第一章 犠牲の子(5)
5
振り返りざま身構えようとしたライアンは、お茶をこぼしかけて狼狽えた。むせる彼の足下で、たしなめる女性の声がした。
「もう、父さんったら。びっくりしているじゃない」
「何を言っとる。わしは挨拶をしただけじゃ」
「大丈夫ですか、グレイヴ卿。驚かせてごめんなさい」
ティアナに気遣われ、ライアンは口元をぬぐって坐りなおした。普段ほそい眼をこぼれ落ちんばかりに見開くと、ティアナの影に溶けるように佇む二匹がみえた。
まるい頭とまるい体は、もこもこした茶色い毛に包まれている。耳もまるく短く、つぶらな瞳は真っ黒だ。後脚で立つと背丈は人の幼児くらいで、小さな手を胸の前で組み合わせている姿には、なんとも言えない愛嬌があった。
ライアンはごくりと唾を飲み、掠れた声でささやいた。
「マ、マオール……ですか」
「おうよ。久しぶりじゃな、〈
「忘れたも何も、うちら、初対面でしょ。父さん」
「そうだったか? わしはよく知っておるんじゃがの」
先住民が〈
ティアナと二人きりだと思いこんでいたライアンは、見惚れていたという指摘に顔から火の出る心地がしたが、ティアナは冷静だった。
「初対面ですよ、ジョッソ。グレイヴ卿、ご紹介しますわ。〈山の民〉の長ジョッソと、娘のグウィンです。私にとっては家族のような存在です」
「……はあ」
「よろしくね、
よく観ると、ジョッソの毛皮は黒っぽくところどころ擦れて年齢を感じさせ、娘のグウィンは小柄で全体的に白っぽかった。グウィンの声が悪戯めいて聞こえたのは、笑っているかららしい。ジョッソはひくひく髭を揺らした。
「いい加減に呆けるのはよせ、〈鷲の子〉。おのれとて〈とりかえ子〉の片割れであろうが。ティアナはわしらにとって娘も同然ゆえ、相談にのっているのじゃ」
「〈影の王〉の件ですか」
ライアンが真顔に戻って訊ねると、ティアナは頷いた。ライアンは居ずまいを正し、冷めたお茶を口に運んだ。
ティアナは自分の茶器を両手でもち、長いまつ毛を伏せた。
「ウリンの最後の王ヴェルトリクスが〈影の王〉の前身です。クルトを地母神に捧げるというかの者の動機が、アイホルム一族への恨みなら……子孫が絶えるまでこの復讐は続くのでしょう。クルトだけでなく、クレアも危険です」
「わしらとて、ただでは済まぬ」
ジョッソが重々しく首を振った。表情は読みにくいが、先ほどより真剣な眼差しをライアンに向けている。
「〈
「グレイヴ卿。お願いしたいことがあります」
ティアナが抑えた声できりだし、ライアンは背筋をのばした。
「何ですか? 改まって」
「クルトを貴方の
ライアンは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。ティアナは思いつめた様子で続けた。
「騎士にして欲しいのです。ご指導下さいませんか?」
「はい。しかし……よいのですか?」
「私は、あの子を囲いすぎてしまいました」
ティアナは悲し気に眼を伏せた。
「怪我や病気を
「…………」
「それが出来ていれば、〈影の王〉に捕らわれなかったかもしれません。なにより、クルトは私の顔色を
「ティアナ様――御名を呼ぶおゆるしを。貴女はよくやっておられます。あの子達の母親として」
ライアンは、己を責める彼女の言葉をさえぎった。しかし、ティアナは静かにかぶりを振った。
「クルトに必要なのは、父親です」
ライアンは口を開け、閉じ、彼女の白い顔をみつめた。
「叱ったり冗談を言いあったり、遠慮なく相手をしてくれる大人の男性。尊敬できる同性の先輩が、クルトには必要なのです。私やウォードでは、その役目は果たせません。……グレイヴ卿、あの子に乗馬や鷹狩りを教えてやって下さい。剣と弓を。次に〈影の王〉とまみえたときには、戦えるように」
(クルト。叔母上は、ちゃんとお前の将来を考えて下さっている。お前の両親を虐げた祖母君(エウィン)より、はるかに賢明だ)――乗馬を習いたいと言っていた少年を胸のなかで祝福しつつ、ライアンは慎重に問い返した。
「よろしいのですか、本当に」
「三年間、城にとじこめておくわけにはいきません。それでは、あの子を守れない」
ライアンは頷き、深くこうべを垂れた。
「承りました。お預かりします。……こちらへ伺う際は、必ず連れて参りますよ」
ライアンが付け加えると、ティアナはほっと微笑んだ。
「よろしくお願いします、グレイヴ卿」
二人の話がひとだんらくついたところで、マオールの父娘が動いた。壁際の
ライアンは眼を瞠り、掠れた声をあげた。
「アルトリクスの盾ではありませんか!」
円とも
ティアナはおもむろに頷いた。
「アルトリクスが
「持ってみてよろしいか?」
ライアンはごくりと唾を飲んだ。許可を得て手を伸ばす彼に、ジョッソが注意を促す。
「
『大人の男が三人でやっと持ち上げられる』と称えられた魔法の盾のことを、知らぬライアンではない。成長した自分ならと考えたが、盾は絨毯に貼りついたように動かなかった。ライアンは歯を食いしばり、肩から上腕、胸にかけての筋肉を膨らませ、縁をわずかに動かしたが、長くもちこたえることは出来なかった。
「ふう!……何という重さだ。アルトリクスは片手で使っていたのに」
ライアンは尻もちをついて坐りこみ、手の甲で額の汗をぬぐった。自嘲気味に息を吐く彼を、グウィンがなだめる。
「アルトリクスにしか使えない魔法がかかっているからよ。腕力は関係ないわ」
ティアナがしなやかな手を伸ばして、盾の盛り上げ飾りを撫でた。
「セルマの
「待って下さい。では、アルトリクスは生きている?」
行方不明の友の生存を知り、ライアンは息を呑んだ。ティアナとジョッソとグウィンは、そろって頷いた。
「ええ。しかし、この盾はもう使えません。クルトとともに預かって下さい」
「えっ、いいのですか?」
「クルトが成長したら相応しい武器に打ちなおすようにと、アルトリクスの伝言です。本当は、彼が自分でそうしたかったのでしょうけれど」
ティアナはいちど言葉を切り、盾の面を眺めた。
「祭りにアゲイトが来てくれたら、託すつもりでした。急用ができたようですね」
「分かりました。こちらもお預かりします」
ライアンが右手の拳を左胸にあてて頷くと、ティアナは頬をゆるめた。
「すみません、面倒なことばかりお願いして」
「どうか謝らないでください。命じて下さればよいのですよ」
ライアンは
「実はもうひとつ、お願いしたいことがあります。グレイヴ卿」
「どうぞ、なんなりと」
「クレアを
「はあっ?」
ライアンは茶器を盆にもどすことを忘れ、まじまじとティアナを凝視した。女大公は動じなかった。
「クレアを貴方の妻にしていただきたいのです」
「……どうしてそういう話になるんですか。クレアはまだ十一歳ですよ」
「もちろん、実際の結婚はあの子が大人になってからです。今は婚約して下されば」
ティアナはライアンが動揺していることには気づいたが、その理由には思い至らなかった。
「クレアはあの通り気の強い娘です。よく知らない男性とは、うまくやっていけないでしょう。しかし貴方のことは慕っています」
「『おじさま』ですよ」
ライアンはぎこちなく唇をゆがめ、額にかかる髪をかきあげた。
「言葉どおりの意味で、結婚相手と思っているわけではない。むしろ、叔父のように信頼してくれているものを、裏切ることになりかねません」
ライアンは項垂れた。今度はティアナが口を閉じる番だった。
「
ライアンは普段の快活さとはうって変わった苦い声音で語り、ひろい肩を落としていた。心なしか体も小さくなったように見える。ティアナはほっと息を吐いた。
「『無理』ですか、グレイヴ卿」
「…………」
「そうですね、貴方にもクレアにも失礼でしたね。ごめんなさい。私の配慮が足りませんでした。クレアには、ほかの相手を探しましょう」
ライアンは首を振ったが、顔をあげることはなかった。沈黙が部屋をひたした。
グウィンは隣の父の肩にふれ、注意をひいた。ジョッソは娘の意図が分からなかったが、ぐいぐい押されて仕方なく体の向きをかえた。柱の影にある小さな扉をくぐり、二人を残して部屋を出る。
ティアナは二匹の動きに気づいていたが、それ以上にライアンの様子が気になった。彼はすっかり沈んだ口調で切りだした。
「……貴女はどうするおつもりなのですか? クルトを騎士にして大公を
「私は、セルマに呼ばれて戻ったのです。子ども達を育てるために。役目が終われば、
ティアナが囁き声で答えると、ライアンは面をあげた。濃い緑の瞳が、蝋燭の明かりをうけて金色にきらめく。すうっと息を吸い、ありったけの勇気をかきあつめた。
「私は――」
*
城壁の地下を通る〈
「気に入らん。まったく気に入らんぞ。あの
「マオールはマオールと、人は人と
父をなだめるグウィンの声には、あたたかな理解の響きがあった。
「うちは好きよ。あのひと、いい人だもの。
「
「あら。ティアナと番えば、もっとうちらを守ってくれるようになるじゃない。狐や狼や、猟犬からも。分からず屋の人間と、どっちがいい?」
「どっちも気に入らん! わしは認めんぞ!」
ジョッソは鼻息あらく宣言すると四つ足に戻り、短い尾をぷりぷり振って歩き出した。グウィンは軽く息を吐き、短い首をめぐらせて来た道をかえりみた。――彼女たちはティアナを赤ん坊の頃から知っていた。セルマとアルトリクスも、幼いころのライアンも。〈山の民〉の盟友たるかれらの幸福を願ってやまない。
(うちは好きよ、ライアン。頑張ってね。)
~第一章(6)へ~
(注*)マオール=マーモット。日本語では山岳天竺鼠ですが、南米産のモルモット(天竺鼠、齧歯目テンジクネズミ科テンジクネズミ属)ではなく、齧歯目リス科マーモット属でリスの仲間です。体長五十センチメートル前後、体重三~七キログラム前後で、アルプスやヒマラヤなどの山岳地帯に棲み、冬期は冬眠します(半年~九か月間)。
作品中では実際より大型に描写しています。
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