中村とファミレスで会った日から二週間後の夜、俺は家の近くのコンビニの前で迎えが来るのを待っていた。

 あれから、中村の知り合いに件のバイトの連絡先を教えてもらい、その番号にかけてみたところ、電話口に出たのは大畑おおはたと名乗る、冷たい声色の男だった。

「あの、一夜限りのバイトがあると聞いたんですが……」

 そう言うと、大畑は何の感情も籠っていない機械音声のような口調で淡々と事前説明を始めた。いや、事前説明というよりは、引き受けるつもりならこの条件を飲めという通告だ。

 その条件とは、簡潔にまとめると、こういったものだった。

 バイト中は、余計な質問や詮索をしないこと。

 バイト中、もし何かトラブルがあっても、こちらは一切責任を負うつもりはないこと。

 バイトの内容を、絶対に誰にも話さないこと。

 大畑は、これらの条件を飲めるのならば引き受けてもらうと、無機質に言い放った。

 その半分脅しのような物言いに困惑したが、大畑は最後に、報酬はきちんと支払うつもりだと付け加えた。

「あの……失礼ですけど、どのくらい貰えるんでしょうか?」

 恐る恐る訊いてみたところ、大畑は、

「……きちんと遂行して頂ければ、五十万円ほど」

 と、また無機質に言い放った。その瞬間、俺の口は勝手に、

「引き受けます」

 と、答えていた。

 報酬は五十万円。それを理解した瞬間、中村から聞いたバイトの怪しげな内容や、大畑から掲示された謎めいた条件に対する疑念など、あっという間に吹き飛んでしまった。

 たった一晩で、五十万円もの大金が手に入るのだ。中村から聞いていた額よりもずっと多いし、何よりバイト先の人間の口から直に報酬の額を聞いたという事実が、抱いていた疑念を吹き飛ばすのを助長させた。

 我ながら単純だとは思うが、大畑は口調こそ機械音声のように無機質だったものの、嘘を言っているようには思えなかったのである。その冷たい声色は、きな臭くも胡散臭くもなく、どこか真剣にものを言っているという説得力があった。

「……では——」

 俺の返答を聞くや否や、大畑は淡々とバイト当日の説明を始めた。といっても、当日の日時と、好ましい服装を一方的に伝えられただけで、内容に関することは一切教えられなかった。

「あの、ちなみに、バイトって何を——」

 一応訊いてみたが、大畑は、

「それは当日、説明させて頂きます」

 と、食い気味に質問を遮った。

 〝バイト中は、余計な質問や詮索をしないこと〟という条件を飲んだばかりだろうが。それを守れ。まるで、そう言われているようだった。

 俺はあれこれと詮索するのを諦めると、当日の集合場所を打ち合わせた。すると、親切にも車で迎えに来てくれるとのことだったので、家から一番近いコンビニを待ち合わせ場所に指定した。

 そして今、打ち合わせた通りに日時と場所、服装を順守して待っているのだが、一向に迎えが来る気配がない。

「……ふう」

 ため息をつくと、さっきまで飲んでいたブラックコーヒーの缶を手の中でぐにゃりと凹ませて、ゴミ箱に捨てた。ポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると、ひび割れた画面の中で、デジタル時計が十時過ぎを示していた。

 十時にここで、という約束だったはずだが、迎えの車は未だに姿を見せない。どんな車かは伝えられていなかったので、それらしい車が駐車場に入ってくる度に顔を向けているが、どれも違うようで、降りてくる者からは時折、怪訝な顔をされた。

 別に俺の格好がおかしいからではない。服装はどんなものでも構わないが、なるべく地味な色調で、且つ、動きやすいものが好ましいと言われたので、黒いシャツにグレーのカーゴパンツを着てきた。何も用意する必要は無いとも言われたので、荷物も中に財布とハンカチタオルだけが入った小さなボディバッグしか身に着けていない。どこにでもいる、何の変哲もない若者の格好だ。怪訝な顔をされるのは、俺が車から降りてくる者の顔を執拗に凝視しているからだ。

 まさか、来ないんじゃないだろうな。あれだけ条件を飲めと脅しておいて。わざわざ麻理に〝どうしても誘いを断れない先輩から呼び出されたから〟と、白々しく嘘をつき、必死に弁明をしながら苦労して出てきたというのに。

 まったく。どうしたものか、中で立ち読みでもしていようか。

 そう思案していた時だった。駐車場に、黒い大型のバンがブォンと勢いよく乗り上げてきた。その黒いバンは駐車場に引かれた白い枠線を無視して、コンビニの入り口前に堂々と横向きに停まった。車椅子マークを覆い隠すかのように。

 呆気に取られながら、その傍若無人な黒いバンを眺めていると、それが随分とみすぼらしい見た目をしているのが分かった。

 車体にはあちこちに擦ったような跡があり、横っ腹はぶつけられたのかベッコリと凹んでいる。フェンダーやサイドステップには泥飛沫がこびりつき、ホイールには錆が浮いていた。

 恐らくは、一昔前の型式だ。随分と酷使されたのだろう。車体が全体的にガタが来ていて、老いさらばえているように見えた。ブスブスという不規則なエンジン音が、まるで老人の咳のように感じられてくる。

 モラルもマナーもなっていない、まさしく老害のような車だな。

 そう思っていると、その老害のようなバンの運転席の窓がスルスルと開き、中から黒い短髪をきっちりと七三に分けた髪型をした、蝋人形のような顔つきの男が顔を出した。無表情で、こちらをじっと睨むように見つめてくる。

「……内藤さんでしょうか?」

「えっ?あ、はい、そうですけど……」

 不意に呼びかけられ、慌てて返事をすると、男は無表情のまま、後部座席のスライドドアを顎でしゃくり、

「大畑です。乗ってください」

 と、言ってきた。そこでようやく、この黒いバンが迎えの車だということを理解した。

 ……これに乗せられるのか。

 電話口で報酬の額を聞いて以来、消え失せていた疑念がふつふつと蘇ってきた。これに乗ったが最後、このみすぼらしいバンごと、どこかに捨てられるのではないだろうか。なぜか、そんな風に思えてならなかった。

 しかし、躊躇する暇など無かった。大畑の冷たい視線に追い立てられるかのように、俺はゴリゴリと重たいスライドドアを開いた。

 中から漂ってきた埃っぽい空気を吸い込みながら、薄暗い車内に目を凝らすと、そこには運転手の大畑以外に三人の人間がいた。

 運転席の真後ろのシートには、金色のラインが入った黒いジャージの上下を着た、俺と同い年くらいに見える茶髪のショートヘアーの女が、ブランドものっぽいポーチバッグを携えて座っており、その後ろのシートには、がっしりとした体格の金髪坊主頭の男と、痩せぎすのスキンヘッドで、パッと見るだけでは年齢が判別できない顔つきの男が座っていた。全員、何を言うでもなく、無言で俺の方を睨みつけている。思わず、軽く会釈をしたが、誰もそれに反応することはなかった。

 まるで、早く乗れという無言の圧力を発されているような気がして、急いで重たいスライドドアをガチャンと閉め、唯一空いていた手前のシートに座った。と同時に、

「……内藤さん」

 と、運転席の大畑が振り向いた。

「はい?」

「申し訳ありませんが、携帯を預からせて頂きます」

「えっ?」

 思わず訊き返したが、大畑は何も答えずに、手を差し出してきた。

「あ、あの……」

「一時的に預からせて頂くだけです。どこかへ連絡をしなければならないのなら、今の内に。不安でしたら、ロックを掛けて頂いても構いません」

 その物言いは、有無など言わせない、といった風だった。

 それとなく他の面々の様子を窺うと、さっさと渡せと言っているようだった。恐らく、全員とも既に同じ目に遭い、大人しく言う事を聞いたのだろう。

 止む無く、ポケットからスマホを取り出し、大畑に手渡した。大畑はそれをどこからか取り出した黒いクラッチバッグの中へ丁重にしまうと、

「後で必ず返しますので」

 と、言い放った。と同時にエンジンがふかされ、バンは急発進した。コンビニの駐車場から勢いよく道路に躍り出ると、猛スピードで走り出していく。

 埃臭いバンの中で、窓の向こうの暗い街並みを眺めながら、俺は早くも後悔に苛まれていた。

 これではまるで、護送されているようではないか。

 見ず知らずの男に促されて、見ず知らずの車に乗せられ、携帯を没収され、既に乗っている、やはり見ず知らずの面々は、どこか後ろ暗い雰囲気を纏っている。

 何のいわれもないのに、まるで罪人の一員にされてしまったかのような……そんな居心地の悪さを感じた。

 やはりこのバイト、引き受けるべきではなかっただろうか……。

 そう感じていた時、不意に後ろから、

「おい、あんた」

 と、声がした。振り返ると、金髪坊主頭の男がこちらに身を乗り出していた。

「はい?」

「名前、なんてえの?」

 金髪坊主頭は口を開けたまま、俺の返答を待っていた。

「えっと、内藤です。よろしく願いします」

 おずおずと自己紹介を兼ねた挨拶をすると、金髪坊主頭は口の横をボリボリと掻きながら、

「んぁあ、俺は白石しらいしってんだ。ヨロシク。こっちは、俺の連れのいわちゃん。岩澤いわさわだ」

 と、親指で隣のスキンヘッドの男を指した。

 どうやら後ろの二人は知り合いだったらしいが、その割にはスキンヘッドの岩澤という男は、白石と名乗った男に対する反応が弱かった。ぎょろりとした目で、食い入るように目の前の虚空を見つめている。

「どうも……」

 白石に会釈をした後、続けて岩澤にも会釈をしたが、無反応だった。瞬きもせずに、虚空を見つめ続けている。

「ああ、気にしないでくれよ。ちょっとアレが切れてんだ」

 ……アレって、何のことですか?

 そう訊こうかと思ったが、咄嗟に余計なことを言わない方がいいなと判断して、やめておいた。代わりに、

「はあ……」

 という、とぼけた返事で納得した風を装う。

「あの、あなたは——」

 その流れで、隣に座っている女に名前を訊こうとすると、

「やめとけ、そいつは何も言わねえんだ」

 と、白石が遮った。

「え?」

「さっきから何回も話しかけてんだけど、何も言わねえんだよ。愛想のねえ女だ」

 そう平然と言い放つ白石を横目に女の方を見たが、こちらを見向きもせずに窓の外へ顔を向けていた。聴こえてはいるのだろうが、一向に振り向く気配を見せない。

「フン、ちょっとは相手してくれたっていいのによ。で、あんたはどうやってこのバイトのこと知ったんだ?」

「え?えっと……」

 咄嗟に、白石の質問に答えるのを躊躇した。

 〝友人から教えてもらった〟

 誤魔化す必要はなく、そう返答すればいいのだろうが、それをあの大畑に聞かれたら、どうなるのだろうか。

 大畑は連絡を入れた時に、このバイトを引き受けるつもりなら、これらの条件を呑めと言ってきた。

 バイト中は、余計な質問や詮索をしないこと。

 バイト中、もし何かトラブルがあっても、こちらは一切責任を負うつもりはないこと。

 そして、バイトの内容を、絶対に誰にも話さないこと。

 もしここで、臆面もなく〝友人から教えてもらった〟と言えば、どうなるのだろう。中村、もしくは中村の知り合いが、ルール違反を犯したとして、何か危険な目に遭うのではないか。もしくは、俺が車から引きずり降ろされるのではないか。

 そう案じ、それとなく運転席の方を窺うと、ルームミラー越しに大畑と目が合った。冷たい目で、俺のことを睨みつけている。思わず、首を反らして白石たちの方へ向き直った。

 まずい、聞き耳を立てられている。

「おい、なんで黙ってんだよ」

 しびれを切らした白石が、何の気なしといった感じで訊き直してくるが、俺は黙っていた。高額な報酬が待っているのだ。できれば波風を立てたくない。ましてや、バイトが始まる前に。

 そんな俺を見た白石が、薄く剃られた眉をひそめながら、何事かを言おうとした瞬間、

「……友達から聞いたんだってぇ」

 と、突然、岩澤という男が、おどろおどろしい声を上げた。

「なっ……」

 思わず、息を呑んでいると、白石が、

「おい、岩ちゃん。しっかりしろよ。また何か聴こえてんのか?」

 と、岩澤を窘めた。

「あああ、うぅ……そいつがそう言ったんだぁあ」

 岩澤はぎょろりとした目で、俺の顔を食い入るように見つめてきた。口の端に、唾の泡が汚らしく溜まっている。

「んなわけねえだろ。ほら、シャンとしろ。着いたら仕事の前にキメろよ。そうしなきゃ、いつもみてえにバリバリ仕事できねえだろ」

 白石は岩澤をなだめるのに必死で、こちらを見ようともしなかった。どうやら、知り合いというだけあって、岩澤の扱いには慣れているようだ。

 今の内にと、またそれとなく運転席の方を窺ってみたが、大畑は黙々とハンドルを切っていた。ルームミラーを見遣ったが、視線は前方に向けられている。

 良かった。さっきの会話が聞かれたかは分からないが、今のところは咎められることはなさそうだ。

 その時、はたと気が付いた。

 そういえば、条件は〝内容を絶対に誰にも話さないこと〟だった。内容さえ漏らさなければ、そういったバイトが存在するということは他言してもいいのではないだろうか。

 分からないが、ともかく一安心だと、ほっと息をついていると、後ろで未だに意味の分からない会話を繰り広げている白石と岩澤を、女が冷たい目で蔑むように睨みつけていた。

 あっ……。

 思わず顔を見ると、気付かれたようで、目が合った。向き合って初めて分かったが、女は目の周りにどろんとしたメイクを施していた。大きな目が黒く縁取られていて、まるでクマが浮いているようだった。そのせいか、顔色が酷く不健康そうに見える。

「あ、あの——」

 咄嗟に場を取り繕おうと声を掛けたが、言い終える前に女はフイと顔を反らし、また窓の外を眺め出した。

「おい、今はやめとけって。こぼしたらもったいねえだろ」

「で、でも、やったら震えなくなるんだぁ」

「後にしとけって。あんまりやってると、今週の分使い切っちまうぞ」

「ぁあ、うぅ、うん。分かったぁあ」

 後ろでは、相変わらず白石と岩澤が意味不明な——なんとなく察しはつくが——会話を繰り広げていた。

 俺はため息をつくと、こんなことで大丈夫なのだろうかと不安に思いながら、窓の外に目をやった。バンはいつの間にか街を出て、人気のない閑散とした郊外の道路を走っていた。

 どこへ向かうというのだろう。疑問に思ったが、運転手である大畑に訊く気にはなれなかった。

 窓の外の景色は真っ黒に塗り込められていて、まるでバンの行く末を覆い隠しているかのようだった。

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