって見せないと、この連中は動き出さないらしい。
他の面々がくぐってくるのを待ちながら、囲いの中を見渡した。井戸以外には、これといって特別なものは何も無いが……。
何も無い?……そうだ、おかしい。あるはずのものが無いではないか。
―――草が、生えていない。
地面に、一本も草が生えていないのだ。山の黒土がむき出しになっている。
なぜ――囲いの外を見遣った。仕切りのように並べられた石の向こうには、黒土が見えないほど雑草が生い茂っている。草を踏んで歩くことなど不可能なほどに。
だというのに、囲いの中になると、雑草は全く見当たらない。枯葉や小枝、朽ちた杉の葉はいくらか落ちているものの、根を張っている草がひとつも無いのだ。
その様はまるで、この囲いの中だけ、生命あるものを受け付けていないかのように映った。
……やはり、異様だ。早く事を済まして、この囲いから出た方がよさそうだ。
向き直ると、他の面々が全員囲いの中に入ってきていた。
いの一番に、井戸の前へと向かう。どうせ俺が一番にやらなければ、他の面々は動き出さないに違いない。
そう諦観しながら、古びた井戸の前に背負っていた背負子を降ろした。井戸は大小様々な石を使って組まれていたが、どこにも目立った隙間や凹凸は見当たらず、みっちりと綺麗な曲面を描き出していた。
それに回されている注連縄は、囲いに回されている注連縄と同じもののようだった。しかし、こちらには藁紐は括り付けられておらず、鋏も見当たらなかった。が、その異様な装飾の代わりとでも言わんばかりに、注連縄には奇妙なものが絡まっていた。
それは、植物だった。赤い紙風船のような実をつけた植物が、注連縄に沿うようにグネグネと茎を伸ばしていた。
よく見ると、その植物は井戸の根元に根を張っていて、石組みに張り付くかのように茎と葉を茂らせていた。それもひとつではなく、あちこちから同じ植物が根を張っていて、井戸を囲うように張り付いている。どうやら、この囲いの中にも植物の息遣いはあったようだ。
だが、それは反って、酷く不自然な光景のように思えてならなかった。
一本の雑草も生えない中、なぜ、この植物だけが……。
植物は生き生きと葉を大きく広げ、赤い紙風船のような実を無数に実らせていた。薄暗闇の中、その赤さがやけに浮いていて、毒々しい気味の悪さを滲ませていた。
「……っ」
さっさと済ませよう。余計なことなど考えていないで。
しゃがみ込むと、背負子からポリタンクを外しにかかった。縦に横に締め上げられたベルトを、ひとつひとつ外していく。
すっかり拘束を解き終えると、取っ手の部分を掴んでポリタンクを抱え上げた。井戸の縁に乗せ、落下しないよう慎重に片手で支えながら、キャップに手を伸ばす。
……いよいよ、御対面か。
ずっと、思い込んできた。これは水なのだと。そうでもしないと、気味が悪くて背負う気にならなかったからだ。
だが、それもここまでだ。ようやく、正体を暴くのだ。この得体の知れない液体の。
キャップを掴み、捻ったが、随分と強く締められているようで、ビクともしなかった。グッと手に力を込めると、ギュリリとプラスチックが軋む音がして、ようやくキャップが回った。
そのまま、キュルキュルと回し続けて、キャップを――外した。直径10センチほどの穴が、ポリタンクの上部に空く。首に下げているネックライトの灯りが、その中に差し込み―――、
「………」
そこには、赤く、黒く、茶色く、どろりとしたものがあった。見えたのは表面だけで、波打ってもいないのに、なぜか、それが粘り気のあるものだと分かった。
これは……。
その時、手に持っていたキャップから、臭いが漂ってきた。
それは、今までに嗅いだことのない酷い臭いだった。生臭かったが、生ゴミから漂ってくるようなものとは確実に違う臭い。
無理矢理例えるのならば、豪勢な焼肉でもしようとして、ありとあらゆる部位の肉を買って冷蔵庫に放り込んだが、コンセントが抜けていて、一週間後それに気が付き、恐る恐る開けた時のような――そんな血生臭く、汁っぽい腐臭だった。
思わず、息を止めた。キャップを井戸の縁に置き、手首を鼻に押し当てる。
……これは、何なんだ?
今まで、あれやこれやと想像していた。違法薬物だの、工場から出た廃油だの、家畜の糞尿だの、放射性廃棄物だの、使用済みの薬品の廃液だのと。
だが、今、目にしているこれは、そのどれにも当てはまらない。その上、今までに見たこともなく、何なのか判別のしようもない。
得体の知れない液体は、直に目にしても、臭いを嗅いでも、得体の知れない液体のままだった。
これは……―――何も考えるな。
考えたところでどうなる。この液体が何か分かったところでどうなる。
何も理解する必要はない。金の為に、このバイトを引き受けたのだ。無心で、言われたことをやればいい。ただ、それだけだ。
手首を鼻に押し当てたまま、息を深く吸って止めた。井戸の中に落とし込まないように、ポリタンクに手を添える。
言われたこと。つまり、これを一滴残らず、井戸の中に捨てること。
ゆっくりと、ポリタンクを傾けた。黒いポリタンクの口からどろりと、赤く、黒く、茶色い液体がひと掬いほど零れ出る。
——―——―——―ボチャッ……
僅かに時間を置いて、井戸の底から水音が聴こえてきた。覗き込んでも真っ暗で何も見えないが、どうやらそこそこの深さがあり、底には水が張っているようだ。
「……」
異様でこそあったが、神聖なものである井戸に得体の知れない液体を注ぐなどと、と躊躇っていたが、ひと掬いでも捨てると、途端に吹っ切れた。
——―――————ボチャボチャボチャボチャ……
ポリタンクを傾けて、中身を注ぎ続ける。赤く、黒く、茶色い液体が、どろどろとポリタンクの口から吐き出され、落下していった。辺りは静寂に包まれていて、暗い井戸の底から響いてくる水音だけが聴こえていた。
何も、考えるな。
何も、考えるな。
何も、考えるな。
頭の中で繰り返し、念じ続けた。が、否が応でも視線は、ポリタンクの口から吐き出され続ける液体に向いていた。
それでも、頭の中で念じ続ける通りに、俺は何も考えないことにした。
例え、ポリタンクの口に時折、小さな赤黒い固形物が引っ掛かっても、それがいくつも溜まって絡み合い、デロデロと揺らめいても、その塊がドッと押し出されて落下し、井戸の底で激しい水音を立てても、俺は、ただひたすら無心で、ポリタンクの中身を井戸へと注ぎ続けた。
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