第四章 失われた王国(4)
4
翌朝、辺りにたちこめた霧が消えてから、クルト達は移動を開始した。日没までに湾に近づこうと考えたのだ。明るい日差しの下で観ると、昨夜の花崗岩にはネルダエ独特のトリスケル(三本脚文様)や渦巻や月の文様が刻まれ、ヒースの中には崩れた建物の土台らしき石が散乱していた。クルトとライアンとレイヴンとフェルテジルは、荷を馬に載せてウリン湾を形成する半島へ向かった。
夕暮れ。ジギタリスの花のように鮮やかな紫の空に、銀の
(この辺りに人が住んでいなくてよかった。) と、クルトは考えた。知らない人が竜をみたら大騒ぎになるだろう。
シルヴィアは透明な翼を優雅におりたたみ、長い首をもちあげて月を示した。
〈月ノ道が開クハ、光ガうりんニ届ク間。ナガクハない故、心セヨ〉
「はい。分かりました」
クルトはうなずき、声に出して答えた。レイヴンも蒼ざめた顔でうなずいている。
クルトとレイヴンとライアンの三人は、
「寒くない?」
アゲイトは一瞬おどろいたように眼をみひらき、不敵に笑った。ライアンが感心した声音で教えてくれる。
「伝統的に、ネルダエの戦士は裸で戦うのだ。盾を持ち、剣ではなく槍を使う」
「槍を?」
「三人交代で馬に
過去にネルダエの人々と戦ったグレイヴ卿が言うのだから、そうなのだろう。クルトは従兄の姿から父を想像しようとしてみたが、難しかった。
アゲイトは再び
ライアンは湾の水を手ですくって口へ運び、顔をしかめた。
「真水ではないな。といって、海水よりはうすい。剣が錆びなければよいが」
「ここの水は、カロン川の支流と海水が混じった
レイヴンは革靴の先をちょこっと水につけて跳びさがった。
「ちべたい!……わたしはやはり、ここで待たせて頂きます」
くるりと
「貴公、クルトのためなら火のなか水のなか、と言ったではないか」
「言葉のあや、ですよう。だいいち、カラスは泳げません」
「貴公がウリン出身と聞いた以上、案内してもらわねば。それとも、ここで焼き鳥にされたいか」
「そんなあ~」
どこまで本気か分からない会話に笑いながら、クルトは先に歩いて行った。暗い水の中へ歩を進めると、ふいに体が深く沈んだ。
「クルト、待て! 一緒に行こう」
焦るクルトの腕を、ライアンが引いてくれる。立ち泳ぎで体勢をたてなおしていると、蒼白い光が現われて周囲を照らした。
レイヴンの片手がぼんやり輝いていた。光る石のような塊を持っている。〈妖精の灯〉に似たそれをひとつクルトに手渡し、片目を閉じた。
「たまには、わたしもお役に立つでしょう?」
「ありがとうございます」
ライアンの方は〈
「わっ!」
「レイヴン卿?」
今度はレイヴンが声をあげ、たぷんと沈んだ。ライアンが潜っておいかける。クルトも顔をつけて眼を凝らし……驚愕した。
濃紺の水のなか、幅のひろい海藻がもつれあって塊となり、黒い渦を成していた。渦の中心で紫紅色の
「レイヴン卿!」
クルトの
「た、たす……」
助けを呼ぼうとして空気を吐き、クルトはさらに苦しくなった。ライアンが片手でレイヴンを支えながら、もう一方の手で少年の腕を引き寄せる。クルトが無我夢中で蹴った足が水馬に当たり、ギギギキキィーッと錆びた
〈あげいとりくす。盾ノ
シルヴィアの涼やかな 《声》 が脳裡に響く。
アゲイトの盾から黄金の閃光が放たれ、水中をまひるのごとく照らしだした。クルトも目がくらんだが、水馬どもはギチギチと
クルトとレイヴン、アゲイトとライアンは、次々に水面にあがって息をついた。木の葉のように揺さぶられて 「ひいーっ、けふんけふん」 と
「剣は不要だな……」
波がおさまると、湾内はまた静かになった。水馬たちは退散したらしい。再び、シルヴィアの冷静な 《声》 が響いた。
〈盾ハ魔ノ者ヲシリゾケル。相手ニ敵意アルホド、ちからハ強クナル。心セヨ〉
「分かった、シルヴィア。ありがとう」
アゲイトが礼を言うと、竜は銀の頭をふって満月を示した。
〈道ガ開イタ。征クガヨイ〉
アゲイトはふかく息を吸い、盾を抱えて潜った。クルト、レイヴン、ライアンが続く。暗褐色の水中を盾の盛りあげ飾りとレイヴンの灯が照らす。湾のほぼ中央、水面から差しこむ月光が、彼らの行く手を示していた。
潮をふくむ夜風がヒースの野を撫で、さわさわと音を立てる。馬たちは〈
水竜はゆるゆる体をくねらせて水面を渡り、フェルテジルの待つ岸へ這いあがった。馬たちは彼女を警戒して距離をおいているが、逃げようとはしない。フェルテジルは、とぐろを巻く守護竜を仰ぎ見た。
「〈月の道〉が開いているうちに、戻って来られるでしょうか」
竜は澄んだ紫水晶の眸で彼を見下ろした。
〈うりんハ、影ノ王ニ閉ザサレテイル。
「そうですか……」
馬たちが鼻を鳴らし、〈
背の高い男だ。古びた毛織の
男の方から、懐かしげに声をかけてきた。
「お久しぶりです、シルヴィア。みえなくとも、貴女の存在は分かります。水竜が
〈あるとりくす……〉
シルヴィアが囁き、フェルテジルは息を呑んで立ち上がった。アルトリクスは葉擦れの音のする方へ顔を向けた。
「兄上?」
「……その声は、フェルテジルか」
アルトリクスのなめらかな声が、かすかに
「クルトもここにいるのか? 先ほど、私の盾が使われた気配があった」
「お久しぶりです、兄上。クルト公子は、グレイヴ卿とレイヴン卿とアゲイトとともに、ウリンへ向かいました。盾を使ったのは、アゲイトです」
「ライアンとレイヴン卿が?」
アルトリクスは面白そうに息を吐いて笑った。
「おおごとだな。では、盾はアゲイトを選んだのか。お前は代替わりを果たしたのか? フェルテジル。……訊きたいことがたくさんあるぞ」
「私もです」
兄弟が互いの距離を縮め、こわばっていた心をほぐしていると、シルヴィアが冷厳な声を投げかけた。
〈あるとりくす。汝……死ニカケテおるナ〉
アルトリクスは口を閉じた。フェルテジルはぎくりとして、竜と兄の顔を交互に見遣った。
アルトリクスはうっそりと
「はい。この傷と、十年に及ぶ放浪で、すっかり病んでしまいました。申し訳ございません、シルヴィア。本来なら、
〈構ワヌ。しるふぃーでニ、
「はい」
アルトリクスは身をかがめ、荷袋から竪琴をとりだした。樫の木の胴に白銀の弦がはってある。盲目の男はそれを胸に抱き、そっとかき鳴らした。澄んだ音が流れでる。
「
〈
シルヴィアはうっとりと眼を閉じ、満足げに呟いた。それから、改めてアルトリクスを見据える。
〈汝ガ心、
「はい……あの
アルトリクスは面を伏せ、ほっと溜息をついた。途端にこれまでの苦難と疲労が頬に表れ、全身が老けこんだように見え、フェルテジルは眉をひそめた。
「ようやく、セルマに逢いに行けます……。さて、貴女が降りて来られた理由は? シルヴィア。何事があったのですか?」
それで、フェルテジルは一連の事情を説明した。収穫祭のひと月前に〈影の王〉が現われ、クルト公子を攫おうとしたこと。レイヴン卿が王を阻止し、三年間の猶予をとりつけたこと。グレイヴ卿の小姓となった公子。アルトリクスの盾がアゲイトを選び、クルトはシルヴィアの指示で『失われた国』を目指したこと、などを――。
アルトリクスの表情は、目隠しのせいで分かりにくい。胡坐を組んで弟の話を聴きおえると、彼は静かに呟いた。
「三年か……。長いな。
「兄上、どうぞ」
フェルテジルは、温めた葡萄酒をいれた杯を、兄の手に握らせた。アルトリクスは迷いない仕草でそれを唇にあて、ひとくち飲んで息をついた。
「不意打ちを阻止して下さったレイヴン卿に、感謝しなければ。だが、私にとって三年は長い。こちらから仕掛けるか……」
「お待ちください。クルトに会って下さらないのですか? グレイヴ卿に」
アルトリクスがひとりごとのように言い、杯を置いて立ち上がったので、フェルテジルは慌てた。盲目の兄は寂しげに応えた。
「いま会えば、辛くなる。サウィン(新年の祭り)に気をつけるよう、クルトとライアンに伝えてくれ。幽界の門がひらき、〈影の王〉が活動をはじめる。
〈待テ、あるとりくす〉
一礼して退がろうとするアルトリクスを、シルヴィアが呼び止めた。水竜は平坦な口調で続けた。
〈一曲
これを聞くと、アルトリクスは微笑んで坐りなおし、竪琴を膝において手早く調弦した。深みのある声でうたいはじめる。鎮魂の
其は風神がはこぶ、
など
呼ぶ声は遠く、カルニュクス(戦闘ラッパ)の
など
ヒースの野は朱に染まり、巨人オルトスは
射干玉の髪の乙女、いと深き水底に眠る。
其の嘆きを、未だ、癒す者なし……
~第四章(5)へ~
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます