「よお、久しぶり」

「ああ」

 テーブルに着いたまま、ようやく現れた中村なかむらに気のない返事をした。こいつは、いつもこうだ。時間にルーズで、待ち合わせ場所には必ずと言っていいほど遅れて来る。例え、中村本人が時間と場所を指定してきた場合でも。

 大学を卒業して社会人になれば、そのだらしなさはいくらかマシになると思っていたが、そんなことはなかったようだ。それを如実に表すかのように、着ている白のTシャツは皴だらけで、黒のチノパンにも白い埃がびっしりと付いていた。

「何か頼んだ?」

「いや、まだ何も」

「ふーん。じゃあ、えっと……」

 中村はテーブルに着くなり、メニューを手に取って広げた。パラパラとページを捲り、胃袋に詰め込むものを念入りに吟味している。ファミレスのメニューなど、種類も味もたかが知れているだろうに。

「俺は、このミックスグリルセットにするか。お前は?」

「俺は……このチキンドリアでいいや」

「おいおい、高校生かよ。後でポテトでも頼むのか?」

「頼まねえよ、金欠なんだから」

「ああ、そうだったな。じゃあ、お冷取ってくるから、頼んどいてくれ。ライスは大盛りな。あと、サラダは要らないって言っといて」

 そう言うと、中村はこっちの返事も待たずに呼び出しボタンを押し、席を立った。俺はやれやれと思いながら、注文を取りに来た店員にミックスグリルセットとチキンドリアを頼んだ。面倒くさかったので、ミックスグリルセットの注文はライスを大盛りにする以外に、何も付け加えなかった。




「で、何なんだよ。うまい話って」

 食べ終えたサラダの小皿をテーブルの端に追いやりながら、ミックスグリルを頬張る中村に訊いた。

「ん、ああ。お前、金に困ってんだろ?」

 中村は思い出したように、ハンバーグの切れ端を口に入れたまま喋った。テーブルに、ソースの飛沫が飛ぶ。白いシャツを着ているというのに、気にならないものなのだろうか。

「……ああ」

 チキンドリアの皿を手前に引き寄せると、スプーンでホワイトソースの焦げ目をつついた。とても五百円の価値があるとは思えない代物を、少し冷ましてから口に運ぶ。

「大変だろうな。親御さんとか、身の回りには言い辛いんだろ?」

「誰にも言ってない。知ってるのは、お前を含めた俺の友達の何人かだけだよ」

「そうか。まあ、事が事だもんなあ。そいつらは、工面してくれなかったのか?」

「断られたに決まってるだろ。みんな、同じ返事だったよ。自分だけで手一杯だってな。だから、今日ここに来てるんだ」

「ハハッ、そうかそうか」

 中村はニヤニヤと笑いながら、ウインナーを二口で頬張り、大盛りのライスをかき込み始めた。まったく、話すのか食べるのか、どちらかにしてほしい。

 仕方なく、ホワイトソースまみれのちっぽけな鶏肉をスプーンですくい上げた。

 ———金が要る。

 最近は毎日のようにそう考えていた。暇さえあれば、金、金、金。呪いのように、金、金、金……。

 一人の若者として――いや、人間としては、至極真っ当な考え方だろう。金はあればあるだけいいのだから。あればあるほど衣食住が潤い、生活は豊かになっていく。

 ……豊かな暮らしか。

 自分は今、それからほど遠い領域にいる。正直、自分一人を養うことさえ厳しい状態だ。だというのに、気が付けば身の丈に合わない状況に身を置いていた。

 金の工面を断ってきた連中の言い分も痛いほど分かる。俺だって、全く同じ状況なのだ。まだ大学を卒業したばかりで、社会に出て間もないというのに、奨学金の返済もままならない経済状況の中、一体どうやって……。

「バイトしねえか?」

 顔を上げると、中村が今度はチキンステーキを頬張っていた。

「バイト?」

「ああ、言ってたうまい話ってのはそれだよ」

 中村は、自分がスプーンの上に乗せているものよりも、ずっと大きな鶏肉をあっという間に飲み込むと、口を拭いながら話し出した。

「俺の友達の知り合いから聞いたんだけどさ。随分と金払いが良いバイトがあるらしいんだよ。それも、たった一晩限りで」

「金払いがいいって、いくらだ?」

「えっと、確か十万だったっけ。いや、二十万だったかもしれねえな」

「おいおい、いくらなんでも……。まさか、エロビデオに出演させられるんじゃないだろうな」

「そんなんじゃねえよ。そっちは別の知り合いがやったから知ってるが、思ってるよりもあんまり稼げねえらしいぞ。相場は大体、一発当たり四、五万らしい」

「……やめてくれ、食欲失せるだろ」

「ハッハッハ!すまんすまん。お前が食ってるもの忘れてたよ」

 ゲンナリして、スプーンを置いた。結露でビシャビシャになったコップを引き寄せ、水を飲む。

「話が反れたな。で、そのバイトなんだけどな。内容は変なんだが、楽なのは楽なんだ。何も用意しなくていいし、手続きも必要ない。日雇い仕事みたいなもんだな。金も当日に手渡しでくれるって言ってた」

「なんか怪しいな。ヤクザとか、クスリとか、そっち系か?麻薬の運び人なんて、俺はごめんだぞ」

「そんなんじゃねえよ。ただ、運び人ってのは合ってるかもしれねえな」

 中村は付け合わせのポテトを口に放り込むと、皿にこびり付いた米粒をフォークで引っ掻き始めた。

「運ぶって、何を?」

「そこまでは知らねえんだ。でも、麻薬とか、そういうのじゃないらしい。それも、最後は運んだ物を捨てるんだと」

「捨てる?」

「ああ、要は物を渡されて、それを捨てて帰ってくるんだ。ただそれだけ」

「……なんか、ますます怪しくなってきたな。信じていいのかよ?」

「ああ、現に俺の友達の知り合いは、きちんと報酬を貰ってるからな。それを手に、アマネちゃんの所に駆け込んだって言ってたよ」

「アマネちゃん?」

「そいつのお気に入りのソープ嬢さ。フルコースで楽しんだんだってよ」

 中村はニヤニヤと笑いながら、今度はフォークにこびり付いた米粒を舐め取り始めた。

 俺は紙ナプキンでコップの結露を拭きながら、中村の語ったバイトの内容を頭の中で反芻した。

 たった一晩で十万、もしくは二十万。何の用意も手続きも必要なく、報酬は手渡し。一晩で、ということは、恐らく夜な夜な、何かは分からない物を運び、それをどこかに捨てて帰ってくる。

 真っ当なアルバイトではないということは明らかだ。後ろ暗いどころではなく、犯罪の臭いがプンプンする。

 しかし、経験者はきちんと報酬を受け取っているらしい。ソープのフルコースとやらの値段は知らないが、一晩限りのアルバイトの割には高額な報酬であることには間違いないだろう。

 もちろん、中村の言葉を信じればの話だが。

「お前、デザート食う?」

 中村はミックスグリルセットを平らげるや否や、メニューを手に取って開いた。

「……いや、いいよ」

「そうか、じゃあ俺は……」

 中村のミックスグリルの鉄板には、夥しい量のコーンがハンバーグのソースにまみれて汚ならしく散らばっていた。

 俺は色々なことに辟易しながら、すっかりぬるくなったチキンドリアを口に運んだ。




「で、やるのか?やるなら、知り合いの連絡先教えとくけど」

 デザートのかき氷を凄まじいスピードで食べ終えた中村が、スマホをいじりながら呟いた。

「ちょっと待ってくれよ。考えさせてくれ」

 テーブルに頬杖を突いて、今一度考える。

 経験者がきな臭い目に遭っていないのなら……。いや、確証はない。中村の言う事だ。適当に話を盛っているのかもしれない。報酬もそうだ。たった一晩で二十万?そんなバイトがあるだろうか。

 引き受けたが最後、どこぞで見聞きした、くだらない都市伝説のような結末になるのではないだろうか?誘拐されて人身売買の餌食になるとか、薬を盛られて気が付いたら内臓を抜かれていたとか。そんなことになるのなら、エロビデオに出演した方がまだマシだ。

 しかし、金に困っているのも事実だ。それだけの報酬が手に入れば、これからの生活にも余裕が生まれる。あっという間に支払いに消えていくだろうが、今は少しでも、その焼け石にかける水が欲しいのだ。

「早くしてくれよ。これから取引先と接待ゴルフなんだ」

 考え込んでいると、中村が唐突にしびれを切らした。

「接待ゴルフ?こんな時間からゴルフ場に行くのか?」

「いや、打ちっぱなしだよ。スイングがどうのこうのって、無理矢理教えられるんだ。趣味でもねえのに、たまったもんじゃねえよ」

 今日会ってから初めて、中村の真剣な表情を見た気がした。その顔つきは、きちんと現実に向き合っている社会人といった様相をしていた。

 途端に、中村の印象が違って見えてきた。だらしなく見えた皴だらけのシャツも、埃だらけのチノパンも、私服の世話に気を遣っていられないほど忙しい毎日を送っている証に感じられてくる。

 こいつも意外と、大人になった途端に圧し掛かってくる様々な物事に対する責任に、真っ向から向き合っているのだな……。

「で、どうすんの?」

「あ、ああ。そうだな……」

「悩むなら、後で知り合いの連絡先送っとくぜ」

「……いや、やる、やるよ、そのバイト。教えてくれ」

 悩んだ末に了承すると、中村はまたニヤリと笑い、元のだらしない顔つきに戻った。

「そうか。えっと、LINEでいいな。こいつから、バイト先の電話番号を訊いてくれ」

 スマホを取り出し、ひび割れた画面を立ち上げると、中村から知り合いの連絡先が転送されてきていた。アイコンの画像が、スロットの大当たり場面の写真に設定されている。随分と景気のいい奴らしい。

「ああ、ありがとうな」

「いいってことよ。じゃ、そろそろ出るか」

 伝票を手にレジに向かう中村に続いて、席を立った。薄っぺらい財布の小銭入れの中から五百円玉を取り出していると、中村が会計をしていた店員に、

「一緒で」

 と、言い放った。

「おい、いいよ」

 五百円玉を差し出したが、中村は、

「遠慮すんなって。とっとけよ。あんなチキンドリアの代金より、もっと先に払わなきゃならねえものがあるだろ」

 と、俺の手を押しのけた。

「……悪いな」

「気にすんな」

 そこまで気にはしていなかったが、会計をしていた店員は眉をひそめていた。〝あんなチキンドリア〟という物言いが気に入らなかったのだろう。

 そそくさと逃げるように先に外へ出ると、すぐに会計を終えて中村が出てきた。

「じゃあな。バイト、頑張れよ」

「ああ、もし無事に終わったら、その報酬でなんか奢るよ」

「……ああ、そうだな」

 中村はこれから接待だということを思い出したのか、顔を曇らせて伏し目がちに呟いた。

「じゃあ、そっちも接待頑張れよ」

 茶化すように言うと、中村は、

「ああ、お前もな。お似合いのバイトだと思うぜ」

 と言い放ち、通りの向こうへと歩いて行った。

 ……お似合いのバイト?どういう意味だ?

 訊こうかと思ったが、既に中村は手前の道路の横断歩道を渡り終えて、人混みの中へ消えていく最中だった。

 煮え切らないまま向き直ると、帰る為に歩き出した。お似合いとは、一体どういう意味なのだろう。

 ……ああ、そういうことか。

 合点がいった。俺が今、運送屋で働いているからか。

 もっとも、俺は運送はしていない。やっているのは事務作業だし、それも派遣の補助員扱いだ。中村は、俺が運送員をやっていると思っていたらしい。単純な奴だ。

 しかし、中村には俺が運送屋で働いていることを話していただろうか。覚えが無いが、大方人づてに聞いたのだろう。

 麻理まりだろうか。まったく余計なことを。帰ったら、きちんと釘を刺しておかなければ。あまり、身の回りに俺の職場のことをいいふらすんじゃないと。

「……ふふっ」

 麻理がどんな反応をするか想像していると、思わず笑みがこぼれた。

 ———早く帰ろう。

 俺は夕暮れの気配がする空の下、街並みを眺めながら家路を急いだ。

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