第8話 彼女、可愛がってやるから

 ひそひそと耳をくすぐるようなささやかな声が部屋いっぱいに満ちる。お気に入りの作家についてプレゼンする人、話題の新刊の感想を交わし合う人、次に書く小説についての構想を練る人。


 様々な人間がいるが、共通しているのは誰も彼も小説が好きということだった。


 そんな人々が集まるこのこぢんまりとした部屋は文芸サークルの部室である。

 穏やかに時が流れるこの場所は、僕にとっての癒しの一つだった。


「よぉ、彼氏クン」

「お帰りください」


 なので突然そこに現れた結城先輩に対して、僕は開口一番にお断りを入れる。さすがに先輩に対してまずかっただろうか。いやでもここは文芸サークルだぞ。大なり小なり陰キャの集まりだ。


 そんなところにぴっかぴかの陽キャが現れてみろ。みんな眩しさで死んじゃうに違いない。現に周りを見渡せばみな突然の太陽の光に戸惑う吸血鬼のごとく身を寄せ合って固まっていた。可哀想に。


 僕はため息を吐くと読んでいた文庫本を閉じて重い腰を上げる。そしてゆるい笑みを浮かべている結城先輩の元に足を運んだのだった。流石にこのままここで話をするのは周りの目が気になりすぎる。


「それで、どうしたんですか?」

 部室棟前の自販機コーナーはいくらか雑談スペースがある。缶コーヒーを二つ自販機から取り出した結城先輩は僕に一つ手渡しながら話を始めた。


「いや、実は今度の慰労合宿のうちのサークルのマネージャーが足りなくてだな、藤本を貸してほしいんだ。ボランティア部だけど一応お前にも声かけておいた方がいいと思って」


 結城先輩のサークル……つまりは男子テニスサークルだ。うちの大学のテニサーはわりとマジメにやっているとは聞き及んではいるものの、それでもちょっと心配だ。すぐに許可は出せない。


「なんでまた葵ちゃんを……マネージャーならたくさんいるんじゃないですか?」

「いや、それがだな……」


 僕の指摘に結城先輩は見る見るうちに表情を曇らせてゆく。何かまずいことを聞いただろうか。少し心配になり始めたタイミングで結城先輩は口を開いた。


「練習の妨げになると思って恋愛禁止にしたら、俺が好きだって理由で何人かのマネージャーが辞めちゃったんだよ……」

「とんだサークラじゃないですか」


 予想以上の出来事に素直な言葉が口から飛び出してしまう。流石に言い過ぎたかと思ったら案の定結城先輩は落ち込んでいた。まあ、サークルをより良くしようと思ったら空回りしたんだと思うとちょっと可哀想だった。


「でも、藤本にとっても悪い話じゃないぞ。一泊するんだが結構いいホテルに泊まるからな。夜もビンゴ大会とかするし……」

「めちゃくちゃ和気あいあいとしてますね?」


 男子大学生がそんなに仲いいの、いっそ微笑ましいな。

 けど葵ちゃんはかなり交友関係も広いし、友達を作るのも好きな方だ。そういうのにいちいち口出しするのもそろそろ鬱陶しいかもしれない。

 だから僕は大きなため息を吐いた後、不承不承にうなずいたのだった。


「じゃあまあ、くれぐれも怪我がないようにお願いしますね」

 僕のその返答に結城先輩はパッと表情を明るくする。そして力強く僕の手を掴むとにっこりとした笑顔を浮かべたのだった。あれ、なんか胡散臭い。


「ありがとう、助かるよ。彼女、可愛がってやるから何もないのに心配して電話とかかけて仲を深めてくれ」

「やっぱりそれが本音じゃないですか。いいですもう僕も行きます!」


 うじうじ心配するくらいならいっそのこと最初から一緒にいればいいのだ。だから勢いに任せてそう口にすれば今度こそ結城先輩はにやりと笑ってみせる。今度は心からの笑みだ。


 ああもう、最初から僕も込みだったのか、と思った頃にはもう先輩はボランティア部の部室に向けて足を進めている。もちろん僕も一緒に。


 こうして僕と葵ちゃんは、テニスサークルの臨時マネージャーとなったのだった。

 




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る