「おかえりー」

 アパートに帰ると、麻理がキッチンに立って何かを作っていた。かき回している鍋から、ふつふつと湯気が立ち上っている。

「ただいま。それ何?」

「そうめん。ほら、この間、お母さんが送ってくれたやつ」

「ああ、そういやそんなのあったっけ」

「そんなのって何よぅ。これ、結構いいやつなのよ?」

 麻理が菜箸を振り上げて、頬を膨らませた。

「そうなの?」

「その辺のスーパーじゃ売ってないくらいのブランド品なんだから」

 素麺なんてものに、ブランド品という概念があるのだろうか。

「そっか、じゃあ、それはそれは美味しいんだろうな」

「あー!疑ってる!見てなさいよ、絶対に美味しいって言うから」

 麻理はそう言うと、また菜箸で鍋の中をかき混ぜ始めた。俺はその可愛らしい姿を見て、すっかり釘を刺す気が失せてしまい、しばらくの間、ほくそ笑みながら麻理のことを見つめていた。




「そういえば、誰と会ってたの?」

「え?」

 啜った素麺を咀嚼し、飲み込んだ。言われてみれば、確かにスーパーで売っているものよりも、多少は喉越しがいい気がした。

「誰かと会ってたんじゃないの?」

「なんで?」

「やっぱり、誰かと会ってたんだ」

 麻理はそう言うと、伏し目がちに素麺を啜り込んだ。

「まさか、疑ってるの?」

「そうに決まってるでしょ。だから、カマかけたの」

 やれやれと、ガラス製のサラダボウルの中で揺蕩う素麺を箸ですくった。

「中村だよ。ほら、大学のサークルで一緒だった」

「ホントに?」

 麻理は訝し気に、俺の顔を見た。

「本当だよ。飯に付き合えって言うから、ファミレスで会ってたんだ」

「こんな時間に?」

「ああ。なんか、ゴルフ接待に行く前に腹ごしらえするって言ってた」

「ゴルフぅ?こんな時間からぁ?」

「なんか、ゴルフ場に行くんじゃなくて、打ちっぱなしで講義を受けるんだってよ」

 弁明を終えて何の気なしに素麺を啜ったが、麻理は相変わらず俺を疑っているようだった。

「おいおい、本当だって」

「なんか嘘っぽぉい。ホントは他の誰かと会ってたんじゃないの?」

「そんなわけないだろ。なんなら、中村に電話して聞いてみろよ」

 呆れ気味にスマホを差し出すと、麻理はようやく納得したのか、

「……ごめん」

 と、しおらしく謝った。沈んだ顔がたまらなく可愛いかったが、口にするとわざとらしいとまた疑われそうだったので、黙っておくことにする。

「いいって。俺も出掛ける前に言ってなかったし」

「……悟志、凄くモテるから、もしかしたらと思って」

 俺はスマホをポケットにしまうと、

「それは昔の話だろ。今はもう違うし、第一、麻理がいるのにそんなことできるかよ」

 と、笑った。つられて、麻理も照れくさそうに笑った。

「うん、そうだよね……。ねえ、悟志ぃ」

 麻理が急に猫撫で声になりながら、箸を置いてこちらに這い寄ってきた。

「どうした――」

 突然、麻理が俺の唇を塞いだ。思わず、箸と椀を置きながらそれを受け止めると、麻理は俺の肩を掴んでゆっくりと後ろに押し倒した。

 そのまま、麻理はひとしきり俺の唇を弄ぶと、間近に俺の顔を見つめてきた。

「……めんつゆの味がする」

「もう、雰囲気壊さないでよ」

 麻理は不服そうに、でも、どこか楽しげに言うと、今度は俺の首に吸い付き始めた。

「したくなったの?」

「……うん」

「素麺、伸びちゃうんじゃない?」

「素麺って、伸びるの?」

「……知らない」

 俺はガバッと起き上がると、麻理を抱えてベッドに放り投げた。

「きゃっ」

 麻理が楽しそうに小さく悲鳴を上げた。俺はTシャツを脱ぐと、ベッドの上で身体をくねらせている麻理に覆いかぶさった。

「ふふ、もう、乱暴なんだから」

「誘ってきたのはそっちだろ?」

 今度は俺が、麻理の唇を弄ぶ。と同時に、麻理が履いていたショートパンツをするすると脱がした。

「……ねえ、ゴムは?」

「そんなの、必要ないだろ?」

「あ、そっか、そうだったね」

 思わず、ふふ、と笑みが漏れた。こういうちょっと抜けているところが、麻理はたまらなく可愛い。

「……ねえ、私たち、上手くやっていけるかなあ?」

 嬌声を小さく上げていた麻理が、突然不安そうに呟いた。

「何が?」

「これから、ちゃんと暮らしていけると思う?今は二人だけど、これから………どうしたの?」

「え?」

 麻理が、なぜか怖いものでも見るような目で、俺の顔を見つめていた。

「……悟志、何かあったの?」

「……いや、なんでもないよ」

 俺はそう微笑みかけると、麻理の首筋に吸い付いた。耳元で、麻理がまた小さな嬌声を上げる。

 今は、今だけは、今くらいは、何も考えないでいたかった。

 これから待ち受けているであろう、様々な不安から逃げるように、俺は麻理の身体に身をうずめ、目先の快楽に溺れ続けた。




 行為を終えた後、俺は寝入っている麻理を起こさないようにゆっくりとベッドから出た。床に放っていたTシャツと短パンを拾って着ると、そろそろと玄関へ向かう。

 音を立てないよう慎重に扉を開けて外に出ると、夏の夜の生温い風が俺の身体を撫ぜていった。また音を立てないように扉を閉めて、外廊下の手すりにもたれる。

 こうして一人の時間を過ごすことは珍しくなかった。俺はタバコを吸いもしないのに、こうやって外で一息つくことが多い。それも、決まって夜に。

 この行為に深い理由など無い。ただ、外の空気を吸いたいだけだ。部屋の中ではない、外の空気を。ただそれだけだ。

 ……いや、認めたくはないが、なんとなく察しは付いている。

 俺は、一人でいたいのだ。誰かと一緒ではなく、一人で過ごしていたいのだ。

 別に麻理のことが嫌いなわけではない。ただ、俺は解放されていたいのだ。ありとあらゆる責任から。大雑把に言えば〝大人〟という概念から。

 もちろん、大人になった今、それが無理なことは百も承知だ。それでも、俺はこうして疑似的に自分を解放せざるを得なかった。そうしなければ、窒息してしまいそうな気がするからだ。社会という、何をやっても責任が付いて回る大人の世界に。

 ふう、とため息をついて顔を上げると、両隣の部屋の、外廊下に面している小窓が開いているのに気が付いた。そこから網戸を通して、微かに他人の生活の臭いと喧騒が漏れてくる。

 左隣の部屋からは、アニメのものらしきテレビ音声が聴こえてきた。確か、住んでいたのはいかにもオタクっぽい見た目の陰気な男だったはずだ。一度、廊下ですれ違った際に全身を舐めるように見られたと、麻理が気持ち悪がっていたのを覚えている。

 右隣の部屋からは、テレビの音は聴こえてこなかった。代わりに、鼻をつまみたくなるほどタバコの臭いが漂ってくる。煙こそ見えないが、あの小窓からモワモワと漏れているに違いない。

 あそこに住んでいるのは、水商売をしているらしい中年の女だ。朝方、たまにすれ違うことがあるが、いつも年相応とは思えない派手気味な服を着ていて、きつい香水とタバコの臭いを振りまいている。愛想よく挨拶をしてくるが、その声はいつも酒に焼けていた。

 また、ため息をついた。行為中に頭の隅に追いやっていた考えが、夜風を浴びたことによって戻ってくる。

 ——―このままじゃ、ダメだ。

 いつまでも〝大人〟という概念から逃げてはいられない。いい加減に、大人にならなければならないのだから。

 そうだ。麻理の言っていた通り、これからちゃんとした暮らしをやっていかなければ。

 その為にはまず、どうにかして、ここから脱さなければならない。こんな、立地も、住人も、見た目も、何もかもがうらぶれたワンルームアパートから。こんな場所では、麻理と暮らしていけない。

 ポケットから、スマホを取り出した。ひび割れた黒い画面の中に、俺の顔が反射して映り込んでいる。

「…………」

 俺はしばらく無表情の自分と睨めっこをした後、LINEを立ち上げて、中村から教えてもらった中村の知り合いに〝件のバイトの連絡先を教えてほしい〟という旨のメッセージを送った。

 

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