横に座って見るガザの豚
火木土と言った方がいい。U希の夜勤は月水金の夜である。U希はパン屋の夜勤スタッフ、チェーン店ではなく個人店、総菜パンではなく食パン。最近、ネットで話題になっている食パン専門店である。U希は週に三日、そこで食パンを作っている。深夜の肉体労働、辞めようかと思いながら、生活のためには辞めることなどできなかった。
朝の四時、U希は眠気が引いた。店内を濡れ布巾で拭きあげた。ガラス張りの向こうの厨房の店主に頭を下げ、店の外に出た。後ろでドアが閉まった。これで業務は終了。日の出前の夏の空気を吸い込むと、食パンの甘さがこびりついていた。「甘いお菓子の臭いがする」という男の声が聞こえた。金曜日にだけ会う男である。
U希は歩いて家に向かっていた。片側二車線の道路、車通りがない。U希は腕を大きく広げて大通りを駆け出した。風を全身で受け止める。多くを受け止めるため、腕を伸ばし手指を広げる。汗とパンの臭いが薄れていく。走る速度を上げる。汗の臭いが消えた。もっと上げる。パンの臭いが薄れていく。夏の雨の臭いがした。道路の奥に信号の赤が見えた。それが青に変わった。車が向かってくる。U希は路肩に避け、座り込んだ。パンの臭いが濃くなり、汗が香った。汗の臭いは柔道に打ち込んでいたころを思い出させる。後ろに転がり、そのままの勢いで立ち上がった。見事な体の動きだった。U希の体には柔道が染みついていた。
日曜日のU希は休日、一人で映画のDVDを見ている。ありきたりの風景なのだが、少し時間を戻してみよう。一時間前、U希は雷の音と光で目を覚ました。汗とパンの臭いがする。また光った。また音がした。ベッドの下の床で仕事着にしているTシャツとジャージ。夜勤で帰ってきて、そのまま眠りについた。一時の時計の針、それが昼間であることが疑わしいほどに真っ暗だった。窓を開けた。雨は臭いだけで降っていない。手ぐすねを引いているような黒雲だった。窓を閉め、壁に向いた間接照明を点けた。服を脱いで洗濯カゴに入れた。また光った。また音がした。また音がした。水のシャワーで体を流した。夜勤仕事以外の予定は、金曜日にこの部屋にくる男の相手だけだった。U希は洗面台の前に立ち、裸に水を滴らせながら、歯ブラシをくわえた。また光った、空気が震えた、音がした。電気が消えた。暗がりの鏡に歯磨きをしている自分が映っている。見られながらする歯磨きに緊張した。左上から磨き直した。水を口に含み、水を動かし、吐き出す。もう一度水を含み、口の中の隅々まで水の冷気を感じるまで水を動かし、吐き出した。
U希は白色のTシャツを着て部屋に戻った。体は濡れたままで、床に雫が垂れる音がした。カーテンをずらして外を見た。すぐそこに見えるはずの信号が見えなかった。停電だった。空気が淀み、暑さが湧いてきた。短パンを履き、窓を開けた。静かだった。道路を走る車がゆっくりと走っていた。風の音がした。U希は月を探した。静かなときは、月が綺麗に見えそうな気がした。風の音が強まり、信号の赤色が点いた。部屋の中でいくつか電子音がした。電気が回復したのだろう。月は見つからなかった。カーテンを閉めた。バスタオルで髪の毛の荒水を取った。ベッド下の床に寝転がった。床から下の階の住人の声がした。停電して大騒ぎしていた。U希は目を閉じた。
バチバチと音がする。波のように濃淡を繰り返し、バチバチと音がする。窓を叩く雨の音のようだった。U希は横になったまま、目を閉じたまま、窓に叩きつける雨の音かどうかを確かめる。音は窓の方から。臭いに雨を見つけられない。臭いを探す。臭いの奥、パンの臭いがした。「甘いお菓子の臭いがする」という男の声がした。首と後頭部の間あたりが熱くなった。試合前の感覚に似ていた。首と後頭部の間が燃え、上に伝わって脳を膨らませ、下に伝わって体を鋭敏にした。U希は目を大きく開いた。体を起こし、バチバチと両手の平で頬を打った。深呼吸をして冷静に戻った。
ふと見ると、テレビの下でデジタル数字が光っていた。停電後の恒例の時間リセットだった。無視することにした。「直しておきました」という男の声がした。また光った。また音がした。静寂。U希は男の声を待ったが、男は口を閉じていた。雷の音の残ったものの奥に、別の微かな音がした。何かが回転する音。床に耳をつける。微かな振動音が加わった。下の階からではなく、この部屋から聞こえている。匍匐前進の要領で動き回る。「自動掃除機みたい」という男の声がした。首の後ろが疼く。テレビの下に近づくと、音が大きくなった。DVDのデジタルが、11:11となっていた。数字は増えていく。どうやら電気が切れて入ったせいでDVDが再生しているようだった。
男は毎週金曜日の朝にやってくる。鍵を外しておくと勝手に入ってきて、勝手にコーヒーを入れる。「すぐそこで買った」というコーヒーの粉、U希は未だにどこの店か知らない。一昨日もそれまでと同じ金曜日だった。U希が目覚めると男がいた。黒色の臭いがした。男は「おはよう」とは言わず、「お邪魔しています」と言った。そしてコーヒーを差し出す。U希はいつものように「後でもらう」と反抗した。男は困った顔をして、少しだけ困っていた。U希はベッドから出た。U希は男に歩み寄りながら、熱い抱擁か口づけかを迷っていた。「甘い臭いがする。美味しそう」と声がした。U希は首と後頭部の間が熱くなった。熱さが上と下に広がっていく。コーヒーの臭いがした。コーヒーを一口のんだ。男は出会ったときと同じように天気の話をはじめた。「雨が降ってきましたね」男は濡れてない。雨の音はしない。寝ぼけているU希をからかう冗談なのかもしれない。男は良く天気の話をした。仕事の話は「金曜日は休みにしているんです」とだけ一度だけ聞いたことがあった。他の曜日の話は聞いたことがなかった。
「見ててあげるから、眠りなよ」と男が言った。U希は男の横をすり抜け、またベッドに横たわった。「おやすみ」と誰にともなく口にした。それでも昼間の眠りは浅いから、男の行動を眺めていた。男は茶色の封筒を破った。それは数日前に届いた国際郵便だ。海外通販したDVDのようだった。男はテレビの電源を入れ、それを見はじめた。U希は横になったまま男と映画を眺めていた。日本語字幕がなかった。U希には英語ではないその言語が何語かもわからなかった。男にはその言葉がわかっているのかどうかもわからなかった。乾いた景色に黒豚が出てくる映画だった。
U希は回転音に目を開いた。男は映画を初めから見はじめた。海で漁師が豚を網でとる不可解なシーン、U希は黙って目を閉じた。
停電後のU希は、ベッドの下の床に転がりながら、数字が増えていくのと回転音とを重ねていた。雷の音が遠くで鳴った。それが分と秒であることに思い当たらないまま、15:00を迎え、30:00を通り過ぎた。数字が変わっていく。首の後ろの熱さを探した。59:59になり、次の60:00を待った。ところが1:00:00が現れた。一瞬、U希は見失った。数字が頭に入ってこなくなった。分と秒のカウントだったはずだった。雷の音が遠くで鳴った。その数字が一時間であると頭が理解した。U希は体を起こし、DVDを0に戻し、テレビ画面のスイッチを入れた。男の座っていた場所で映画を見ることにした。
埃っぽい画面、多湿な日本の夏とは正反対だった。海で漁師が豚を網で取った。もう見慣れたシーンである。U希は違和感に思考を奪われることはなかった。紛争やテロがあり、家や物資が不足している、日本とは全く別の世界だった。黒色の豚に白色の羊の毛皮のカバーを掛けて散歩させていたし、その豚は元々は海で網に引っかかっていたわけで、コメディー以外であるはずはなかった。極限状態でのコメディーは、異世界にいるU希の緊張を溶かし、緊張をほどいた。
U希は映画を見終えると、コーヒーを入れた。乾いた画面の向こう側にはコーヒーが良く似合う気がした。コーヒーが冷めるのを待ちながらネット検索をした。この映画は「ガザを飛ぶブタ」という邦題だった。想像通りのあらすじで、U希は自分で感心した。言葉は必要なかった。きっと男も言葉は理解していなかっただろう。
DVDプレイヤーのオープンを押し、トレーを引き出した。DVDを取り出したものの、それをしまうケースが見当たらなかった。そのままトレーに戻した。そのままにしておくことにした。遠くで雷の音が鳴った。そして電気が一瞬ぱちっと途切れた。DVDのトレーがクローズして入っていく。回転音がして、再生音がした。また再生を始めたようで、数字が増えていく。
「ガザを飛ぶブタ」という映画、金曜日のオススメです。
夏だから、苺は時期ではありません 西崎久慈 @irizaki
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