第4話

 黒のコートは、強引に百鬼の腕を引っぱり、部屋の奥へ勢いよく身体を投げつけた。

 百鬼は、床に激しく叩き付けられ、その反動でふわりと身体が、跳ね上がる。

 背骨が悲鳴をあげた。

「く……く……」

 激痛で、声にならない声が漏れる。

 黒のコートは、仰向けになる百鬼に馬乗りになり、不敵な笑みを浮かべた。

「お嬢ちゃん、安心しな! じわりじわりと殺してやるから」

 そう言って、鋭利な爪で百鬼の頬を、ゆっくりと力を加え切り込みを入れた。

「痛い!」

 百鬼が、思わず叫ぶ。傷口から、血がジワリと流れ出した。

 黒のコートが、その血を指ですくい、口の中へと運ぶ。

 ジュルジュルと、不快な音を立てながら指をむしゃぶった。

「いいねぇ。若い女の子の生き血は」

 うっとりとした声で言いながら、今度は百鬼の頬の血を、舌で舐め回す。

 百鬼は、背中を強打した影響で、肺にもダメージを受け、息が荒くなっていた。

「フゥー……フゥー……」と苦しそうに呼吸をする。

 馬乗りで下半身に体重がかかっている為、身動きすら出来ず抵抗が出来ない状態だった。

 薄暗い室内だが、黒のコートが深く被るフードから、チラリと覗く赤く光る目だけは、確認ができた。

 ―― あぁ、私死ぬのかな……。夢が正夢になっちゃった……。

 絶望を感じた。この状況では、もう自分は助からないと百鬼は悟った。

 ガシッ!!

 更に脇腹に、燃えるような衝撃が走った。

 爪が百鬼の脇腹をえぐり、血が溢れだした。

 ザクッ! ミシミシミシ……。

 今度は、左胸に熱い衝撃が貫通し、百鬼は「ゲホッ」と口からどっぷり血を吐き出した。

 爪は左胸に深々と刺さっていった。

 徐々に視界が狭まっていく。

 黒のコートは、ピチャピチャと汚ならしく鮮血を貪る。

「ガハッ! ガハッ!」

 損傷した肺から血が込み上げ、激しく吐血を繰り返した。

 ―― 痛い……苦しい……もう嫌だ……。

 百鬼の意識がだんだんと薄れていく。

「美しいねぇ。女の子の血まみれの姿は、実に美しいねぇ」

 不気味で不愉快な声が響く。

「あ、外にいる嬢ちゃんはどうしたのかな?」

 そう言うと、黒のコートはいったん立ち上がって、外の様子を伺った。

 入口の前には、腰が抜けてガクガクと激しく震える紅葉の姿があった。

「おー、まだいる。こっちを片付けたら、すぐ行くからねぇ」

 ―― 紅葉! 何で逃げないの? 助けを呼んでよ! あなたも死んじゃうのよ!

 目の焦点がだんだんと、合わなくなる中、百鬼は心の中で叫んだ。

「そんじゃ、そろそろ喰っちまうかな」

 突き立てた鋭い爪が、百鬼のみぞおちに乗っている。

 ―― 嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!

「ウェ! ウェェェ!!」

 百鬼の口から血が溢れだす。

 黒のコートが、みぞおち目掛けて爪を振り下ろそうとした時、寸前で手が止まった。

 突然、百鬼の目が淡い赤色に変わり、電飾のような光を放ったのだ。

「こ、これは!!」

 黒のコートの身体に、ビリッとした電撃のような衝撃が走り、狼狽した。

「チッ」

 舌打ちをして立ち上がり、外へ出ていった。

「あ……あ……」

 腰が抜けて、座り込んだ紅葉が、家から出てきた黒のコートを見て絶望する。

 グシャッ!

 紅葉は、すれ違い様に左肩を爪で、切りつけられた。

 ジワッと、紺色のブレザーが変色していく。

「ひぃぃぃぃ!!」

 黒のコートは、怯える紅葉を見ると顔をしかめながら、走り去って行った。

「百鬼……! 百鬼!!」

 紅葉は、四つん這いになりながら、ゆっくりと家の入口に向かった。


 中に入ると、薄暗い室内に血に染まった百鬼が、仰向けになっていた。 ピクピクと全身が痙攣を起こしている。

「あぁぁ……! 百鬼ぃ! 」

 震える右手で、紅葉が上着の内ポケットにあるスマートフォンを、探した。

「き、救急車……呼ばないと」

 次第に左肩の傷がズキズキと疼きだし、紅葉が苦悶の表情を浮かべる。

 腕が、震えてスマホをなかなか取り出せない。

 すると、後ろから人の気配がした。

「うわぁ! あんた達、大丈夫か!!」

 六十代くらいの、ジャージを着た男だった。

「た、助けて下さい……! 私達、通り魔に襲われて……」

 紅葉が、目に涙を浮かべながら、必死に言葉を振り絞った。

「わ、わかった! ちょっと待ってろ!」

 男は、脇に抱えたセカンドバッグから、スマートフォンを取り出し、119番を呼び出した。



 百鬼を載せた救急車は、けたたましくサイレンの音を響かせて、走っていた。

 ストレッチャーに載せられた百鬼は口には酸素マスク、身体中には、生体モニターに繋がれた電極パッドが貼られている。

 出血も酷い為、下半身には、止血用の圧迫スーツを装着している。

 モニターには、呼吸数、脈拍数、血圧等の数値が、まとめて表示されているが、正常値には程遠かった。

 意識は微かにあった為、救急隊員の質問にも、何とか応答できた。

「大丈夫ですよ! もうすぐ着きますからね!」

 女性隊員が、百鬼の耳元で優しく言った。

 もう一人の男性隊員は、モニターの数値を見ながら、険しい表情をしている。

「大丈夫ですよー! 頑張りましょうねー」

 再び、女性隊員が励ましの言葉を投げる。


 呼吸するのも苦しかったが、少しずつ楽になってきてるのに気が付いた。

 だんだんと、身体が暖かくなってきたし、ふわりとした優しい気持ちに包まれている感覚もする。

 ―― あぁ……心地がいい。もうすぐ死ぬんだね。たぶん、お迎えが来たんだね。

 百鬼は自分の死が近づいてきてると悟り、様々な思い出が走馬灯のように、脳内を駆け巡った。

 ―― お父さん、お母さん……先に行っちゃうけど、ごめんね。親孝行何にもできなかったよ。

 両親の姿が現れると、自然と涙が溢れだした。

 ―― 紅葉……今何してるのかな。怖かったよね。でも、友達でいてくれてありがとう。楽しい思い出をありがとう。

 襲われた後は、意識が薄れていた為、紅葉の姿は確認できなかった。

 紅葉との思い出も溢れ出す。

 ―― あぁ、身体が楽になってきた。もうあの世についたのかな。寂しいな。また生まれ変わったら……。


「……さん! ……さん!」

 ―― あれ? 誰かが呼んでる。三途の川に着いたのかな?

「……さん! 伊吹さん!」

 百鬼がハッとして、我に戻ると、周りに救急隊員がいた。

 皆、こちらを見て、驚きの表情をしている。

「あの……。もう、天国には着いたのでしょうか?」

 百鬼は、この世とあの世の区別がつかなくなっていた。

「天国? 病院ならもうすぐ着きますけど、あなた脈拍、呼吸も正常だし、出血も止まってますよ」

「え?」


 救急車は、病院の救命外来の入口に到着した。

 救急隊員が、百鬼を載せたストレッチャーを、テキパキと降ろしていく。

 救急救命室に運ばれると、男性医師、看護士数名が待機していた。

「患者さんの容体は?」

 男性医師が聞くと、救急隊長が言いづらそうに、答えた。

「生体モニターの数値は、全て正常値でした。出血もおさまり、傷口が……傷口が塞がってます」

 その言葉に男性医師が怪訝な表情を示す。

「どういう事? 出血がひどくて意識も薄れて、危険な状態だと聞いていたんだけど?」

「えぇ。 大変危険な状態だったんですが、何というか、その……奇跡的な治癒能力を持った子というしか……」

 救急隊長の顔に脂汗が流れる。

 男性医師が、寝ている百鬼をマジマジと見つめる。

「とにかく、検査だ。外傷は無くても、頭を打ってるかもしれないしな」

 ストレッチャーから、ベッドに移された百鬼の服は、血でベッタリと染まっていた。


 検査を終えた百鬼は、一晩入院する事になった。

 傷口も塞がり、呼吸、脈など全てが正常というのも、信じがたい事実だった。

 担当医も、いたずらを疑ったが、救急隊員が駆けつけた時の状況、発見者の証言全てが、一貫していた。

 しかし、搬送中に驚異的な速度で傷が治るなど、他に例がない。

 一人部屋のベッドで、横になった百鬼は、自分の身に起きてる事が、よくわからなくなっていた。

 通り魔に襲われた事ですら、夢だったんじゃないかとも考えたが、なら、何故自分は入院しているのだと。

 悩ませていると、紅葉の事を思い出した。

 ―― 紅葉は、何してるんだろう? まさか、あの子も通り魔に襲われた?

 そう考えると不安になり、涙が頬をつたった。

 寂しさ、不安、恐怖……全てが入り交じり、理解が追い付いてこない。

 グシュッと鼻水をティッシュで、かんでると、扉からノック音が聞こえた。

「はい?」

 スライド式のドアが、ゆっくり開くと、そこには紅葉が立っていた。

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