第五章 魔犬と少年(4)



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 エウィン妃ははげしい口調で訴えたが、その瞳はうつろで、誰の姿もみてはいないようだった。

 セルマはゆっくり首を振ってライアンをなだめた。彼女の穏やかな声には、空虚さと諦めと、が同居していた。


『ええ。そうね、お母様。貴女あなたにとっては、そうだった。……殺すつもりはなかった、死ぬはずはなかった。私は生きて、貴女のどんな無理な願いも叶えるのが当然だった』

『おお、セルマ。ワタシはだた、幸せになりたかっただけなのよ』


 エウィン妃がひどく疲れた声で囁き、一同は凍りついた。

 セルマは、なぐさめるようにエウィン妃の肩を抱いた。


『分かっているわ、お母様。幸せになりたい……でも、貴女あなたが幸せかを知らなかった。与えられたことがなかったから。自分で見つけようとも考えなかった』


 エウィン妃は凝然ぎょうぜんと目をみひらき、両手で頬をおおって身震いをした。セルマは項垂れ、足下の花を眺めた。


『……花が咲いて、麦が実って。木々は緑に萌え、鳥たちは歌う。山々は美しく、仔馬は跳ね、魚のうろこは煌めく……。そういう美しいもの、ささやかで優しいものが、たくさんあったのに、貴女は一度として価値を認めなかった。美味しい食事が食べられて、子ども達が笑っていられることに……幸せがあると、気づかなかった』


「そして、愛することも知らなかった」


 ティアナが口を開いた。向かい合う姉妹は鏡像のごとく、声は歌う木霊こだまのごとく、優しくエウィン妃をさいなんだ。


「なぜなら、きちんと愛されたことがなかったから……。貴女は自分の内なるその飢餓に、手当たり次第に欲しいものを投げこんで、結局すべてを壊してしまったのよ。私も、お姉様ねえさまも、アルトリクスも……。ということに、最期まで気づかなかった」

『ワタシは孤児だったのよ! 仕方ないじゃない。……ワタシは悪くない。ワタシだって、大変だったのよォ』


 泣きくずれる母を、姉妹は黙って見下ろした。死してなお言い訳をつづける彼女を憐れむように。それから、二人はお互いをみて微笑み、セルマはライアンを、ティアナはアルトリクスをかえりみた。


『ライアン、ティアナ。どうか、母を許してやって。既に罰は受けたのよ』


 ライアンはおもてを伏せ、苦々しく応えた。


「……セルマ殿がそう仰るなら、私に異存はありません」

「そうね、お姉様。でも、アルトリクスとクルトとクレアにとっては、そうではないわ」


 クレアは、自分の肩におかれた叔母の手が細かく震えていることに気がついた。ティアナは感情を抑えて続けた。


「お母様。貴女は、私とアルトリクスからセルマを奪ったわ。クルトとクレアから、両親を奪ったのよ。血筋なんてくだらない事柄ことがら拘泥こうでいして戦争を起こし、多くの人々を苦しめ、死なせ、孤児をつくった……。その罪は永遠に消えないわ」


 透明で美しいティアナの声は、無数の針のようにエウィン妃を刺し、妃は顔をおおって坐りこんだ。何度も首を振る姿は、まるでイヤイヤをする小さな子どものようだと、クレアは思った。

 セルマは子ども達に向きなおり、片手をクレアにさし出した。クレアはおずおずと母に触れようとしたが、手が母の体を通り抜けてしまったので、ぎょっとしてひっこめた。


「おかあさま」


 セルマは無言で微笑むと、両手で少女を抱く仕草をしてみせた。頭の上すれすれの空間を撫で、クルトにも手をさしのべる。


「母上……」

『愛しているわ、クレア、クルト。ごめんなさい、一緒にいられなくて……。アルトリクス、私は母を連れて行くわ』

「いや、セルマ。今回は、私も一緒に行こう」


 アルトリクスは竪琴を抱きなおした。

 セルマは、ライアンとティアナに丁寧に頭をさげた。ティアナはうなずき、ライアンは右手の拳を胸にあてて立ち上がった。


 セルマがエウィン妃の手をとって立たせていると、『チビ』 が荒々しく吼えて周囲を駆けまわった。レイヴンが駆け寄り、ひざまずいて訴える。


「お待ち下さい! セルマ様。アルトリクス様、もう少しだけ……。エウィン様、アーエン姫! わたしが分かりますか?」


 『チビ』 が鼻面を天に向けて遠吠えを始めた。クレアの制止は耳に入らないらしい。陰鬱いんうつな声は主塔と城壁に反射し、夜の山々にこだまして殷々いんいんと響きわたった。

 冷たく湿った風が花園に吹きこみ、ライアンは〈輝ける鉤爪グレンツェン・クラオレ〉を握りなおし、アゲイトは盾を構えた。一同の頭上を、けたたましい馬のいななきと戦車の車輪と、猟犬たちが獲物を追いたてる嵐のような音がかすめる。

 レイヴンが、するどく叫んだ。


「クルト! 〈影の王〉が来ます。気をつけて!」


 夜霧が渦を巻き、主塔の上空に黄金の戦車が現われた。雪のように白い二頭の馬が牽いている。周囲には血の色の眸をした魔犬の群れがいて、牙をむき、炎とよだれを吐いて地上の人々を威嚇した。


んだか、下僕ども。サウィンの夜に出迎えとは、殊勝しゅしょうよのう」


 雷鳴のような声を聞き、クルトは恐ろしさのあまり腰が抜けそうに感じた。


「なに? あれ……」


 クレアがへなへなと坐りこむ。少女は傍らに 『チビ』 を抱き寄せようとしたが、チビは彼女から離れ、エウィン妃に向かって唸りつづけている。

 ガシャガシャと馬具のなる音がひびく。〈影の王〉自身は闇に包まれていて、その姿は見えない。古い柱が軋むような、耳障りな声が降ってきた。


「三年と待たず覚悟を決めたか、アイホルムの公子よ。来い、ウリンへ連れて行ってやろうぞ」

「いいえ。ぼくは行きません」


 ライアンがすらりと愛剣を抜き、アゲイトが水竜ドラゴンの盾をかまえて、クルトの両側に立つ。クルトは腹にぐっと力をこめて言い返した。


「ぼくは生贄いけにえにはなりません。〈影の王〉よ。貴方こそ、ウリンの人々を解放するべきだ!」

「なんだと?」


 その間、レイヴンはエウィン妃の幽霊の前にひざまずき、懸命に呼びかけていた。


「アーエン王女! 姫さま、ソロハです。目を醒まして下さい!」


 エウィン妃は泣きぬれてふちの紅くなった眼でレイヴンをみつめ、小声でくりかえした。


『ソロハ……?』

「そうです、わたしです! 思い出して下さい、アーエン姫!」


「アーエン、だと?」


 〈影の王〉の声に緊張が走った。アルトリクスが彼を見上げ、勝ち誇った口調で告げる。


「そうだ。ヴェルトリクス、憐れな過去の亡者もうじゃよ。ウリンのアーエン王女だ」

「やめろ! その女を目覚めさせるな!」


『ソロハ、ウリン……。ヴェルトリクス……!』


 茫然と呟くエウィン妃の姿が変化しはじめたので、レイヴンを除く一同は息を呑んだ。背が伸びて若返り、髪は黒々とつやめき、肌はいっそう蒼白くなった。胴着ドレスのかたちも変化したようだ。顔立ちはもはやティアナ女大公とは似つかず、頬骨が張って顎がとがり、美しいが冷酷な印象になった。


(そうか。) クルトは、エウィン妃の変貌に瞠目どうもくしつつ考えた。――アーエン王女は希代きだい女魔術師ドリュイダスだ。殺されてなおネルダエとアイホルム一族を呪い、四百年間 転生をくりかえしてエウィン妃となった。彼女は父王を憎み、ヴェルトリクス王は彼女を恐れている。――レイヴンは、アーエン王女の魔力を〈影の王〉にぶつけるつもりなのだろうか。


「公子をさらえ!」


 〈影の王〉が命令し、魔犬の群れが一斉にクルトに襲いかかった。目と耳の内側を血の色に燃えたたせ、蒼白い火焔をまとった魔犬たちが、はげしく吼えながら宙を飛んでくる。アゲイトが盾を掲げ、ライアンが剣を手に一歩前へふみだした。


「結局、こうなるのか」


 ライアンがぼやきながら先頭の魔犬を斬り伏せ、アゲイトの盾から閃光がはしって戦車をひく馬たちをひるませた。

 〈影の王〉は、棹立さおだちになった馬の手綱を引いて怒声をあげた。


「きさま、ラダトィイ族の小僧か! おのれ、ネルダエの者でありながら、フォルクメレに加担するとは!」

「知るか!」


 普段もの静かなアゲイトが、ハッとわらって吐き捨てる。クルトは、こんなに猛々たけだけしく格好いい従兄いとこを初めて観たように思った。


「ネルダエだろうとフォルクメレだろうと、オレには関係ない。クルトはオレの友だ。理由はそれで充分!」


『ヴェルトリクス! 貴様の相手は私だ。降りて来い! 貴様のせいで、私は……!』


 割れ鐘を叩くような、アーエン王女の呪詛の声がひびく。魔女の強大な魂にエウィン妃の自我は呑まれてしまったのだろうか。いにしえの姿に戻った彼女の黒髪は蛇の群れのごとくざわめき、黒い眸には紫紅色の火焔が燃えている。鉤のように曲げた指先から、紫の稲妻がほとばしった。

 〈影の王〉は王女を恐れ、激高げきこうし、びゅんと鞭を振って叫んだ。


「ええい、娘だ! 公女を攫え!」

「きゃあっ!」


 クルトとライアンが息を呑むのと同時に、クレアが悲鳴をあげた。『チビ』 がその本性をあらわし、巨大な魔犬モーザ・ドゥーグとなって少女に襲いかかったのだ。ティアナは姪をかばおうとして突きとばされ、アルトリクスとぶつかった。山岳天竺鼠マオールのグウィンが魔犬の牙の前にとびだし、クレアにしがみつく。

 グウィンは小さな体じゅうの毛を逆立て、フウーッ!と爪と牙をむいて自分の数倍はある犬を威嚇した。


「グウィン! ……あなた、チビなの?」


 クレアに乗りかかった魔犬は、グウィンに驚いて動きを止めた。蒼い火焔にふちどられた純白の体に紅い瞳を燃やす 『チビ』 を凝然とみつめ、クレアはふるえる声で呼びかけた。


「それが本当の姿なの? わたし達をだましていたの? ……友だちじゃあ、なかったの?」


 魔犬はぐるぐると唸り、牙の間からよだれを垂らしつつ躊躇していた。グウィンは懸命にクレアののどを守っている。

 〈影の王〉が業を煮やして叫んだ。


「何をしている。さっさと来い!」


 あるじの命令を受けて、別の魔犬が駆けてきた。途端に 『チビ』 だった魔犬は身をひるがえし、仲間に襲いかかった。己と同格の白い犬の喉に噛みつき、ふりまわして地に叩きつけ、投げ飛ばす。次の一匹も、体当たりして退けた。

 クレアは驚愕し、ついで歓喜した。


「チビ!」





~第五章(5)へ~

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