それから、俺とアマネと大畑は岩澤に気合が入るのを待っていた。

 車内で二人が何をしているのかは――大方の予想はつくが――分からなかったが、バンのバックドアは開け放たれていたので、音だけは聴こえてきた。

 岩澤の上擦った呻き声。それをなだめているらしき白石の声。カチャンッ、プシッという、オイルライターが着火したような音。チリチリチリ……という、何かが焼ける音。白石の「動くなよ」という声と、岩澤の「うあっ」という喘ぐような声。

 それを最後に、車内は急に静かになった。しばらくすると、ドタドタと白石だけが降りてきた。

「すまねえな。もうちょっとしたら、岩ちゃんに気合が入るからよ」

 そう言うと、白石は手をツナギで拭って、背負子のベルトをひとつひとつ締め上げ始めた。その何の気なしといった態度を見て、こいつとは住む世界が違うな、と感じた。非日常とは、意外と身近に存在しているものなのだな、とも。

 突っ立っていても時間を持て余すばかりだったので、取り繕うように俺も再度、背負子を地面に置き、ワンタッチベルトを締め直した。といっても、既にポリタンクの表面が僅かに凹むほどきつく締めているので、そこまで気を入れなくてもいい。

 ―――ふと、何の気なしにポリタンクの表面を触れていることに気が付いた。

 ……水だ。

 咄嗟に浮かんだ厭な考えを、強引に掻き消す。これは、水だ。この中には、ただの水が詰まっているだけだ。

 だが、頭の片隅では否が応でも、この中に何が入っているのか、という考察をしていた。

 今から、この中の液体を、山頂にある井戸の中へ捨ててくる……。

 なぜ、そんなことをしなければならないのだろうか。この中の液体は、一体何なのだ。

 見つかるとヤバい代物……。パッと思いついたのは、違法薬物だった。ついさっき、それに関する出来事が目の前で行われていたからだ。

 しかし、そうだとしたら、捨てるという行動の意味が理解できない。なぜ、価値のあるものをこんな山の中に捨てる必要がある?

 わけあって違法薬物を秘密裏に処分するハメになる、というのを、海外の犯罪ドラマで見たことがある気がするが、これもそういったケースなのだろうか。しかし、そんなことをするのに素人バイトを雇うというのはあり得ないのではないか。

 それに、よくよく考えてみると、液状の違法薬物なんて聞いたことがない。ああいうものは、大概が粉末や錠剤のはずだ。

 となると、違法薬物の線は薄い。そうなれば、他に思い当たるのは産業廃棄物だ。

 いつだったか、産廃処理業者が自動車工場で出た廃油を山中に不法投棄していたり、畜産農家が家畜の糞尿を河川に不法投棄していたと報じているニュースを見たことがある。確か、どちらも処理するのに費用が掛かるので、こっそりと人目に付かない場所へ捨てて、金を浮かせていたというものだった。

 このポリタンクの中身も、そういった類のものだろうか?処理するのには金がかかるので、こっそりと山中に不法投棄を。しかし、そうだったとしてもやはり、わざわざ高額な報酬を払ってまで素人バイトを雇う意味が分からない。そういったものの処理費用の相場は知らないが、たったこれだけの液体を処理するのに二百万以上もの金が掛かるものなのだろうか。それに、携帯まで奪うほどの徹底した秘密主義だ。法に違反する危険を冒すのに、こんな――自分で言うのも何だが――信用ならない連中をわざわざ使うことはないだろう。

 ……待てよ。使い捨てに等しい人員、高額な報酬、産業廃棄物……。

 ……まさか、放射性廃棄物ではないだろうな?

「おっ、気合入ったか?」

 白石の声で我に返り、顔を上げると、いつの間にか岩澤がバンから降りてきていた。

「………ああ」

 一瞬、耳を疑った。

 その声は酷く落ち着いていて、まるで別人のもののように聞こえたからだ。ああ、とだけの短い声だったというのに。

 それだけでなく、岩澤は猫のように曲げていたはずの背筋も、ピンと伸ばしていた。佇まいや雰囲気が、キリリと張り詰めたものになっている。

「うっし。岩ちゃん、覚えてるか?」

「……それを、運ぶんだろ?」

「ああ、これが岩ちゃんの分な」

 面食らっていると、白石は、それをさも当たり前のことだと言わんばかりに、背負子を差し出した。岩澤はそれを受け取ると、残っていたポリタンクに、てきぱきと装着しだした。

 それは、随分と異様な光景だった。別に何も突拍子のない出来事が起こっているわけではなかったが、だからこそ異様に映った。今まで、うわ言ばかり言っていたシャブ中が、きちんとした人間に戻っている。

 普通、いわゆるクスリと呼ばれるものを摂取したら、ハイになるものなのではないだろうか。うわ言を言い、腑抜けた表情を浮かべて、ニヘラニヘラと笑い出すような……そんなイメージを持っていたが、これではまるで逆だ。ベルトをひとつひとつ入念に締めていく岩澤の表情は、真剣そのものだ。

 覚醒剤、覚醒するクスリか……。言い得て妙だな。

 そう思いながら、しゃがんで地面に置いていた背負子を背負い直していると、

「おい、岩ちゃん。もういいんじゃねえか?」

 と、白石が岩澤に声を掛けていた。が、岩澤はしゃがんだまま振り向くことなく、ベルトを何度もチェックし続けていた。締めては確かめ、締めては確かめ、

「おい、岩ちゃん」

 締めては確かめ、締めては確かめ、締めては確かめ、締めては確かめ、

「岩ちゃんよ」

 締めては確かめ、締めては確かめ、締めては確かめ―――、

「岩ちゃんっ!」

 白石が短く怒鳴りつけながら背中を叩くと、岩澤はようやく手を止めて振り向いた。ギョロッとした目が、完全に据わっている。

「それくらいでいいだろ?ほら、行くぞ」

「あ、ああ」

 ……良くも悪くも、覚醒するクスリか。まあ、腑抜けているよりはマシだろうな。

 俺は一抹の不安を覚えながら、足に力を込めて立ち上がった。足踏みして、背中に20キロの重りを抱えた身体のバランス感覚をどうにか掴む。

「……では、こちらへ」

 全員の準備が整うと、大畑はバンの助手席から紙袋を取り出し、ランタンライトを掲げながら自動販売機の方へ歩き出した。重くなった身体をダラダラと引きずりながら、全員でその後を追うと、やはりアマネだけが一歩遅れていた。眉をひそめながら、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いている。

「手伝ってやろうか、アマネちゃん」

 白石がニヤニヤと笑いながら、後方のアマネに呼びかけた。が、アマネは白石の方を見遣ることもなく、ぶすっとさせた顔を明後日の方向へ向けた。

「ケッ、またダンマリかよ。愛想が良さそうな名前してるくせに。なあ?」

「えっ?」

 突然、同意を求められたが、咄嗟に、

「はあ……」

 と、波風が立たないように言葉を濁した。

 愛想が良さそうな名前というものがよく分からない。アマネ、という響きだけで、そんなことが分かるものか。

 ……アマネ?

 ふと、デジャヴに近いものを感じた。

 最近、その名前をどこかで聞いたような気が……。

「こちらから、入ってもらいます」

 大畑の声で我に返ると、いつの間にか自動販売機の手前まで辿り着いていた。その薄ぼんやりとした灯りに群がっていた羽虫たちが、大畑が手にぶら下げているランタンライトに向かってチラチラと飛んできている。

 大畑の背後——ちょうど自動販売機の真横辺り――には、ずらりと張り巡らされているフェンスがあったが、よく見ると一部分だけ開閉ができる門扉になっていた。が、それには閂が掛けられていて、施錠部分には頑丈そうな錆色の南京錠がぶら下げられていた。

「なあ、ライトはねえのかよ?真っ暗の中、山登りなんて嫌だぜ」

 白石が文句を垂れると、大畑が、

「用意しています。これを」

 と、紙袋から何かを取り出し、俺たちに配り始めた。

 それは、いかにも安っぽそうなネックライトだった。健康に気を遣い出した中高年が夜間ウォーキングをする時に身に着けていそうな、首にかけるタイプのライトだ。

 こんなもので大丈夫なのだろうかと、首にかけてスイッチを入れてみると、割合に明るかった。さすがに遠くまでは照らせないが、足元と手前の空間くらいは問題なく照らせるようだ。

 これで準備万端か。では、いよいよ入山の時だろうか、と思ったが、なぜか大畑は立ち尽くしていた。恐らく、門扉に掛けられた南京錠の鍵を持っているのだろうが、一向にそれを開けるそぶりを見せずに、無表情で腕時計を見つめている。

 なんだ?まだ、何か待っているものがあるのだろうか。

 疑問に思っていると、大畑は突然、自動販売機の前へ歩み寄り、

「……みなさん、飲み物でもどうぞ」

 と、ポケットの中から財布を取り出して千円札を入れた。

「おっ、奢りかよ。気前いいじゃんか」

 白石が真っ先に自動販売機へ向かったので、俺とアマネと岩澤もおずおずとそれに続いた。

「お好きなものをどうぞ」

「へへっ、大畑サン。あんた意外と気が利くんだな」

 意外と、とか言うなと、コーラを選んだ白石に心の中で毒づく。その後、岩澤は水を、アマネはお茶を選んでいた。最後に、俺もお茶を選んだ。本当はスポーツドリンクにしようと思っていたが、ボタンの部分に蜘蛛の巣が汚らしくこびりついていたので、仕方なくお茶にすることにした。

 全員が飲み物を手にすると、大畑は自分の分は買わずに釣銭を財布にしまいながら、また腕時計を確認していた。ツナギのどこにペットボトルをしまおうか思案しながら、それを見つめる。連絡でも待っているのだろうか。

 ふと、天を仰ぐと、夏の夜空だというのに星はひとつも見えなかった。恐らく、平地より多少は標高の高い山の中にいるはずだが、所々に千切れた灰色の雲が泳いでいるばかりで、見渡す限り真っ黒だった。唯一、月だけがぼんやりと光を発しながら浮かんでいたが、それにも雲がかかって陰っている。


 ——―カチャン


 と、金属が鳴る音が聴こえた。振り返ると、いつの間にか大畑がフェンスの門扉を開いていた。蝶番が錆びついているのか、ギイギイと軋んでいる。

「では、今一度、みなさんにやって頂く作業内容を説明します」

 慌ててツナギの腿の部分にあるポケットにお茶のペットボトルをねじ込み、門扉の方へ戻った。既に並んでいた他の面々に倣い、その列に加わる。

「ここから真っ直ぐ進むと、すぐに石段が見えてきます。それを登ると、道が設けられていますので、そこをまた真っ直ぐ進んでください。分岐点のない一本道ですので、道なりに登っていけば問題なく山頂に辿り着くことができます。山頂には、先程も言ったように古い井戸がありますから、その中にポリタンクの中身を一滴残らず捨ててください。ちなみに――」

 突然、淡々と説明を述べていた大畑が口を噤んだ。かと思ったら、一呼吸置いた後、

「その井戸の周りには、ちょっとした囲いがしてありますが、それには触れないようにしてください」

 と、無機質に、だが、やや語気を強めて言い放った。

「囲い?」

 思わず、口をついて出てしまった。すると、大畑が、

「ええ、囲いです」

 と、復唱した。

 なぜ、そんなことをわざわざ注意するのだろうと疑問に思っていると、大畑にそれを察されたのか、

「古くなっていますので、触れないようにしてください。倒れたりしたら危険ですから」

 その冷たい視線がまるで、いいから言われた通りにしろ、と言っているようだったので、俺はすごすごと小さく頷いた。

「何か、他に質問はありますか」

「なあ、その井戸まで、どれくらい時間かかんの?」

 俺が黙り込んでいる横で、白石が質問する。

「そこまで時間はかかりません。三十分も歩けば、辿り着くはずです」

「三十分も荷物抱えて山登りかよ。なあ、この中身、その辺に捨てちゃあ――」

「絶対にダメです」

 白石の垂れる文句を、大畑が厳かに遮った。それは、今までに大畑が発した声の中で、一番感情が籠っているように聴こえた。

 怒り、呆れ、そして、畏怖という感情が―――。

「……分かったよ。ちゃんと山の天辺で捨てるって」

 さすがに怯んだのか、白石がゴニョゴニョと釈明した。しかし、大畑は、

「山頂に着くまで、ポリタンクは決して開けないでください。転倒して破損したり、中身が零れるようなことも、絶対にないように注意してください」

 と、俺たちの顔を見渡しながら、まるで脅しをかけるように言い放った。

 場に、ピリリと張り詰めた空気が流れる。どうやら、この中身はのものらしい。その辺に捨てれば、大問題になるような……。

 ……やはり、この中身は放射性廃棄物なのではないだろうか?

 真相は分からないが、それに近い類のものに違いない。処理費用がやたらにかさみ、易々とその辺に捨てられず、それでも捨てようものならば、確実に法を犯すことになる、液状のもの。

 だとすれば、俺たちはとんでもない犯罪の片棒を担がされているのではないだろうか。そんなものを山中の井戸に捨てるなど、ちょっとした環境破壊どころでは済まなさそうだ。下手をすれば、小難しい名前の法律を突き付けられて、逮捕されてしまうのでは……。

 そんなことになるわけにはいかない。これ以上、金のかかる事態に遭遇するのは勘弁だ。もしそうなったとして、金でどうにかなるのかは知らないが。

 最悪の想像をして身を震わせていると、

「では、山頂に向かってください。私は、ここで待機していますので」

 と、大畑が門扉の前から離れ、真横に立ち尽くした。

「……」

 俺は背負子を背負い直すようにショルダーベルトを正すと、一歩、踏み出した。門扉を越え、ネックライトの灯りを頼りに、雑草の生い茂った暗い藪道を歩いていく。

 やや進んで振り返ると、他の面々も後に続いていたようで、ネックライトの灯りが三つ、ついて来ていた。

 その後ろ――門扉の外で、手にランタンライトをぶら下げた大畑が、亡霊のように佇んでいた。いや、亡霊というよりは、その姿は死神のように映った。

 まるで、亡者たちを地獄の門へと誘い、送り出すかのような―――。

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