夏だから、苺は時期ではありません

西崎久慈

バスで隣の席

 ロータリーに現れたK子の黒髪が夏の太陽を吸収した。地方の非主要駅は、朝の通勤時間帯でも賑わいはなく、タクシー乗り場の立て札があったがタクシーは待機していなかった。そこにマイクロバスが一台、止まっていた。K子は影伝いに歩くことを諦め、大股でマイクロバスに乗り込んだ。バス中ほどやや後ろ、一席、通路、二席の並びの二席の窓側に座った。小さな駅から会社までの数分、歩くと三十分、途中にはコンビニどころか日陰も疎らな産業トラック道路。駅と会社を結ぶ通勤バスは有難かった。K子は座り一息つく。バスの冷房は強力で、あっという間に猛暑を窓の外の風景にしてくれる。青い空と白い雲は夏の気分に良く合う。蝉の声も余裕を持って聞くことができた。バスはまだ発車しない。K子が乗ってきたのは下り電車で、もうすぐ上り電車がやってくる。バスには十余人、二人がけ席は埋まり、一人がけ席は埋まり、残っている席は誰かの隣。K子はいつもの席、ほぼ指定席。隣には白色のリュックを置いていた。ここもほぼ指定席。どこからか音楽の漏れ音がし、スマホのプッシュ音がする。話し声はなく、静かな車内である。会社の多数が車か自転車での通勤、最寄駅からの朝夕の定期バスはこのバスがいっぱいにならない二十人程度の利用者数だった。

 下り電車が到着した。しばらくしてロータリーに現れたうちの数名がバスに向かって歩いてくる。その中にいつもの男がいるのをK子は確認した。そのいつもの男がバスに入ってきて車内を見渡すタイミングで、K子は横の席の白色のリュックを持ち上げて席を空けた。彼は「おはようございます」と挨拶をしながら、K子の横に座った。「おはようございます」と返した。乾いた喉が引っかかり、上手く発声できなかった。

「今日も暑いですね」男はK子にだけ聞こえるように小声で言った。

「週末はずっと雨みたいですよ」K子は喉の調子を整えてからそう言った。

 K子の勤める会社は大きく、工場や研究所があり、総勢二千人が働いていた。このバスに乗っている二十人ほどの人たちにはバスの外で接点はなかった。同僚ではあるものの他人。毎日見て知った顔ではあっても、誰に話しかけることもなく、話しかけられることもなかった。挨拶も交わさなかった。ただその男だけがいつも挨拶をした。そして彼とK子だけが話をした。


 K子が初めてその男の存在を意識したのは先週の木曜日の朝のバスだった。男は上り電車でやってきて、K子の座っている列を通り過ぎ、すぐ後ろの列に座った。男は横の先客に「おはようございます」と声をかけた。ところが彼の隣に座る先客は挨拶の言葉を返さなかった。そのやり取りを後頭部から聞いていたK子は、とても嫌な気分になった。目線を窓の外の夏から、冷房の効きすぎた車内の足元に移した。何日か前、彼はK子の横に座った。そのとき彼の「おはようございます」に対してK子は軽く頭を下げて応じただけだった。スマホ画面を見ていて、そこから顔を上げなかったかもしれない。そのときだけではなかった。窓の隙間から肌寒い冷気が入ってきていた冬も、春の桜の眠くなる季節にも、K子は彼の挨拶に対して頭を傾げただけの記憶があった。K子の視界の端に白色が目に入った。横の席にはリュックが堂々と置いてあり、挨拶以前から拒絶を表現しているような色であり、態度であった。だから彼はそこを通り過ぎて後ろに座ったのだ。拒絶リュックをどかすには、バスは空いていた。

 K子はその日、自分の狭量に落ち込んで仕事をこなした。彼は夕方の帰りのバスにはいなかった。

 翌日の朝のバス、K子はいつもの席に座り上り電車を待った。ホームに電車が入ってくる音がして、ざわつきで人の乗り降りが聞こえてきた。頭の中で想像した。降車から階段を上り、改札口を抜け、歩き、階段を下り、バスに向かってくる。まだ現れなかった。K子はまだかまだかと登場を待っていた。ひょっとして男は夏休みを取ったのではと諦めかけたころ、彼がロータリーにやってきた。男がバスに乗り込み通路を歩いてくるのに合わせ、K子は顔を上げて隣の席に置いた白色のリュックを自分の膝に移した。彼は自然にその跡に座ってきた。K子はおはようございますを先に言おうとし、タイミングを見極めていた。挨拶のタイミングは、迷った時点で逸している。

「おはようございます」と彼は言った。それは独り言のようだった。返事を期待していないような声だった。K子は自責の念に負けて逃げないように、丁寧に「おはようございます」と返した。

 バスが走り出す。彼はK子の顔の先、窓の外に視線を向けていた。

「今日は、雲が一つもないんですよ」男はそう言った。ゆっくりとした話し口だった。K子は安心した。K子は彼の顔を一瞬だけ眺めてから、窓に向いた。K子は大学時代に同じ研究室にいたタイの王族の留学生のことを思い出していた。K子はその王族の話をしようと決意した。唐突にならない切り出し方を考えた。バスが信号で止まった。頭は整理できていないが、良いタイミンがきた。K子は男の方に向いて口を開こうとした。男はまだ外を眺めていた。K子は口を閉じて首を正面に戻し、「ほんとですね」とだけ相槌を打った。

「青空です」

 K子は男の口元が少しだけ下がるのを見た。

 これが先週の木曜日の出来事である。


「また雨ですか。夏休みですね。どこか行きますか?」男はそうK子に尋ねた。

「家にいて終わりそうです」

 K子と彼の交流について大げさに説明をしたものの、大した会話はしていない。挨拶と天気の話と世間話のような少しの話。数分のバスの時間の半分ほどの時間は口を開き、半分ほどの時間は口を閉じていた。月曜日にはお互いの最寄り駅の話をし、火曜日にはK子は来週に夏休みを取り彼は取らないことを話し、今日が水曜日である。

「近所のパン屋さんの夏休みが目下の心配事です」K子は目下などと慣れない言葉を使った自分に驚いた。この朝のバスの時間、K子にとっては優雅な朝食の時間のようだった。男に合わせ、ゆっくりと丁寧に大きすぎない声で話していた。

「何パンが美味しい店ですか?」彼は静かに興味を示した。

「明太フランス」K子は即答した。

「そうですか」

 K子は「お好きですか」か「お嫌いですか」のどちらを言おうかと迷った。しかしそこで今日の会話は終わった。バスが会社の門の前に止まり、扉の開く音が聞こえた。バスを降り、カードキーをかざして会社に入門した。彼はそっとK子に手を上げ、自分の職場に向かっていった。また明日と後ろ姿に声をかけた。K子は男を帰りのバスで見かけたことはなかった。

 木曜日、バスが混んでいた。K子はいつもの席に座っていたが、上り電車の到着前に横にはすでに人が座っていた。彼がバスに入ってきた。K子は歩いてくる彼と目が合わないように、窓の外と通路の足元を行ったり来たりした。後ろの方から彼の挨拶が聞こえた。明太フランスの先に話を続けることはできなかった。

 金曜日、バスは空いていた。K子はいつもの席に座り、横の席に白色のリュックを置き、上り電車の到着を待った。窓に顔を近づけた。青空には雲が一つも見当たらなかった。K子はセミの音に体を預け、夏らしくない空を眺めていた。バスに人が乗ってきた。隣の席の白色のリュックに手をかけたが、握って止まった。彼ではなかった。まだかと彼女は視線を窓に戻した。それから二名が乗ってくるのを目の端で捉えたところで、ビープ音が鳴った。それはバスの扉が閉まる音だった。男は来なかった。K子は首を伸ばして周囲を見渡す。K子に見向きもしない人たちの群、男の姿はなかった。K子は息を長く吐き出し、大げさに落胆した。帰りのバスにも彼の姿はなかった。

 K子は夏休みに入った。彼との約束を守るかのように、休みの一週間、食材購入以外はずっと家にいた。スマホの歩数記録が毎日三千歩以下だった。


 K子の夏休み明けの月曜日、彼はバスに乗ってきて、K子がリュックを避け、そこに座り、挨拶を交わした。

「雨ですね」ゆったりとしたテンポの声がK子の耳に心地良く入ってきた。

「明日からもずっと雨みたいですよ」K子もつられて同じテンポで返した。

 彼は傘を通路に出るようにうまく引っ掛け、濡れた手や顔をタオルで拭った。鼻が高く褐色の肌に大きな黒目に黒色の眉毛。どこか異国の雰囲気があった。

「お久しぶりですね」笑顔の屈託のなさも異国的だった。

「夏休みで、お休みしていました」彼が異国人だったとしたら、日本人として恥ずかしい日本語だった。

「休みの間、どこかに行きましたか?」

「家にいました」

「そうですか。家で何しました? 私が次に休んだときの参考」

「何も。何もせずに一週間、あっという間でした」

 そう言いながら、K子はすでに反省していた。彼女は確かに夏休みらしいことは何もしなかった。旅行やイベントがあったわけではなかった。ところが、そういうことではなかった。興味を持って質問してくれた相手に何もないと回答してしまった自分、K子は反省した。

「そうですか」

 K子は彼の顔を見ることができず、外を眺めた。窓ガラス越しだと雨の慌ただしさが他人事だった。「雨ですねえ」と男が言い、「はい」とK子が答え、二人で外の雨を眺め、バスを降り、そのまま別れた。

 火曜日、まだ雨は続いた。強雨が朝の通勤時間と重なった。彼は濡れていた。K子は挨拶の直後、「餃子を作りました」と言った。彼が席で落ち着くのを待てずに口を開いたのだ。それは突然のことにK子は自分で驚き、話を続けるのを忘れてしまった。彼はハンドタオルで顔を拭っていた。

「今日も雨ですね」と男は笑顔で時間の進みを変えた。ところがすぐに「餃子にニンニクを入れますか?」と戻った。

「実は、ニンニクは苦手なんです」とK子。

「奇遇ですね」と彼は笑った。

 水曜日、まだ雨は続いた。K子は尋ねた。「明太フランスは苦手ですか?」

「考えてみたんです」そう男が言った。K子は彼が考えた内容が想像できず、次の言葉を待った。「明太フランスを食べたことがない」

「ぜひ食べてみてください」そう言うと、K子は膝の上の白色のリュックを開け、電車に乗る前に買った明太フランスを手渡した。彼は戸惑いながらも受け取った。

「お礼の品を持っていない」

「お昼は?」

「朝、ランチをコンビニで買い、帰りに夕食とビールをコンビニで買う。人生のコンビニ比率が高すぎると思い、最近はランチを自作してるんです」

「今日のメニューは何ですか?」

「スパムサンド」

 K子の想像していなかった単語だった。それでも彼のイメージ通りだった。K子はその自作のサンドイッチを明太フランスの代わりにと要求すべきかに迷った。男はカバンからビニール袋を取り出した。袋の中に銀の塊がいくつか入っていた。

「これにします」K子はそのうちの一つを選びとり、慌ただしくリュックに入れた。

「味の保証はできません」とだけ男は言った。

 K子は昼食の時間になり、男からもらった塊の銀紙を解いた。トーストした食パンのサンドイッチだった。閉じたサンドイッチを開いて中身を覗き見た。ピクルスと玉子とスパムが挟まっていた。K子の思い出した男の横顔は、ハワイであり、オキナワであり、つまりスパムを想像できた。サンドイッチは想像よりも塩気が弱く、美味しかった。K子は市販品を押しつけたことを謝らないといけないなと思った。

 木曜日、K子と男はいつもの席に並んで座っていた。

「初めて明太フランスを食べました。非常に美味しかった」

「スパムサンド、とても美味しかったです。すみません、強引に交換させて」

 前日のランチの感想を交わした。K子は黙って外を眺めた。

 金曜日、「週末は天気が良いから夏休みっぽいことできますよ」K子はそう言おうと準備していたが、男は現れなかった。休みだろうか。病気で苦しんでいないといいのだが、それを確認する手段はなかった。K子が知っているのは男の最寄り駅だけで、住所や名前は知らない。K子は彼の名前を想像し、自分が名前を尋ねられてどう答えるのかを想像した。◼️

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