第2話

 二年三組の教室の扉を潜ると、いつもと変わらない光景が広がる。

 男子数人は、一つの机に固まってスマホゲームの攻略談義を、女子三人は大笑いしながら、好きなアイドルの話をしている。他には机に向かって自習、読書など授業が始まるまでは、思い思いの時間を過ごす。

 百鬼が、紅葉と別々の机に向かうと、いつもと同じ場所に視線が向かう。

 真後ろの席で、机に突っ伏して寝ている八瀬清姫やせきよひめだ。

 机が、長い黒髪に覆われている。一瞬死んでるのかと思うほど、微動だにしない。熟睡しているようだ。

 これは、毎朝の事だ。

 清姫も、紅葉、修羅と同じ幼少期からの知り合いだ。と言っても、それほど親しげな仲ではなく、遊んだ記憶も指で数える程度で、学校でも多少、会話をするぐらい。

 休み時間は大体寝ていて、友達と交流する姿はあまりないが、成績が良く、周りに嫌われている様子もない不思議な子だ。


 百鬼が席に座り、鞄から教科書を出して整理していると後ろから「ほあっ」という声が聞こえた。

 清姫が、伸びをしながら気だるそうに、あくびをしたのだ。

「お、八瀬さん、おはよう」

 百鬼が、か細い声で言った。

「ん……」

 清姫が、素っ気なく返す。

 百鬼は、清姫の事が少し苦手だ。何を考えてるか、わからない所や、愛想がとにかくないので、怒ってるのか何なのか、区別がつかない面倒くさい所があるからだ。

 ―― 相変わらずだなぁ。家で寝てないのかなぁ。

 百鬼が、心の中でつぶやいた。

「おーい、斉藤先生」

 声のする方向に視線を移すと、斉藤琢磨という男子の机を三人組が、取り囲むように立っていた。

「宿題見せてくれない? 数学、三時限目だろ? 今からやりゃあ間に合うからさぁ」

 ―― また斉藤くんに、たかってる。

 百鬼は眉をひそめた。

 斉藤琢磨は、成績優秀の優等生。

 しかし、極端に気が弱く、友達も少なく常に机に向かって、自習をしている。性格の悪い生徒達にとって、格好のターゲットだ。

「え、今からこのノート予習に使おう思ってたんだけど……」

「冷たい事言わないでくれよぉ」

 そう言って、斉藤の肩を軽く叩いたのは赤松仁。粗暴な性格で、兄が暴走族に所属している事もあり、非常に偉ぶっている。

「俺達、友達だろぉ? 友達は助け合いじゃね?」

 斉藤の顔を下から覗き込むように、言ったのは進藤。赤松の仲間だ。もう一人の仲間、千藤は斉藤の頭に、肘を乗せた。

 斉藤は赤松達の威圧に屈したのか、弱々しくノートを差し出した。

「サンキュー、先生。毎度毎度助かりますわぁ」

 赤松はノートを手に取り、二人の顔を見てニヤリと笑みを浮かべた。

「斉藤くん、大丈夫なの?」

 落ち込み俯く斉藤に、紅葉が駆け寄った。

「あぁ……。平気だよ」

 斉藤は、暗い表情で言った。

「ムカつくねー。はなっからそれ目的で、宿題やらなかったんでしょ? でも、あいつら変に刺激すると、面倒な事になるしねぇ……」

 斉藤は無言だった。

 紅葉は、斉藤の沈黙に少し気掛かりな感じがしたが、それ以上の言葉をかける勇気がなかった。

 そのやり取りを見ていた百鬼は、急にハッとした顔をする。

 斉藤が、赤松達にお金や、プリペイドカードなどを手渡している場面を度々、目撃していたからだ。

 無意識に見過ごしていたが、斉藤を気に掛ける紅葉の姿を見て、とても恥ずかしい感情を抱いた。

 ―― 見てみぬふりしていた自分が恥ずかしい。けど、怖くて自分には何も出来ない。

 百鬼は強い罪悪感を覚えた。

「紅葉……」

 席に戻った紅葉に、百鬼が弱々しい声で言った。

「どうした?」

「あのね……斉藤くん、いじめられてるんじゃないかな。私、何度か見ちゃったんだよね。赤松くん達に、お金とか渡してるの」

 百鬼が頬を赤らめた。

 紅葉はふぅっとため息を吐いた。

「そうだったんだね。ちょっとへーんな感じはしたんだけど、やっぱりね」

 二人は、斉藤の方に視線を移した。

「どうして急に、それを?」

 紅葉は、腕を組んだ。

「あ、えと、紅葉はさぁ、斉藤くんの事、ちゃんと心配して声かけてたじゃない? 私は、何もしてあげられなかった。困ってる人を見てみぬふりしてた。最低だよね。紅葉の姿勢を見て、自分ダメだなぁって」

 百鬼は悔しさを滲ませ、両手の拳を強く握り締めた。

「最低ではないんじゃない?」

 紅葉がふっと笑った。

「人間誰しも強い訳じゃない。怖い事、面倒な事から逃げ出したいのは、当然よ。真正面から立ち向かえる人なんて、あんまりいないって。でもさ、困ってる人に寄り添って、話を聞いてあげて、ちょっとの勇気を出してダメな事はダメって、言える人間にはなりたいよね」

 百鬼が、小さく頷いた。

「あんたは気が弱いだけで、根は優しい子だよ。私だって、こんなに偉そうに言ってるけど、赤松達にも、茨木にもなーんも言えてないでしょ? でも……今度、そういうの見たら、注意できるように頑張ろうと思うんだ」

 笑顔で言う紅葉の顔は眩しく、親友ながら、とても誇らしく思えた。


 ***

 連行された工藤は、警視庁で取り調べを受けた。

 精神状態が非常に不安定で、薬物使用の疑いもあった為、薬物検査を受けたが、結果は陰性。取調室では、アパートでの様子とは違い、すっかりと落ち着きを取り戻していた。

 血痕の付着した革ジャン、冷蔵庫の頭部などは、DNA鑑定にかけられた。

「野郎、まだシラを切ってやがる」

 コーヒーカップを手にした武井が、言った。

 工藤は、取り調べ中も覚えてないの、一点張りだったのだ。

「証拠はもう十分出揃ってる。今、鑑定にかけてるのだって、どうせ奴のです。まぁ、どう足掻いても詰んでますよ」

 柴崎が、煙草を灰皿に押し付けた。

「でも、あの工藤の表情見たよな?信じられんが、人間の顔をしてなかった。まるで〝化け物〟だった」

 古木の言葉に、武井と柴崎の表情が曇る。

「俺も信じられんよ。何かに憑かれてるようだったし。まぁ、殺しの捜査中に、不思議な体験はいくらでもあるけど、あんなにハッキリとしたものは……」

 武井は、怪訝な顔で、言った。

 殺人事件では、よく不可解な事がよく起きる。

 殺害現場で、誰かの声が聴こえたり、今まで開いてなかった窓や扉がいつの間にか開いてたり、睡眠中に金縛りにあったり。

 だが、それは姿の見える恐怖では、ない。

 しかし、工藤の顔がまるでSF映画のCGシーンのように、形が崩れ怪物のような姿に変化した。

 その場にいた捜査員、全員がそれを確認しているので、目の錯覚で片付けられる訳がない。

 古木は、胸騒ぎを覚えた。これから先、工藤が完全な怪物に変化するのではないか。という嫌な予感がよぎった。

 工藤は、すでに取り調べを終えて、留置場に身柄を拘束されている。

 留置担当官には、不審な動きをした場合は躊躇なく応援を呼ぶよう、あらかじめ伝えてあった。

 もしかしたら、怪物になるかもしれない。とは言えなかった。不確かな情報で、担当官を混乱させない為だし、それを言った所で相手は、何の事か理解できないだろう。

 しかし、万が一怪物になって暴れだしたら、素手だけで制圧ができるのだろうか。獣のような牙を剥き出し、刃のような爪を生やして攻撃してきたら、まともに対抗できない。

 なら、 銃を発砲させたらどうか。しかし、それで工藤に致命傷を与え、死なせてしまったら、それこそ取り返しのつかない事になる。

 古木は、今夜は何もないようにと、心の中で祈った。



 工藤は、個室に収容されていた。扉、窓は白い鉄格子で覆われていて、中は、四畳くらいのスペースに、トイレ、畳まれた布団、小さな机、座布団が置いてある。

 特に注意して監視をするようにと、古木に指示された為、担当官が部屋の前を頻繁に巡回していた。

 工藤は、体育座りのような格好で、壁にもたれ掛かり、顔を伏せていた。

「工藤はおとなしくしてるか?」

 五十代半ばくらいの、ベテラン担当官が、廊下ですれ違った若い担当官に、声をかけた。

「今の所、何もないです」

 若い担当官が言った。

 留置場の監視をする留置担当官は皆、警察官だ。手錠も拳銃も所持している。いざとなれば、発砲出来る。

「逮捕前、錯乱してたんですよね? クスリも使ってないとか。精神疾患を認めさせて、責任能力なしってのを、狙ってるんすかね」

「わからん。しかし、古木さんが工藤の様子を頻繁に伺ってくれって、何でそんなに、念を押してくるんだ?」

 ベテラン担当官は、首を捻った。

「舌噛んで、自殺でも図るつもりですかね? 猿ぐつわ着けさせます?」

「いや、気が引けるな。暴れてる訳でも、ないしな」

 二人が立ち話をしていると、別の担当官が、小走りでこちらへ向かってきた。

「ん? どうした」

 若い担当官が、聞く。

「工藤、様子が変です。妙にぜぇぜぇしてるんです。すごく汗もかいてるし」

 三人は、工藤の部屋へ急いで向かった。


 部屋の前へ着くと、確かに呼吸が荒い。異常に肩を激しく上下させ、ふーふーと、息が漏れている。

「お隣さん、大丈夫か? 苦しそうな声、丸聞こえだよ」

 隣の部屋に収容されている、両腕にたっぷりと刺青を入れた、ヤクザ風の男が思わず三人に声をかけた。

「工藤! 苦しいか? 医者行くか?」

 ベテラン担当官が尋ねるが、 工藤は、さらに激しく呼吸を荒げ、身体はぶるぶると痙攣を始めた。

「やばい、やばい! 医者連れて行きましょう!」

 若い担当官は、動揺しながら制服の内ポケットから、鍵を取り出した。

「グォォォォォォォ」

 工藤は、不気味な咆哮を上げ、立ち上がった。

 顔面が、ボコボコと波を打ち、目の瞳孔がカッと開く。

 額は突き出し、見開いた目は赤色に濁っていく。

 頬はどす黒く変色していった。

「うわぁ!!」

 三人は一斉に悲鳴を上げた。

 口からは牙が生え、伸び出した爪は、鋭利な刃物の如く変化していった。

 赤く染まった眼球は、不気味な光を放ち、獣のようなその姿は、まさに〝怪物〟だった。

 唖然として立ち尽くすベテラン担当官の横で、若い担当官は腰を抜かしている。もう一人の担当官は、事務所に向かって走っていった。

 工藤は、後ろを振り向き窓を確認すると、超人並みの跳躍力で鉄格子に飛びつき、窓硝子などを鉄槌で破壊していった。

 ガシャガシャと音を立て、硝子の破片が床に散らばる。

「やばい! 逃げる!」

 ベテラン担当官が叫んだが、工藤は丸太のような腕を振り下ろして窓枠を砕き、壁を破壊し、部屋の外へと飛び出して行った。

「おおい! どうなってんだよ! 何だよ今のは!」

 担当官の叫び声が、廊下中に響き渡った。


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