新幹線で同じ列
U乃は少し目と目が離れた美人だ。メガネが似合うのがコンプレックスで、視力〇・一だがメガネをかけていない。自分にスイッチを入れるときにはコンタクトをつけるつもりでいるが、この十年はオフのままである。見えないことに慣れてくると、音にも臭いにも関心がなくなり、生活が楽になった。楽に生きることが幸せとは限らないと知ったのは、もう何年も前のこと。いつもメガネはカバンの中に入っているが、通勤電車の中に見たいものはなかった。U乃は吊り革につかまっていた。目の前には白色のリュックを抱えた女が座っている。女の年齢も顔もわからなかった。ぼやけた視界の先に見える白色のリュック、生地が薄いので透けて見えそうだった。目を凝らす。凝らす。視点の中心を白色のリュックの中に合わせる。白の少し先。視界が彩度を増すのを待つ。目が乾き、瞬き。視点に脳を集中させる。白色があり、その少し先。視界のぼやけの濃淡が揺らぐ。カウントダウンすればふっと何かを超えて見えそうになったとき、電車が揺れた。白色のリュックがぼやけている。目をこらす。もう神の時間は終わっていた。電車が駅に止まり、白色のリュックはこの沿線で最も何もない駅で降りていった。
電車は発車した。U乃のぼやけた視界でも前の席が空いたままであることはわかった。そこに引き寄せられる視線を外し、扉の方に移動した。彼女の脳は視界情報を諦めていた。やがて乗り換える駅に到着した。U乃は新幹線へと急いだ。ホームへの階段は一段飛ばしで駆け上がった。新幹線のホームにはすでに列ができていた。U乃はいつもの場所に並んだ。前に並んだ人のキャリーバッグに見覚えがあり、後ろから聞き覚えのある声がした。「おはようございます」U乃は足元をちらりと見て戻した。息が上がって声を発する空気が不足していた。声をかけてきた男は、エルメスに似たデザインの灰色のカバンを持っていた。手首にはスマートウォッチらしき黒色。ネクタイをしていないがスーツ姿。男はいつも声をかけ、U乃はいつも無視。それはそれで日課のようなものだった。男の反応にも、その容姿の詳細にも興味がわかなかった。
新幹線が高い音で入ってきた。生温い空気があらゆる活動へのやる気を消そうとする。U乃は夏の朝ほど新幹線が入ってくる臭いが不快なことはないと常々思っている。ドアが真空パックを開けるような音で開く。もっと不快な閉鎖空間の臭いがした。U乃は息を止めた。U乃、その男の順に車内に入る。車内は空いていた。U乃は五列ほど車内に歩き、山側の二人がけに座った。男はではまたというような笑顔を向けて通り過ぎ、車内の真ん中の三人がけの窓側に座った。男は毎朝U乃の後ろに並び、毎朝声をかけてくる。U乃は見えてはいないが男の笑顔を想像していた。実際に男は笑顔だった。U乃は男の好意をいなせているか自信がなかったが、車内で隣や側に座ることもなく、降りてから声をかけられることもなく、それは自意識過剰なだけで、いなしているのはそんな自分の気持ちかもしれなかった。
ところが夏のある日、潮目が変わる。U乃は帰りの新幹線で山側窓際席に座っていた。車内は混雑していた。空いていた横に座ってきた男が、「こんばんは」と頭を下げた。朝の声の男だった。U乃は男の顔を至近距離で見た。〇・一では良し悪しの判断はできなかった。その距離で無視することはできず、軽く顎を下げて応えた。男は笑顔だった。
新幹線が出発した。男は表紙を外した文庫本を読んでいた。U乃は赤色のスピンが垂れているのがわかったが、本の題名は見えなかった。黄茶色の表紙で、U乃はカビの臭いと小さな紙虫を思い浮かべた。古典作品だろうと想像した。メガネを取り出すほどの興味はなかった。まして尋ねるほどでもなかった。U乃は窓に顔を向け、暗い外と反射する明るい車内とを交互に眺めた。外にはビルが、中には人が。暗く広い、明るく狭い。U乃のそのルーチンは脳の活動にブレーキをかけていく。一番最後にまぶたが閉じた。
U乃は車内アナウンスで目を開けた。「お疲れのようですね」と横から声がした。寝ぼけていたので応答できなかった。男からは黒色のインクの臭いがした。横に座った男の声、男は朝に声をかけてくる男、今日は偶然にも帰りに隣り合わせた、考えれみれば偶然というほどでもない。U乃はそのようなことを考えながら新幹線を下りた。ホームは体温よりも高く感じる風が吹いていた。髪の毛が飛び散り、汗が吹く。U乃はハンカチを取り出して汗を拭う。汗は止まらない。諦めてハンカチをカバンに押し込み、黄色のタイルを目印に歩き出す。そのとき、ハンカチが風に乗って飛んでいった。ぼやけた視界の端。諦めたくなるほどの遠くだった。またすぐに使おうと、軽めに入れた自分を呪った。U乃はとにかく近寄ろうと飛んでいった方向に歩き出した。人が近寄ってきた。手にはハンカチを持っていた。「はいどうぞ」といつもの声。U乃が朝に無視している男、先ほど隣り合わせた男だった。「ありがとう」とU乃は素っ気なく言った。「綺麗な声ですね」と男は笑った。
翌日は雨だった。U乃はキャリーバッグの後ろに並んだ。後ろに人の気配がした。U乃は昨日のことで会話をすべきか悩む。決断し、振り向いた。後ろに並んでいるのは別人だった。U乃は男の不在理由を考えた。雨だからだろうか、いやこれまでも雨の日は会った。寝坊だろうか、いや几帳面そうだった。出張だろうか、病気だろうか。新幹線のドアが開く。U乃は息を止めた。思考も止まった。そもそも毎日、後ろに並ぶのが不自然すぎた。U乃はこれが日常だと判断した。U乃は頭の中で、あの男の鼻にかかった高い声の挨拶を再生した。
夏雨の新幹線、夕方の帰宅時間、この時空間の臭いは視界を放棄しても鼻の奥を締めつけた。U乃の横にはあの男が座っている。U乃は、朝いなかったはずの男が夕方の電車にいることに違和感を覚えていた。男がU乃に向けて何かを話している。無視し慣れた声。二日連続で帰宅時に会う、U乃はそれを偶然とは考えなかった。良くない空気を探した。笑顔が薄く、明暗が同居していた。U乃は男を本格的なストーカーだと判断した。U乃はメガネをかけた。地面から天井まで眺めた。足首は細い、背筋が曲がっている、指の関節がなく棒状、締めやすい首、端正な顔立ち、天然の黒い巻き髪。U乃は負ける要素を見つけられなかった。小手返しとローキックで瞬殺できる相手、U乃は安心した。背をシートにつけた。男のカバンは大きく、中に道具が入っている可能性を考えた。スタンガンか揮発性液体、ナイフか銃。どのような武器を持っていても、素人に勝機はなし。U乃は合気道とキックボクシングが趣味だった。適度な距離を取っておけば大丈夫だと自信を深めた。肩の力を抜いた。男の話は終わったようだった。U乃は笑顔を返す。小話で対抗することにした。U乃は車内に響く声で話しはじめた。
「音が聞こえる。ほら、聞こえませんか? ほら、ダーか、ゴーか、ドーという音」U乃は耳を窓に押し当てる。「強くなってきた。地震、地震が起きます」カバンから手のひらサイズの濃紫色の布袋を取り出す。袋から出てきたのは銅製仏像。窓際に置き、手を合わせた。地震は起きない。「無事、過ぎ去りました。失礼しました。こういうこと良くあるんです。あたしには地球の膿が音で見えるんです。地震とか台風とか。日本はその膿の出口になっているんです。住み難い国です」U乃はまた仏像に手を合わせた。
「綺麗な声ですね」男は適度な距離を取った。
U乃はメガネを外し、仏像をしまった。仏像の金属臭が口の中を不快に潤す。ローキックプランを想像しはじめた。
「明日も雨ですかねえ」と男。
U乃は男の呑気な声に肩の力を抜く。膝へのローキック一発、その先はなさそうだ。その牧歌的なストーカー男の持っている文庫本が目に入った。彼女は視界の焦点を合わせようとする。濃淡が揺らぐ。目を凝らす。濃淡が大きく揺らぐ。もう少し、あと一押しで超える。男の手が揺れた。スピンが揺れた。その赤色が視界の焦点を奪っていった。また神の領域には届かなかった。
U乃は窓の方を向いた。明るく狭い車内が見えた。外は暗かった。◼️
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