タクシー乗場と自動販売機で

 彼はいつも金曜だ。その金曜の男が駅から出てきた。I奈との距離は二十メートルほど、男はI奈に頭を下げ、「おはようございます」と上品な声で挨拶をした。「おはようございます」と返す。男は一台も待っていないタクシー乗場と札のあるタクシー乗場で一人タクシーを待つ。I奈はその待ち慣れている姿を眺めていた。やがて予約と表示を出したタクシーがやってきて、それに乗ってどこかにいく、毎週金曜日の同じ時間、それが金曜の男である。

 I奈は警察官である。飾り気が無く、母親とそっくりな顔をしていた。駅前交番に勤務している。朝の通勤通学の時間帯、その交番の前に立ち、道行く人たちの安全を見守っていた。見通しの良い日向。警察官の夏服は伸びない素材で、暑さがこもる。大きなタオルを後ろポケットから取り出し、顎から垂れる汗を拭いた。背筋を伸ばすのが馬鹿らしくなるほどの日差し照り返し、背筋を伸ばすのが馬鹿らしくなるほどに何もない駅である。三台並んだ自動販売機だけ。自動販売機もI奈と同様に日向である。人相を覚えるのが苦手なI奈でも、駅に出入りするほとんどの人に見覚えがあった。

 男はまだタクシーを待っていた。I奈は今日も男の印象を頭に刻む。白色の襟付きシャツを着ていて身なりが良い、ベルトが太い、見えないが足の指先が伸びている、きっと会社員きっと優秀。体育大学だったI奈の周囲にはいなかったタイプで、記憶には残るのだが、見分けられる自信がなかった。

 タクシーが男の前に止まった。男はタクシーに乗り込む。タクシーがI奈の前を通過する。通りぎわに男は頭を下げた。合間に笑顔。タクシーはすぐそこの信号で止まった。後部座席に男の頭が見えた。I奈は肩を回してほぐし、顔を緩めた。


 翌週の金曜日、I奈は駅周辺のゴミを拾い歩いていた。タバコの吸殻がまとまっていたのをトングで拾った。吸殻全て同じ銘柄、一度にこんなに吸ったのか、慌ただしい人だ。少し先に白色の袋が見つけた。白色の向こうに、酎ハイとカップ麺と栄養ドリンクが透けて見えた。近寄って袋を開ける。潰れた酎ハイの缶、大盛のカップ麺、茶色の瓶の栄養ドリンク。どの二つの組み合わせも取り合わせが悪いのだが、この三点セットは割と多かった。最寄りのコンビニまで歩くと十五分以上のこの場所に、どうしてコンビニ袋のゴミがあるのか。この町の人は笑顔の割にマナーが良くない。警察官が拾っているのを知っていて、そんな警察官への嫌がらせの意図を疑った。理由なくここまで持ってきて捨てるとは思えなかった。

 ホームに電車が入ってくるアナウンスが遠くで聞こえた。I奈はその場を切り上げ、路地を曲がり駅に向かった。電柱の脇に酎ハイとハイボールの缶、道路の真ん中にパンの袋、駆け足でジグザグに歩いて拾っていく。I奈が駅に着くと、金曜の男が缶ジュースを飲んでいた。初めて見る飲食をする姿だった。タクシーはすでに来ていた。男は待たせているようだった。男はI奈に向かって手を上げた。I奈は同じように手を上げた。男はゆっくりと飲み終え、缶を販売機横の空き缶捨てに入れた。缶が落ちる音がした。マナーが良いことは素晴らしことである。I奈は軽く二度、両手の平を打った。男は日向で目を細めていながらも、涼しげだった。そしてタクシーに乗って去っていった。

 I奈は瞬きをする。視界が水の中になり、汗が垂れた。I奈は一日署長のイベントを思い出した。大人数女性グループ歌手の人だった。警察内での知名度は低かったものの、町の知名度は高く、県警本部前には早朝から人だかりができていた。I奈は若手の女性警察官という枠で、一日署長の間、警護することになった。控え室替わりのマイクロバスに呼ばれたとき、知ってる顔、何もかもが小さい、というのが第一印象で、第二印象が声が大きい、だった。I奈は後日、その女と一緒に写っている写真を見たとき、はっきりと住む世界の違いを感じた。体の骨格が同じ生命の種ではなかった。金曜の男は、その女の側だった。I奈は思考を現実に戻す。男の缶の大きさと色が気になった。白と赤で、やや太めで短めではなかったか。それはつまり苺ミルク。缶はすでにゴミ箱の中、どの缶かはもう判別できなかった。自動販売機横の空き缶捨ては丸い入口で、手は入りそうになかった。事実を確認できなかった。なぜその辺に投げ捨ててくれなかったのか。それぐらいのワイルドさがないと完璧すぎる。

 彼女がこの県の警察官になったのは、たまたま大学がこの県にあったというだけでなく、苺好きが高じてであった。この県は苺の名産地だった。将来は土地を買って苺を趣味で作ろうと考えていた。苺、それは金曜の男との初めて見つけた共通点だった。男はいい男だったがあまり特徴のない男で、惚れ方がわからなかった。せめてタバコでも吸っててくれるといいのだがと思いながら、I奈はタバコの吸殻を拾った。


 翌週の金曜日は雨だった。雨でもI奈は交番の前で市民を見守っていた。軒下だったが雨は半分ほどしか防げず、レインコートをジワジワと湿らせた。暑さはそれほどでもなかったが、湿気で汗はいつも通りに垂れた。男が駅から出てきた。I奈は昨日見た予知夢を思い出す。「男の乗り込んだタクシーがトラックに正面からぶつかる事故」を男に伝えたかった。男は傘を持っていなかった。I奈は交番の中から傘を持ち出し、男に近寄っていった。

「ちょうど困っていたところです」男は傘を受け取った。I奈は拍子抜けした。I奈は、男は傘の貸与の申し出を断る気がしていた。

「警察官に話しかけられると、背筋が伸びます」警察官に対する態度としては、珍しいほどに自然体だった。男は笑顔だった。I奈は雨の音を忘れた。自分が微笑んでいることに思い当たり、唇をきつく結んだ。頭を下げて交番に戻った。


 翌週の金曜日、また雨だった。金曜の男の前に、交番には近くのバイパスでタクシーが事故との連絡が入っていた。I奈の予知夢では先週のはずだった。素人の予知夢はこの程度の精度だ。

 金曜の男はタクシーを待っていた。手には傘を持っている。事故にあったのは男の待っているタクシーかもしれない。I奈は小雨の中をダッシュでタクシー乗り場に向かった。男の前で急停止した。息を整えもせず、タクシーが来ないことを伝えた。

「ジュースでも飲みませんか?」と金曜の男。I奈は仕事中ですと断った。「立派です」男は小雨を気にせず自動販売機から苺ミルクを二本、買った。男はI奈に向かって一本を放り投げた。I奈は受け取った。

「仕事が終わったら飲んでください。一人で飲むのも世知辛い」I奈は世知辛いという言葉の使い方が変な気がした。それを指摘するほどの仲でもなく、それを指摘するほど国語力に自信もなかった。

「別の会社で呼んでみます」I奈は話題を戻した。

「今日はもういいです」男は素っ気なかった。駅に入っていった。I奈は引き止めようとしたが、引き止める理由がなかった。手を伸ばせず、背中を見送った。男のこの後のタクシーでの行き先は仕事ではないのか。タクシーが一台来ないだけで、仕事を休むのか。いい加減な男だ。I奈は手元に残った苺ミルクを眺めた。男はもう一本の苺ミルクを飲んでいないはず、持って帰ったのだろうか。I奈は、「もうすぐ給料日、何か買いますか。わたしは果物を買って笑顔になります。でも苺好きのあたしには、この時期は我慢の時期なんです。苺は好きですか?」という話を準備していた。話は来週に持ち越された。男は会社員らしいから、次に用意しているエジプトで日本式の苺栽培に成功し富を得た人の話は、特に興味を引くはずだった。

 I奈は小雨の中をゆっくりと交番に戻った。缶はカウンターの机の上においた。赤色と白色が交番には不似合いだった。I奈は缶から目を逸らした。外をタクシーが通り過ぎていった。男がいつも乗っているタクシー会社だった。I奈は交番を出た。男を呼び戻しにいくか、タクシーの運転手に客が帰ったことを伝えるか、迷いながら歩いていく。

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