ネックライトの灯りを頼りに藪道を進んでいくと、唐突に開けた場所へと出た。地面には相変わらず雑草が生い茂っていたが、先程まで服を引っ掛けそうなほどに枝葉を突き出していた両脇の藪は左右に広がり、扇状の空間が形成されている。

 試しにネックライトを掲げてみたが、藪のどこにも切れ目はなく、その向こうには鬱蒼とした雑木林がこちらを見下ろすように構えていた。唯一、真正面だけがネックライトの灯りでは照らしきれないほどの暗闇を湛えている。

 まだ進めということか。

 雑草を踏み倒しながら進んでいくと、後方で舌打ちが聴こえた。振り返ると、白石がネックライトの灯り目当てに寄ってくる羽虫を手で追い払っていた。どうやら、先陣を切っている俺が踏み倒した雑草の中から出現しているらしい。

 ついさっきまで、暗闇に染まった未開の地に先陣を切って踏み込んだことを後悔していたが、反ってこちらの方が得だったのかもな。

 そう思っていると、耳元でプゥンと不快な音がした。咄嗟に首の横をはたくと、掌に潰れた蚊の死体がこびりついていた。すぐに、そうでもないなと考えを改める。

 無理もない。真夏の夜に、こんな山の中で灯りを焚いて身体を汗ばませているのだから。蚊共にとって、俺たちはドリンクバーも同然。飛んで火にいる夏の虫だ。この場合、虫は俺たちのことを指すわけだが。

 無論、そんな目に遭う為に来たわけではない。ここへは、わけの分からない作業をしに――金を稼ぎに来たのだから。

 首筋をポリポリと掻きながら歩いていくと、左右に広がっていたはずの藪が、また段々と狭まってきた。突き出している枝葉に追い立てられるかのように進んでいくと、雑草の生い茂った道が終わり、今度は石段が俺たちの前に現れた。

 ——―長い。一体、何段あるのだろう。

 試しに掲げたネックライトの灯りでは、終わりが照らしきれないほどの長い石段だった。それも、角度は結構、急だ。見様によっては、そそり立つ壁のようにも映る。

 両脇にも、中央にも、手すりは存在していなかった。それどころか、石段は所々ひび割れていたり、苔むしていたり、枯れた杉の葉が溜まっていたりした。鬱蒼とした雑木林に挟まれているせいだろう。酷いものは、中央辺りで真っ二つに割れていて、石段そのものが傾いており、その隙間から雑草がピンピンと跳ねていた。

 どうやら、この山は普段から頻繁に登山が行われているわけではないらしい。登山などしたことはないが、いくらなんでもこの有様はないだろう。人の出入りがあるのならば、もう少しは道が整えられているはずだ。

「おい、マジかよ。これ登れってのか」

 いつの間にか、白石が横に立って石段を見上げていた。その口には、タバコが咥えられている。

「石段があるって言ってたから、これのことでしょうね。登るしかないでしょう」

「まあ待てよ。一本くらい吸わせろ。それに、おら」

 白石が、後方を顎でしゃくった。振り返ると、岩澤がヌウッと佇んでいて、思わず肝を冷やしたが、その後ろでは、アマネが肩で息をしていた。

 なるほど、確かにすぐ登り始めるのは酷か。

「なあ、あんたは何で金がいるんだ?」

 白石がタバコの煙を吐きながら、唐突に訊いてきた。

「え?」

「内容を知ってたんなら、想像はついたはずだろ。このバイトがちょっとヤバそうだってことがよ。それなのに、なんで応募したんだ?よっぽど、金に困ってんのか?」

「それは……ええ、そうです」

 正直に答えた。あれやこれやと細かい理由はあるが、それらは全て、金に困っているという文言ひとつで片付けることができる。

 そう、金。金さえあれば……。

「ふーん。そんな風には見えねえけどな。俺は、女の為さ」

 白石は、タバコの灰を地面に落としながら、ニヤリと笑った。

「結婚でもされるんですか?」

 思わず、訊いてみた。それに関しては、自分にも身に覚えがある話題だったからだ。

「いや、結婚なんかしねえけど、セフレがデキちまってよ。今度は産みてえってうるせえから、とりあえず黙らす為に金がいるんだ」

「……あ、ああ、そうなんですね」

 今度は?

 とりあえず黙らす?

 そう訊こうと思ったが、やめておいた。あまり、他人の事情に首を突っ込まない方がいいだろう。それに、人のことを言えるほど、自分も立派な身の上ではない。

 白石はタバコを中ほどまで吸うと、ため息のように煙を吐き、ピンッとその辺に捨てた。まるで蛍が飛ぶように、赤い光の筋が暗闇の中に舞う。

「うっし。じゃあ行くか」

 今度は、白石が先陣を切った。俺は背負子のショルダーベルトを正すと、その後に続いた。一段一段登る度に、ポリタンクからはドプンと水音がした。

 十段ほど登ったところで、額から汗がツウッと垂れた。まだ登り始めたばかりだというのに、もう足の筋肉がきついと悲鳴を上げている。

 我ながら情けなかったが、しょうがない。中学、高校と続けて硬式テニスに打ち込み、大学の頃もサークルに入ってそれなりにやってきたものだが、そうやって培ってきた体力は社会人になった途端にどこかへ消え失せてしまった。今となっては、日常生活を送るだけでヘトヘトになってしまうほどの体力、というよりは気力しか残されていない。そんな身体に20キロの重りを背負わせて、急な階段を登っているのだ。

 あの頃、身体に満ち溢れていた活力はどこに行ったのだろう。大して歳をとったわけでもないのに、随分とヤワな身体になったものだ。

 ツナギの袖で、額に滲む汗を拭った。これを着ている鴻鳥運輸の倉庫勤務の連中ならば、こんな労働は朝飯前だろうか?

 なぜか、自分のことが酷く滑稽に思えてきた。

 あの連中は毎日のようにこのツナギを着て荷物を抱え、倉庫の中をうろうろとしている。俺は事務所からその様を、あんな風にはなりたくないなと思いながら見つめていた。

 それは、妬み嫉みから来ている俺の強がりでもあった。連中はいかに倉庫勤務といえど、正社員なのだから。派遣社員である自分は心のどこかで、あんな単純な肉体労働をしてまで正社員になるのはまっぴらだな、と毒づいていた。

 ところが、今はどうだ。そのツナギを着て、やっているのは鴻鳥運輸の仕事ではなく、明らかに犯罪の臭いがする内容のバイト。

 これでは、連中どころではなく、たまにいる学生バイトよりも、胸が張れない立場にいるのではないか。

 キリリ、と奥歯を噛んで鳴らした。金の為とはいえ、治安の悪そうな連中に混じってこんなことをやっている自分に腹が立った。

 こんなはずではなかった。こんなはずではなかったのに。一体、どこから間違えたのだろうか。

 いや、間違えたのか?そもそも、順調に人生を歩んでいけば遅かれ早かれ、結局はこういうことに行きつくのではないか。なりふり構わずに、自分ではない他の誰かの為、生活の安定の為に働き、金を稼ぐハメに。

 やはり、いつまでも大人という責任から逃げてはいられないということなのだろうか?

 ため息をついて、また額の汗を拭うと、いつの間にか岩澤が隣にいた。下を向いて、黙々と石段を登っている。その顔には汗ひとつ掻いておらず、どこか人間離れした異様な雰囲気が漂っていた。

 ふと前を見る。さすが体力だけはある肉体労働者というべきか、白石はグングンと石段を登っていて、その姿はやや先にあった。

「……あの、岩澤さん」

 呼びかけると、岩澤が顔をこちらに向けた。据わった目が、ぎょろりと俺を睨んでくる。

「あんた、名前は内藤で合ってるか?」

「え?あ、はい、そうですけど……」

 やはり信じられない。これが、あのシャブ中だったのだろうか。雰囲気こそ異様だが、ラリッていた時よりは随分とまともに見える。あの白石よりも。

 しかし、わざわざ俺の名前を訊き直すということは、ラリッていた時の記憶は曖昧なのだろうか。

「あの、岩澤さんって、普段は何をされているんですか?」

「……それは、俺がやっている仕事について訊いているのか?」

「は、はい」

「俺は、日雇いの仕事をやってる。主に建築現場のな」

「白石さんとは、知り合いなんですよね?」

「ああ。白石クンは、俺が派遣される現場によくいるんだ。ここ最近は、ずっと一緒に仕事をしてる」

 その理路整然とした受け答えに、俺は安心感を覚えた。

 どうやら、ラリッている時は馬鹿同然だが、キマッている時はまともな人間らしく、会話ができるらしい。キマッているのにまとも、というのもおかしな話だが。少なくとも、白石よりは常識を持ち合わせていそうだ。

 これなら、もしかしたら……。

「あの、岩澤さんって以前、病院で働かれていたんですか?」

 俺はさっきまでと同じく、何気ない質問をしたつもりだった。ところが、岩澤は突然、階段を登るのをやめて立ち止まり、目を一層ぎょろりとさせて俺の顔を食い入るように見つめてきた。

「……どういうことだ」

「えっ?」

「俺が、そう言ったのか?俺の口から、そういうことを聞いたのか?」

 なぜか、岩澤は動揺している様子だった。恐ろしいほどに据わっていた目が、震えているかのように泳いでいる。

「どこまでだ、どこまで聞いた」

 グイッと、顔を近付けられた。そのあまりの形相に、思わず後ずさりをしそうになった。

「どこまで聞いたんだ……!」

「え、えっと、あの、前はお医者さんだったとしか、聞いてません。それだけですっ」

 正直に答えると、岩澤は、

「……本当だろうな?」

 と、目を据わらせて睨んできた。

 その様は、第三者から見れば正に、蛇に睨まれた蛙だったのではないだろうか。岩澤という蛇を前に、俺は情けないほどに縮み上がっていた。

「ほ、本当です、それしか聞いてません……」

 しどろもどろに弁明していると、突然、顔が横から照らされた。岩澤の視線から逃げるようにそちらを向くと、いつの間にか後方にいたはずのアマネが追い付いていて、こっちに向かってネックライトを掲げていた。さっさと前に行けと言わんばかりに、俺たちを見上げている。

「……そうか、ならいい」

 岩澤はようやく納得したのか、ショルダーベルトを正してまた階段を登り始めた。俺が立ち尽くしたままでいると、その後に続くようにアマネが前を通り過ぎて登っていった。

 俺は、ほっと息をついた後、取り残されまいと階段を登り始めた。

 ―――ダメだったか。

 落胆しながら、重たい足を持ち上げる。

 岩澤に訊いて、再び明らかにしようとしていた。いや、明らかにならずとも、糸口を掴もうとしていた。このバイトの運営側の正体を。そして、このポリタンクの中身を。

 ところが、また失敗に終わったようだ。前回は白石に阻まれ、今度は岩澤本人から突っぱねられてしまった。

 しかし、あの反応を見るに、岩澤が医者だった、もしくは病院で働いていたというのは、どうやら本当のことらしい。

 そして、岩澤はその過去を人に知られたくないようだ。でなければ、あんな動揺の仕方はしないだろう。

 なぜ――分からない。何か、その過去を知られて、まずいことでもあるのだろうか。

 ……もしかすると、岩澤は今の自分に納得していないのではないだろうか?

 何かの建物の地下で、最初に問いただした時、岩澤はこう言っていた。

 〝なんでこうなってるんだろうなあ。どこで間違えたんだろうなあ〟

 あの時、岩澤はラリッていたが、言葉自体は本心から出たものだったのではないだろうか。

 かつては周囲から期待されるほどの秀才で、医者になった。順調に、エリートコースの人生を歩んでいた。ところが、何かが原因で、岩澤はそのエリートコースから転落することになった。そして、日雇い仕事をするまでに落ちぶれて……。

 岩澤は、そのことを恥じているのではないだろうか?だからこそ、現実逃避をする為に、薬物に手を出して……。いや、もしかしたら、エリートコースから転落する原因となったのが薬物なのかもしれない。

 しかし、どちらにせよ、岩澤は自身の過去について詮索されたくはないようだ。あれほどの反応を示したのだから、これ以上探りを入れるのは無理だろう。

 惜しかった。先に、あの地下で会った黒いキャップの男——岡山とかいう男のことを訊けば、それとなく教えてくれたかもしれない。

 だが、得られた情報——岩澤は医者だった、もしくは病院で働いていた――を元に考えると、やはりあの建物は病院だったのではないだろうか?

 そうなれば、あの岡山とかいう男は病院関係者ということになる。

 ……病院から出る、処理に金が掛かって困る、液状のもの。

 段々と、推理できてきた気がする。これは、恐らく病院で使われている薬品か何かの廃液なのではないだろうか。

 そうだ。きっとそうに違いない。

 小難しいことは分からないが、病院では聞き慣れない名前の薬品や液体を山ほど扱うはずだ。当然、それを使用するに当たって、廃液のようなものが発生するだろう。そしてそれは、気軽に下水に流せないような成分を含んでいて、処理するには金が掛かる。だから、こっそりと山奥に捨てるのだ。俺たちがやっているのは、それだろう。

 そういえば、感染性廃棄物という言葉を聞いたことがある。どこで聞いただろうか。確か……ああ、そうだ。映画だ。昔見た、くだらないモンスター映画だ。

 そのモンスター映画は、病院が感染症にかかった患者の血液や排泄物を下水に垂れ流していて、それが原因で下水道に住んでいたネズミやワニが突然変異を起こし、ゾンビ・モンスターとなって暴れ回るという内容だった。そのモンスターに使われていたCGが随分とチープで、鼻で笑うような出来だったのを覚えている。

 このポリタンクの中身も、そういった類のものだろうか?となれば、山に住み着いている生き物がそれを啜って、ゾンビ・モンスターに変貌するかもしれないな。

 そんなくだらない妄想をしていると、ふと前方が塞がった。顔を上げると、先程追い越されたはずのアマネがいて、膝に手をつきながら肩で苦しそうに息をしていた。

「あの、アマネさん。大丈夫ですか?」

 声を掛けたが、アマネは苦しそうにこちらを見るだけで、何も言わなかった。例え心配されようと、心を許す気はないらしい。

「……」

 仕方なく、アマネを避けて石段を登った。見上げると、やや先で白石と岩澤が並んで登っていた。二人のネックライトでも、まだ石段の終わりは見えなかった。

 振り返り、下を見つめる。ネックライトの灯りがアマネとその後ろの暗闇を暴くが、石段の手前にあった、あの開けた藪道までは見えなかった。

 大分登ってきた気がしたが、まだ中腹か。あと、どれくらい登ればいいのだろうか。

 俺は重い身体を引きずるように足を上げて、石段を踏みしめた。背中のポリタンクが揺れ、中に詰まっている得体の知れない液体がダプンと音を立てた。

 

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