第四章 失われた王国(4)



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 翌朝、辺りにたちこめた霧が消えてから、クルト達は移動を開始した。日没までに湾に近づこうと考えたのだ。明るい日差しの下で観ると、昨夜の花崗岩にはネルダエ独特のトリスケル(三本脚文様)や渦巻や月の文様が刻まれ、ヒースの中には崩れた建物の土台らしき石が散乱していた。クルトとライアンとレイヴンとフェルテジルは、荷を馬に載せてウリン湾を形成する半島へ向かった。


 夕暮れ。ジギタリスの花のように鮮やかな紫の空に、銀の水竜ドラゴンが宵の明星をしたがえて舞い降りるさまを、四人はやや呆然と見守った。ヒースの野に浮かぶシルヴィアの背から、アゲイトが、盾を手に軽やかに降り立つ。


(この辺りに人が住んでいなくてよかった。) と、クルトは考えた。知らない人が竜をみたら大騒ぎになるだろう。水馬アッハ・イシュカを警戒してか、周囲に人の気配はなかった。

 シルヴィアは透明な翼を優雅におりたたみ、長い首をもちあげて月を示した。


〈月ノ道が開クハ、光ガうりんニ届ク間。ナガクハない故、心セヨ〉

「はい。分かりました」


 クルトはうなずき、声に出して答えた。レイヴンも蒼ざめた顔でうなずいている。

 クルトとレイヴンとライアンの三人は、外衣マントを脱ぎ、できるだけ軽装になって水際へ進んだ。フェルテジルは馬たちとともに岸に残る。ライアンは剣帯をしっかりと締め、アゲイトは上衣チュニックを脱いで上半身はだかになり、盾に革帯を通して背負った。しなやかな筋肉におおわれた従兄の体に、狼の頭をかたどった黄金のねじり頸環トルクがにぶく輝いている。クルトは思わず訊ねた。


「寒くない?」


 アゲイトは一瞬おどろいたように眼をみひらき、不敵に笑った。ライアンが感心した声音で教えてくれる。


「伝統的に、ネルダエの戦士は裸で戦うのだ。盾を持ち、剣ではなく槍を使う」

「槍を?」

「三人交代で馬にり、或いは、戦車に乗って突進してくる。凄い迫力だぞ。……アルトリクスも、そうだった」


 過去にネルダエの人々と戦ったグレイヴ卿が言うのだから、そうなのだろう。クルトは従兄の姿から父を想像しようとしてみたが、難しかった。


 アゲイトは再び水竜ドラゴンに乗り、シルヴィアは蛇のごとく水面みなもを這って行った。暗い水に幾重もの銀の曲線があらわれ、小さな波となって岸辺に打ち寄せる。昇ったばかりの満月の落とす金の光が、波でにじんだ。

 ライアンは湾の水を手ですくって口へ運び、顔をしかめた。


「真水ではないな。といって、海水よりはうすい。剣が錆びなければよいが」

「ここの水は、カロン川の支流と海水が混じった汽水きすいです」


 レイヴンは革靴の先をちょこっと水につけて跳びさがった。


!……わたしはやはり、ここで待たせて頂きます」


 くるりときびずをかえそうとした彼の襟首を、ライアンがぐいと捕まえた。太い腕を華奢な肩にまわし、がっしり動きを抑える。


「貴公、クルトのためなら火のなか水のなか、と言ったではないか」

「言葉のあや、ですよう。だいいち、カラスは泳げません」

「貴公がウリン出身と聞いた以上、案内してもらわねば。それとも、ここで焼き鳥にされたいか」

「そんなあ~」


 どこまで本気か分からない会話に笑いながら、クルトは先に歩いて行った。暗い水の中へ歩を進めると、ふいに体が深く沈んだ。


「クルト、待て! 一緒に行こう」


 焦るクルトの腕を、ライアンが引いてくれる。立ち泳ぎで体勢をたてなおしていると、蒼白い光が現われて周囲を照らした。

 レイヴンの片手がぼんやり輝いていた。光る石のような塊を持っている。〈妖精の灯〉に似たそれをひとつクルトに手渡し、片目を閉じた。


「たまには、わたしもお役に立つでしょう?」

「ありがとうございます」


 ライアンの方は〈輝ける鉤爪グレンツェン・クラオレ〉の刀身が光っていて、こちらも不自由はなさそうだ。平らな水面をみわたすと、円い湾のほぼ中央、月の下で竜がこうべをもたげている。三人はぎこちなく体を浸し、慎重に泳いでそちらを目指した。


「わっ!」

「レイヴン卿?」


 今度はレイヴンが声をあげ、たぷんと沈んだ。ライアンが潜っておいかける。クルトも顔をつけて眼を凝らし……驚愕した。

 濃紺の水のなか、幅のひろい海藻がもつれあって塊となり、黒い渦を成していた。渦の中心で紫紅色のひとみが光っている。レイヴンの魔法の灯に照らされ、白い牙がぎらりと輝く。それはレイヴンの脚衣ズボンをくわえ、闇の底へひきずりこもうとしていた。レイヴンはばたばたと手足を動かして抵抗するが、逃れられない。ごぼっと泡を吹く彼をライアンが背後から抱え、剣を振って水馬を追い払おうとした。


「レイヴン卿!」


 クルトの上衣チュニックの裾がぐいと引かれた。襟が絞まり、クルトは慌てて上衣を掴んだ。ライアンが水馬アッハ・イシュカの一頭を剣の柄頭つかがしらで殴って退け、急いでこちらへ泳いでくる。泡と魔物のたてがみが渦を巻き、光と影が絡み合った。


「た、たす……」


 助けを呼ぼうとして空気を吐き、クルトはさらに苦しくなった。ライアンが片手でレイヴンを支えながら、もう一方の手で少年の腕を引き寄せる。クルトが無我夢中で蹴った足が水馬に当たり、ギギギキキィーッと錆びた蝶番ちょうつがいが軋むような、耳をつんざくような声があがった。もう息ができないと諦めかけたクルトの目に、短剣を口にくわえて泳ぐアゲイトが映った。


〈あげいとりくす。盾ノ日輪にちりんヲ、カカゲヨ〉


 シルヴィアの涼やかな 《声》 が脳裡に響く。

 アゲイトの盾から黄金の閃光が放たれ、水中をまひるのごとく照らしだした。クルトも目がくらんだが、水馬どもはギチギチとうるさく鳴いて逃げまどった。続いて、衝撃が湾内の水を揺らし、かき混ぜ、魔物たちを一斉に打ち払った。

 クルトとレイヴン、アゲイトとライアンは、次々に水面にあがって息をついた。木の葉のように揺さぶられて 「ひいーっ、けふんけふん」 とせるレイヴンを後目しりめに、ライアンは呆れ声で呟いた。


「剣は不要だな……」


 波がおさまると、湾内はまた静かになった。水馬たちは退散したらしい。再び、シルヴィアの冷静な 《声》 が響いた。


〈盾ハ魔ノ者ヲシリゾケル。相手ニ敵意アルホド、ちからハ強クナル。心セヨ〉

「分かった、シルヴィア。ありがとう」


 アゲイトが礼を言うと、竜は銀の頭をふって満月を示した。


〈道ガ開イタ。征クガヨイ〉


 アゲイトはふかく息を吸い、盾を抱えて潜った。クルト、レイヴン、ライアンが続く。暗褐色の水中を盾の盛りあげ飾りとレイヴンの灯が照らす。湾のほぼ中央、水面から差しこむ月光が、彼らの行く手を示していた。




 潮をふくむ夜風がヒースの野を撫で、さわさわと音を立てる。馬たちは〈夜の風ナーヴィント〉号を中心に身を寄せあっている。風になびくたてがみや天鵞絨ビロードのような毛皮を眺めながら、フェルテジルは火をおこし、鉄製の鍋で葡萄酒を温めた。片膝をたてて坐り、煙管にけむり草を詰めていると、シルヴィアが戻ってきた。

 水竜はゆるゆる体をくねらせて水面を渡り、フェルテジルの待つ岸へ這いあがった。馬たちは彼女を警戒して距離をおいているが、逃げようとはしない。フェルテジルは、とぐろを巻く守護竜を仰ぎ見た。


「〈月の道〉が開いているうちに、戻って来られるでしょうか」


 竜は澄んだ紫水晶の眸で彼を見下ろした。


〈うりんハ、影ノ王ニ閉ザサレテイル。せいアル者ハ、とどマレヌ〉

「そうですか……」


 馬たちが鼻を鳴らし、〈天睛ラーンフール〉号が不安げに足踏みをした。シルヴィアはすうと眼を細め、首をもたげた。煙管を口にくわえようとしていたフェルテジルも、人影に気づいて動きを止めた。


 背の高い男だ。古びた毛織の外衣マントを頭からすっぽりかぶり、片腕に竪琴リラの形をした袋を抱えている。柔らかな革靴ブローガ・アーダの底で地面の凹凸をたしかめながらやって来ると、頭巾を脱いだ。蓬髪ほうはつが肩にこぼれ、目隠しされたかおが表れる。フェルテジルは眉根を寄せて目を凝らし、シルヴィアはさらに高くこうべを上げた。

 男の方から、懐かしげに声をかけてきた。


「お久しぶりです、シルヴィア。みえなくとも、貴女の存在は分かります。水竜が聖地ブレシュリアンから降りて来られるとは、珍しい」

〈あるとりくす……〉


 シルヴィアが囁き、フェルテジルは息を呑んで立ち上がった。アルトリクスは葉擦れの音のする方へ顔を向けた。


「兄上?」

「……その声は、フェルテジルか」


 アルトリクスのなめらかな声が、かすかに毛羽けばだった。盲目の吟遊詩人バルドはうすい唇の端をわずかに吊り上げ、竪琴リラを抱えなおした。


「クルトもここにいるのか? 先ほど、私の盾が使われた気配があった」

「お久しぶりです、兄上。クルト公子は、グレイヴ卿とレイヴン卿とアゲイトとともに、ウリンへ向かいました。盾を使ったのは、アゲイトです」

「ライアンとレイヴン卿が?」


 アルトリクスは面白そうに息を吐いて笑った。


だな。では、盾はアゲイトを選んだのか。お前は代替わりを果たしたのか? フェルテジル。……訊きたいことがたくさんあるぞ」

「私もです」


 兄弟が互いの距離を縮め、こわばっていた心をほぐしていると、シルヴィアが冷厳な声を投げかけた。


〈あるとりくす。汝……死ニカケテおるナ〉


 アルトリクスは口を閉じた。フェルテジルはぎくりとして、竜と兄の顔を交互に見遣った。

 アルトリクスはうっそりとわらい、囁いた。


「はい。この傷と、十年に及ぶ放浪で、すっかり病んでしまいました。申し訳ございません、シルヴィア。本来なら、御前ごぜんに参上できる身ではありません」

〈構ワヌ。しるふぃーでニ、まみえたカ〉

「はい」


 アルトリクスは身をかがめ、荷袋から竪琴をとりだした。樫の木の胴に白銀の弦がはってある。盲目の男はそれを胸に抱き、そっとかき鳴らした。澄んだ音が流れでる。


幻影の湖ロッホ・ルネデスに着き、大気の妖精シルフィーデあしを授かりました。シルヴィア、貴女の竪琴リラは直りましたよ」

うまナリ〉


 シルヴィアはうっとりと眼を閉じ、満足げに呟いた。それから、改めてアルトリクスを見据える。


〈汝ガ心、ギタリ。重畳ちょうじょうカナ〉

「はい……あのいかりを鎮めるのに、十年かかってしまいました」


 アルトリクスは面を伏せ、ほっと溜息をついた。途端にこれまでの苦難と疲労が頬に表れ、全身が老けこんだように見え、フェルテジルは眉をひそめた。


「ようやく、セルマに逢いに行けます……。さて、貴女が降りて来られた理由は? シルヴィア。何事があったのですか?」


 それで、フェルテジルは一連の事情を説明した。収穫祭のひと月前に〈影の王〉が現われ、クルト公子を攫おうとしたこと。レイヴン卿が王を阻止し、三年間の猶予をとりつけたこと。グレイヴ卿の小姓となった公子。アルトリクスの盾がアゲイトを選び、クルトはシルヴィアの指示で『失われた国』を目指したこと、などを――。


 アルトリクスの表情は、目隠しのせいで分かりにくい。胡坐を組んで弟の話を聴きおえると、彼は静かに呟いた。


「三年か……。長いな。ちそうにない」

「兄上、どうぞ」


 フェルテジルは、温めた葡萄酒をいれた杯を、兄の手に握らせた。アルトリクスは迷いない仕草でそれを唇にあて、ひとくち飲んで息をついた。


「不意打ちを阻止して下さったレイヴン卿に、感謝しなければ。だが、私にとって三年は長い。こちらから仕掛けるか……」

「お待ちください。クルトに会って下さらないのですか? グレイヴ卿に」


 アルトリクスがひとりごとのように言い、杯を置いて立ち上がったので、フェルテジルは慌てた。盲目の兄は寂しげに応えた。


「いま会えば、辛くなる。サウィン(新年の祭り)に気をつけるよう、クルトとライアンに伝えてくれ。幽界の門がひらき、〈影の王〉が活動をはじめる。地母神ネイの釜に犠牲を捧げるために」

〈待テ、あるとりくす〉


 一礼して退がろうとするアルトリクスを、シルヴィアが呼び止めた。水竜は平坦な口調で続けた。


〈一曲所望しょもうスル。吟遊詩人バルドタルガ技量ヲ、我ニシメセ〉


 これを聞くと、アルトリクスは微笑んで坐りなおし、竪琴を膝において手早く調弦した。深みのある声でうたいはじめる。鎮魂の呪歌ガルドルだ。



     射干玉ぬばたまの髪の乙女、麗しの水底ウリンに眠る。

     は地母神がめぐしたもう、海神わだつみがゆりかご。

     

     あおき瞳の若人わこうど海豹セルキーつどう外浜に佇む。

     其は風神がはこぶ、天空神セタムが恋の歌。


       などなみえ、さかまき、渦巻く。

       呼ぶ声は遠く、カルニュクス(戦闘ラッパ)のにとぎれ、

       武士もののふが漕ぐ櫂は、美しき湖ウリン・ロッホの沈黙をやぶる。

       など皮舟カラフは群れ、押し寄せる。

       ヒースの野は朱に染まり、巨人オルトスはたおれる。


     射干玉の髪の乙女、いと深き水底に眠る。

     其の嘆きを、未だ、癒す者なし……





~第四章(5)へ~

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