十三

 瓦礫に挟まれた残骸の間の通り道を抜けると、また石造りの道が姿を現した。が、その道はすぐに途切れて終わり、今度は山の斜面に造られた山道が目の前に現れた。

 いや、これを山道と呼んでいいだろうか?

 結構な角度の斜面だというのに、きちんとした階段は設けられておらず、土がむき出しになった地面が段のようになって、生い茂る雑草の中に点在しているだけだった。恐らく、ここを通る人間に踏み固められたことによって、自然に形成されたのだろう。

 こんな所を通って行けというのか。ただでさえ、20キロの重りを背負っているというのに。

 気が重くなったが、やや前方に、這うようにしてよろよろと登っているアマネの姿があった。小柄な身体で重心をとるのが難しいのか、今にも横に倒れてしまいそうだ。

 その向こう、上方の暗闇の中に、小さな灯りが二つ並んで蠢いていた。白石と岩澤は、もうあんな所まで登ったらしい。

 ……行くしかないか。

 文句を言っても始まらない。どうにか登っていくしかないだろう。

 背中を曲げて重心を前方に傾けながら、山道に踏み出した。ネックライトの灯りを頼りに、土がむき出しになっている場所を探し当てながら、一歩一歩登っていく。

 これは、中々の重労働だ。足腰と背中にミシミシと負荷がかかる。しかし、こうやって登っていくしかない。斜面が急なせいで、まともに直立することができないのだ。もし直立したとしたら、重心が後ろに傾いて背中から倒れ込むハメになるだろう。

 山道の地面は一見雑草だらけのようでいて、尖った石や木の根があちこちに潜んでいた。転倒したとしたら、すりむいた程度では済まなさそうだ。

 転ばないように、身体のバランスを崩さないように気を付けながら山道を登っていると、また額に汗が滲みだした。首元や背中も、じっとりと汗に濡れていき、下のシャツが肌に張り付いて気持ちの悪い感触がまとわりつく。胸元をパタパタとはたいたが、その程度ではとても乾かなかった。

 次第に息が上がっていき、足取りが重くなってきた。身体の芯は熱いのに、汗を掻いたせいか表面だけが冷えていく。その感覚がどうにも気持ちが悪く、呼吸がしにくくなった。

「はあっ……」

 思わず、足を止めた。呼吸のリズムを整えようとするが、バクバクと唸る心臓がそれを妨げようとする。

 ―――落ち着け、これくらいでへこたれるな。ゆっくりでいいから登るんだ。

 自分を叱咤しながら、息を深く吸った。が、空気はねっとりと湿度を含んでいて、肺の中でジトジトと滞留した。身体に酸素が巡っていかないようで、一層息苦しさが増す。

「はっ、はっ……」

 膝に手をついて、必死に息をした。冷たい汗が顎から滴り落ちていき、うなじの辺りにゾワゾワと悪寒が走る。思わず、身を震わせると、背負子のポリタンクからドプンと音がした。

 背中が、汗で濡れている。

 ぴったりと、服が張り付いている。

 背負子を、背負っているせいだ。

 中には、液体が入っている。

 得体の知れない、液体が。

 まるで、その得体の知れない液体が、背中から、ジワジワと、俺の身体に、滲んでいくようで―――。

「……っ」

 やめろ、そんなこと、考えるな。

 頭を振って、邪念を掻き消した。顔の汗を拭い、前を向く。立ち止まっているから、余計なことを考えてしまうのだ。動かなければ、登らなければ。女のアマネだって登っているのだ。男の俺が立ち止まっていてどうする。

 目の前の木の根を掴み、グンと身体を引っ張り上げながら、前へ踏み出した。顔を上げると、やや前方にぼんやりとネックライトの灯りが蠢いていた。恐らく、アマネだろう。

 どうにか追いつかねば。

 地面に点在している石や木の根を掴みながら、這うように山道を登った。足だけで登るよりも、ずっと楽に身体が動く。なるほど、アマネもこうやって登っていたのか。

 傍から見れば間抜けに映るだろうが、見ている者などいないので気にする必要はない。四つん這いのようになって、ひたすら上を目指した。木の根を掴み、身体を引っ張り上げ、足を踏み出し、草を踏みしめ、石を掴み、身体を引っ張り上げ、足を踏み出し、木の根を踏みしめ……。

 気が付くと、目の前にアマネの背中が見えていた。ポリタンクが、上下に小さく揺れている。肩で息をしているのだろう。

 真横まで追いつくと、やはりアマネは疲弊していた。土下座をしているかのようにしゃがみ込んで、地面に手をついている。今にも、背負っているポリタンクに押し潰されてしまいそうだ。

 上を見ると、暗闇の中で蠢いていた二つの灯りは消え失せていた。白石と岩澤は既に登り終えたのだろう。だが、ネックライトで照らした先に、山道の終わりが見えた。どうやら、ゴールは目の前らしい。

 アマネの方に向き直った。下を向いて、はあはあと息を荒げている。

「……アマネさん」

 背負っていた背負子を降ろしながら、手を差し伸べた。アマネが、辛そうにこちらを見つめてくる。

「貸してください。あと少しですから」

 石段の時と同じように、アマネは葛藤しているようだったが、あの時よりも体力的に余裕がないのか、すぐに背負子を降ろした。申し訳なさそうに、おずおずと差し出してくる。

 無言でそれを受け取ると、アマネの手首に目がいかないよう、すぐに前を向いた。両手にポリタンクを抱えて、また四つん這いのように登りだす。

 さすがに二つ抱えるのはきついかと思っていたが、地面にポリタンクを置くと、反ってそれが安定した重りになり、身体を引っ張り上げるのに役立った。背負子のベルトが木の根に引っ掛からないように気を付けてさえいれば、難なく登ることができる。

 ポリタンクを持ち上げ、地面にズシンと置き、身体を引っ張り上げ、もう片方を持ち上げ……それをとめどなく繰り返していると、いつの間にか山道を登り終えていた。足が斜面ではなく、平坦な道を踏んでいる。

「ふうっ……」

 二つのポリタンクを地面に置くと、ネックライトで辺りを照らした。また冷やかされやしないだろうかと案じていたが、白石と岩澤の姿は見当たらなかった。

 前方には、登ってきた山道と同じ幅の平坦な藪道が続いていた。その向こうの暗闇の中に、小さく蠢く二つの灯りがあった。どうやら、俺たちを待たずに先に進んだらしい。

 丁度いい。だったらこっちも、勝手に休ませてもらおう。

 息を整えながら、顔の汗を拭った。ツナギの前を開けて、シャツに滲んだ汗を乾かす。

 鴻鳥運輸のツナギを選んだのは、失敗だっただろうか。生地がしっかりしていて良いと思っていたが、反って他の薄っぺらなものの方が通気性が良くて、こんなに汗を掻かなかったかもしれない。まあ、今更後悔しても遅いのだが。

 どこかに座れる場所はないかと辺りを見渡したが、腰掛けられるようなものは見当たらなかった。一瞬、ポリタンクに腰掛けようかと思ったが、すぐに考え直した。得体の知れない液体が詰まっているものに腰掛けてまで休む気はない。

 仕方なく、突っ立ったままアマネが登ってくるのを待った。相変わらず、辺りはシンとしていて、虫の声は聴こえなかった。カサカサと、草や枯葉を踏みしめる音だけが、斜面の方から聴こえてくる。アマネのものだろう。

 もうそろそろ、登り終えるだろうか。

 斜面にネックライトを向けていると、ふと脳裏によぎるものがあった。

 アマネ……。

 その名を聞いた時から、既視感のようなものを感じていた。つい最近、その言葉を誰かの口から聞いたような……。誰だっただろうか?

 脳味噌の片隅で、何かと何かが紐付けられそうな気がしていると、斜面の方からよたよたとアマネが登ってきた。膝に手をついて、辛そうに身を震わせている。

「アマネさん。しばらく休憩してから行きましょう」

 考えるのをやめて、アマネに声を掛けた。別に、紐付けられたところで、どうだっていいようなことだ。そんな気がする。

 アマネは頷きもしないまま、地面に座り込んだ。どうやら、相当に堪えたらしい。

 無理もないだろう。こんな華奢な身体に、20キロの重りを背負って登山をしたのだ。男の俺でさえきつかったのだから、女であるアマネはなおさらのことだろう。

「………」

 妙な沈黙が場に流れた。辺りが不気味なほど静まり返っているせいか、気まずさが押し寄せてくる。二人きりという状況も、それを助長させた。

 気まずい……。かといって、話しかけても今まで通りに無視されるのがオチだろう。さっさと休憩を終えて歩き出せばいいのだが、それはそれで酷だ。

 仕方なしに、時間が過ぎるのを待とうとして、スマホを取り戻していたのを思い出した。そうだ。ここなら、もしかしたら。

 ポケットからスマホを取り出し、ロックを解除して画面を確認した。が、やはり通信状況は圏外のままだった。となれば、位置情報も同様だろう。

 無理だったか。諦めてスマホをポケットにしまい―――、


 ——―カサッ……

 

 不意に、枯葉を踏んだような音が聴こえた。

 ……なんだ?どこで―――、


 ——―カサッ……カサッ……


 ……足音?

 思わず、アマネの方を見遣ると、その音に気が付いていたのか、辺りをきょろきょろと見渡していた。

 アマネではない。となると……誰だ?

 藪道の方に振り返ったが、向こうの暗闇の中には相変わらず、二つの灯りが小さく蠢いていた。白石と岩澤のものであろう灯りが。

 あんなに遠くにいるのならば、足音など聴こえてこないはず―――。


 ——―カサカサッ……


 ……斜面の方から音がしている?

 その瞬間、引いていた冷たい汗がブワッと背筋から噴き出した。

 ——―ここに留まっていては、まずい。

「あ、アマネさんっ……」

 もう行きましょう、と声を掛けようとしたが、アマネはそう言い終える前に立ち上がっていた。どうやら、俺の言いたいことが分かっているらしい。

 二人して背負子に手を伸ばし、背負い直して、いざ前に進もうとした時、

「……ね、ねえ」 

 と、声が聴こえた。ビクッとして咄嗟に振り返ると、アマネがもの言いたげに俺の顔を見つめていた。

 今、アマネが喋ったのか?

「……ありがとう」

 か細い声で、アマネから礼を言われた。さっきの〝ねえ〟と、同じ声色だ。やはり、声を上げたのはアマネだったようだ。

 なぜか、初めてアマネから口を利かれたという驚きよりも〝ねえ〟という声がアマネのもので良かったという安心感の方が勝っていた。

「は、早く行きましょう」

 気のある返事をする余裕もないまま、ショルダーベルトを正して藪道へ踏み出した。暗闇をネックライトの灯りで暴きながら、足早に前へ進んでいく。

 時折、アマネがきちんと後ろについて来ているのを振り返って確認した。その度に、その向こうに何もついて来ていないことを確かめた。

 あり得ないことだとは分かっていた。こんな山中に、自分たち以外の人間がいることなど。

 だが、なぜかあの音は、何者かが斜面を登ってきている音だと思えてならなかった。まるで、自分たちを追ってきているかのように。

 ——―そんなはずはない。きっと、鹿や猪のような獣が通っただけだ。

 そう自分に言い聞かせたが、逸る足は止まらなかった。俺たちは得体の知れない何かから逃げるように、暗闇の藪道を早足で駆け抜けていった。

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