第五章 魔犬と少年(4)
4
エウィン妃は
セルマはゆっくり首を振ってライアンをなだめた。彼女の穏やかな声には、空虚さと諦めと、さげすみが同居していた。
『ええ。そうね、お母様。
『おお、セルマ。ワタシはだた、幸せになりたかっただけなのよ』
エウィン妃がひどく疲れた声で囁き、一同は凍りついた。
セルマは、なぐさめるようにエウィン妃の肩を抱いた。
『分かっているわ、お母様。幸せになりたい……でも、
エウィン妃は
『……花が咲いて、麦が実って。木々は緑に萌え、鳥たちは歌う。山々は美しく、仔馬は跳ね、魚の
「そして、愛することも知らなかった」
ティアナが口を開いた。向かい合う姉妹は鏡像のごとく、声は歌う
「なぜなら、きちんと愛されたことがなかったから……。貴女は自分の内なるその飢餓に、手当たり次第に欲しいものを投げこんで、結局すべてを壊してしまったのよ。私も、お
『ワタシは孤児だったのよ! 仕方ないじゃない。……ワタシは悪くない。ワタシだって、大変だったのよォ』
泣きくずれる母を、姉妹は黙って見下ろした。死してなお言い訳をつづける彼女を憐れむように。それから、二人はお互いをみて微笑み、セルマはライアンを、ティアナはアルトリクスをかえりみた。
『ライアン、ティアナ。どうか、母を許してやって。既に罰は受けたのよ』
ライアンは
「……セルマ殿がそう仰るなら、私に異存はありません」
「そうね、お姉様。でも、アルトリクスとクルトとクレアにとっては、そうではないわ」
クレアは、自分の肩におかれた叔母の手が細かく震えていることに気がついた。ティアナは感情を抑えて続けた。
「お母様。貴女は、私とアルトリクスからセルマを奪ったわ。クルトとクレアから、両親を奪ったのよ。血筋なんてくだらない
透明で美しいティアナの声は、無数の針のようにエウィン妃を刺し、妃は顔をおおって坐りこんだ。何度も首を振る姿は、まるでイヤイヤをする小さな子どものようだと、クレアは思った。
セルマは子ども達に向きなおり、片手をクレアにさし出した。クレアはおずおずと母に触れようとしたが、手が母の体を通り抜けてしまったので、ぎょっとしてひっこめた。
「おかあさま」
セルマは無言で微笑むと、両手で少女を抱く仕草をしてみせた。頭の上すれすれの空間を撫で、クルトにも手をさしのべる。
「母上……」
『愛しているわ、クレア、クルト。ごめんなさい、一緒にいられなくて……。アルトリクス、私は母を連れて行くわ』
「いや、セルマ。今回は、私も一緒に行こう」
アルトリクスは竪琴を抱きなおした。
セルマは、ライアンとティアナに丁寧に頭をさげた。ティアナはうなずき、ライアンは右手の拳を胸にあてて立ち上がった。
セルマがエウィン妃の手をとって立たせていると、『チビ』 が荒々しく吼えて周囲を駆けまわった。レイヴンが駆け寄り、
「お待ち下さい! セルマ様。アルトリクス様、もう少しだけ……。エウィン様、アーエン姫! わたしが分かりますか?」
『チビ』 が鼻面を天に向けて遠吠えを始めた。クレアの制止は耳に入らないらしい。
冷たく湿った風が花園に吹きこみ、ライアンは〈
レイヴンが、するどく叫んだ。
「クルト! 〈影の王〉が来ます。気をつけて!」
夜霧が渦を巻き、主塔の上空に黄金の戦車が現われた。雪のように白い二頭の馬が牽いている。周囲には血の色の眸をした魔犬の群れがいて、牙をむき、炎と
「
雷鳴のような声を聞き、クルトは恐ろしさのあまり腰が抜けそうに感じた。
「なに? あれ……」
クレアがへなへなと坐りこむ。少女は傍らに 『チビ』 を抱き寄せようとしたが、チビは彼女から離れ、エウィン妃に向かって唸りつづけている。
ガシャガシャと馬具のなる音がひびく。〈影の王〉自身は闇に包まれていて、その姿は見えない。古い柱が軋むような、耳障りな声が降ってきた。
「三年と待たず覚悟を決めたか、アイホルムの公子よ。来い、ウリンへ連れて行ってやろうぞ」
「いいえ。ぼくは行きません」
ライアンがすらりと愛剣を抜き、アゲイトが
「ぼくは
「なんだと?」
その間、レイヴンはエウィン妃の幽霊の前にひざまずき、懸命に呼びかけていた。
「アーエン王女! 姫さま、ソロハです。目を醒まして下さい!」
エウィン妃は泣きぬれてふちの紅くなった眼でレイヴンをみつめ、小声でくりかえした。
『ソロハ……?』
「そうです、わたしです! 思い出して下さい、アーエン姫!」
「アーエン、だと?」
〈影の王〉の声に緊張が走った。アルトリクスが彼を見上げ、勝ち誇った口調で告げる。
「そうだ。ヴェルトリクス、憐れな過去の
「やめろ! その女を目覚めさせるな!」
『ソロハ、ウリン……。ヴェルトリクス……!』
茫然と呟くエウィン妃の姿が変化しはじめたので、レイヴンを除く一同は息を呑んだ。背が伸びて若返り、髪は黒々とつやめき、肌はいっそう蒼白くなった。
(そうか。) クルトは、エウィン妃の変貌に
「公子を
〈影の王〉が命令し、魔犬の群れが一斉にクルトに襲いかかった。目と耳の内側を血の色に燃えたたせ、蒼白い火焔をまとった魔犬たちが、
「結局、こうなるのか」
ライアンがぼやきながら先頭の魔犬を斬り伏せ、アゲイトの盾から閃光がはしって戦車をひく馬たちをひるませた。
〈影の王〉は、
「きさま、ラダトィイ族の小僧か! おのれ、ネルダエの者でありながら、フォルクメレに加担するとは!」
「知るか!」
普段もの静かなアゲイトが、ハッと
「ネルダエだろうとフォルクメレだろうと、オレには関係ない。クルトはオレの友だ。理由はそれで充分!」
『ヴェルトリクス! 貴様の相手は私だ。降りて来い! 貴様のせいで、私は……!』
割れ鐘を叩くような、アーエン王女の呪詛の声がひびく。魔女の強大な魂にエウィン妃の自我は呑まれてしまったのだろうか。
〈影の王〉は王女を恐れ、
「ええい、娘だ! 公女を攫え!」
「きゃあっ!」
クルトとライアンが息を呑むのと同時に、クレアが悲鳴をあげた。『チビ』 がその本性をあらわし、巨大な
グウィンは小さな体じゅうの毛を逆立て、フウーッ!と爪と牙をむいて自分の数倍はある犬を威嚇した。
「グウィン! ……あなた、チビなの?」
クレアに乗りかかった魔犬は、グウィンに驚いて動きを止めた。蒼い火焔にふちどられた純白の体に紅い瞳を燃やす 『チビ』 を凝然とみつめ、クレアはふるえる声で呼びかけた。
「それが本当の姿なの? わたし達をだましていたの? ……友だちじゃあ、なかったの?」
魔犬はぐるぐると唸り、牙の間から
〈影の王〉が業を煮やして叫んだ。
「何をしている。さっさと来い!」
クレアは驚愕し、ついで歓喜した。
「チビ!」
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