第一章 犠牲の子(6)
6
翌日の
ライアン自身もやや夢心地だった。昨夜、長年にわたる片想いをうちあけたところ、ティアナは戸惑いつつこう応えてくれたのだ。
『私もお慕いしています、グレイヴ卿。でも、あの子たちが成人したとき、私は既に三十歳をこえています。貴方にはもっと若い女性が相応しいのではありませんか』
この時点でライアンは舞い上がってしまい、あとは何を話したかよく憶えていない。十五年待ったのだから数年くらいどうということはない、だの、大公位に興味はないので御身ひとつで
(いかん、浮ついては。) ライアンは、ともすれば笑み崩れそうになる頬の筋肉をひきしめ、部下たちを見遣った。グレイヴ伯爵領への帰還をまえに、彼らはアルトリクスの盾を運び出していた。今は表に
クルトはさっそく荷づくりを開始した。着替えと練習用の木剣、本など、身のまわりの品をまとめて荷車に載せる作業を、侍女頭ゲルデが手伝っている。クレアとティアナは心配そうにその様子を見守っていたが、クルト本人はうきうきと歌いだしそうな表情だ。
家令のウォードと城付きの騎士たちが、鉄製の檻を載せた車を牽いてきた。中には両手両足を鎖で拘束された中年の男が二人、うずくまっている。ライアンは乾いた汗と汚物と血のにおいに顔をしかめつつ、ウォードに訊いた。
「何をした奴らだ?」
「強盗です」
ウォードもまた理知的な眼差しをくもらせ、薄汚れた虜囚を眺めた。
「喰いつめた流れ者が農家を襲い、女性と幼い子どもを殺害しました。金品と食糧を奪い酒を呑んでいたところへ亭主が帰宅したので、こちらへも暴行をくわえています。裁判は終わり、永久追放の判決が下されました」
凄惨な現場を想像して、ライアンは唸った。
「亭主は復讐をしなくてよいのか?」
「亭主は脚を斬られて重体です。弟の家に身を寄せており、復讐権を放棄するしかないと」
「気の毒に……。アイホルム大公は慈悲深きお方ゆえ、真面目に働く気さえあれば助けて下さったものを」
ライアンの言葉は、家族を殺され傷つけられた農夫にも、困窮から無道にはしった加害者にも向けられていた。檻のなかの男たちは項垂れ、ウォードは深くうなずいた。
「まったくです。ヒューゲル大公は、この者たちの身柄のひきとりを拒否なさいました。ティアナ様は火刑にするに忍びなく、追放にとどめると」
ヒューゲル大公はアイホルムと同格の五大公のひとりで、〈
「〈白の御方〉の情けが
「グレイヴ卿!」
クルトが駆けてきた。今日は動きやすい亜麻の若葉色の
「準備はできたか? クルト」
「はいっ」
声をはずませる少年に、いつもの病弱な雰囲気はなかった。晴れた夏空色の瞳をきらめかせ、期待と羨望に頬を上気させている。ライアンは彼の肩をぽんと叩いた。
「クルト」
ティアナ女大公がすすみでて、甥の肩にあたらしい毛織の
「伯爵家のみなさんの仰ることをよく聴くのですよ。立派な騎士になって帰っていらっしゃい」
ライアンには、ティアナが甥の衣に怪我や病気をしりぞける呪文を刺繍したことが分かった。敢えて『気をつけて』と言わなかった意図も。伯爵は彼女を安心させるべく声をかけた。
「サウィン(新年の祭り)には戻りますよ」
「よろしくお願いします、グレイヴ卿」
ティアナはゲルデに預けていた紫と金の布の包みをとり、彼の前にさしだした。ライアンは瞬きをくりかえした。
「剣帯です。〈
「私にですか」
ライアンは、頭の中の雲が
「光栄です。ありがとうございます」
可能なかぎり厳粛な態度でうけとると、ティアナは恥ずかしそうに微笑んだ。
「初めて織った柄でしたので、お気に召すかどうか……。次はもっと大きなものをご用意しますわ」
「たいせつにつかわせていただきます」
声がうわずりそうになるのを抑える。ライアンが際限なく崩れそうになる頬を引き締めていると、クレアと目があった。少女は片手で口元をおおい、けんめいに笑いを
従者のひとりが栗毛の去勢馬を引いてきて、公子の騎乗を助ける。ライアンは〈
「お前も来るのか?」
「連絡係ですよ」
青年は荷台の端にすわって片目を閉じ、
「なにかあれば飛んで戻って報せろと、御方さまのご指示です」
「それがいいな」
ライアンはうなずき、クレアの胸に抱かれた黒い仔犬がのほほんと欠伸しているのを見て、声をひそめた。
「あいつは来ないのか? クルトの見張りではないのか」
レイヴンはライアンの方へ身を傾け、小声で応えた。
「ブランとネルト(ライアンの猟犬)を警戒しているんですよ。それに、クルト坊が逃げれば、クレア嬢を身代わりにするつもりだから」
「嫌な奴だな」
言いつつも、(〈アドラーブルク〉について来たら、俺とブランで八つ裂きにしてやる。)と、ライアンは考えていた。殺気を感知したらしく『チビ』は彼から目をそらしている。
レイヴンは肩をすくめた。
「鴉ならともかく、性格のよい
「さりげなく売り込んだつもりだろうが、歓迎はしないからな」
(仕方がない。今は見逃すか。) ライアンは獲物をねらう猛禽の眼で仔犬を睨んでから、〈夜の風〉の首をめぐらせた。改めてティアナ女大公に一礼する。ティアナは頷き、クレアと並んで片手を挙げた。
「頑張ってね、クルト。いってらっしゃい!」
クレアの激励を受け、クルトは胸をはって馬をすすめた。騎り方は今もぎこちないが、将来への希望が少年の背を押している。
ライアンとクルトが先頭を行き、四頭の馬に騎乗した騎士たちが後に続く。ブランとネルトが跳ねるように駆け、アルトリクスの盾を積んだ荷車を先導する。荷車の後尾には囚人を護送する檻車が繋がれていた。従者たちに護られた一行が〈マオールブルク〉の跳ね橋を渡り、道を曲がって見えなくなるまで、ティアナ達はそこに佇んでいた。
クレアは手をおろすと、溜息をついて呟いた。
「いいなあ。わたしも行きたい」
城を出たい。鷹狩りや剣を習いたい。なにより、観たことのない広い世界を知りたい。――貴族の女子にはあるまじき願いだが、ティアナは姪を咎めなかった。ただ謎めいた微笑を浮かべ、少女の長い髪を撫でた。
「貴女にはここで出来ることがあるわ、クレア。クルトが
「えっ、そんなのがあるの? おばさま。教えて!」
好奇心旺盛な少女は、とたんに声をはずませた。ティアナ女大公は
仔犬はびくんと背筋を伸ばした。クレアは彼を抱えなおし、叔母の後を追いかけた。
緑の芝につどった人々がそれぞれの仕事に散っていくさまを、主塔の上から
~第二章(1)へ~
(注*)中世の欧州では、一日の中心的な食事(正餐)を午前中に食べ、夕方六時ごろに夕食を摂る一日二食が普通でした。正餐の時間は十四世紀ごろまでは午前九時、十七~十八世紀は午前十一時から十二時、十八世紀半ば以降は午後三時ごろ~夜になったそうです。
この作品では、午前九~十時ごろを正餐の時間としています。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます