第一章 犠牲の子(3)
3
日が暮れて辺りが暗くなると、家令のウォードが鐘を鳴らし、人々は仕事をかたづけて
大広間の床に新しい
騎士たちは入浴を終え、こざっぱりとした衣装に着替えている。ライアンは癖のつよい赤毛を戦士らしく首の後ろでまとめ、襟と袖ぐりに
侍女頭のゲルデが
「グレイヴ伯爵と騎士の皆様の、ご健康と長寿を祝して」
ライアンは盃を受け取ると、ととのえた口髭をぬらさぬよう、ゆっくりと飲んだ。途中、初夏の新緑色の眸で少女をうかがい、悪戯っぽく笑う。クレアは吹き出しそうになるのをこらえながら、その様子を見守った。
ライアンが酒盃を干すと、クレアは拍手し、騎士たちは膝を叩いて
暖炉に最も近い席にティアナが坐り、その隣にクルト、ライアン、クレアの順で並んでいる。ティアナはライアンに微笑みかけた。
「相変わらず見事な飲みっぷりですね、グレイヴ卿」
「いや。三十を越えてから、段々きつくなっていますよ。次は手加減してください」
「まあ」
叔母が珍しく声をあげて笑ったので、クレアは嬉しくなった。ライアンの手元をのぞきこみ、
「おじさま。蜂蜜酒にベリーを入れたのは、わたしよ。どうだった?(注②)」
「ベリーを? どうりで、さわやかな味だと思った。
「よかった!」
料理人たちが焼いた鹿肉を運んできた。客人の前で切り分け、ローズマリーとサクランボのソースを添えて給仕する。ライアンは筋肉をそぎおとした鹿の脚の骨を取り、テーブルの下で待っている愛犬たちに与えた。二匹が噛りつく音を聞きながら、クレアは仔犬にも肉を食べさせようとした。
仔犬は少女の膝のうえで短い後脚をふんばり、テーブルに前脚をかけていた。小さな尾をぴこぴこ振って首をのばし、肉のにおいを嗅ぐ。しかし、ソースが気に入らないのか、食べようとはしなかった。
「欲しくないの? チビちゃん」
「チビというのが名前ですか?」
ライアンが右の眉をあげて問う。クレアは
「仮にそう呼んでいるだけ。クルトがつけてくれるのを待っているの」
「クレアがつけたらいいよ」
クルトは気乗りしない口調で答えた。テーブルマナーに自信がなく、姉と揃いの白い上衣を汚さずに食べようと苦心している。
「クレアに懐いているんだから……」
「だめよ、クルトが拾ったのだから。レイヴン卿が証人よ」
ライアンは腕をのばして少年にナイフの使い方を示しつつ、穏やかに言った。
「こいつは大きくなりますよ。『チビ』では済まなくなるから、考えた方がいいでしょう。名づけは魂を与えることです」
仔犬はちらと赤毛の伯爵を見たが、やはり食べようとはせず、クレアの手首の花輪にじゃれつき始めた。
ライアンはぐるりと室内をながめると、公子の頭ごしにティアナ女大公に話しかけた。
「そういえば、大ガラス卿は留守ですか? 姿をみかけませんが」
「日が暮れたから、間もなく帰ってくるでしょう。〈
「〈森の賢者〉を……。例の件で?」
「グレイヴ卿」
叔母が声をひそめたので、クルトは緊張した。切った肉をナイフにのせて口へ運びながら聞き耳をたてる。ティアナは蜂蜜酒を飲み、杯のなかの水面をみつめた。
「そのことについて、相談させてください。収穫祭のあとで……。しばらく城にいて下さるのでしょう?」
「ええまあ。そちらのご都合がよろしければ」
ライアンが家令を見ると、ウォードは承知しましたと言うように頭を下げた。ティアナはふわりと微笑んだ。
「今日はお疲れでしょうから、騎士のみなさんはお休みになって。鹿をありがとう、ごちそうさま」
ティアナが立つと、一同は女主人を見送るために立ち上がった。彼女が蝶の
食事が終わり食器が下げられ、長テーブルは片付けられた。騎士と城で働く者たちは、めいめい藁と毛織の布を重ねて寝床をつくりはじめた。クレアとクルトは、ライアンにフィヘル(チェスに似た盤上ゲーム)を教えてもらっていたが、夜が更けたので挨拶をして部屋にさがった。ライアンは二人を見送ると、愛犬たちの顎を撫で、
伯爵は厨房に寄って余り物のベーコンとチーズと白パンを手にいれると、木製の
らせん状に築かれた階段を慎重にのぼる。自分の
塔には、かつて二人の少女が暮らしていた部屋がある――セルマとティアナ、美しい双子の姉妹の。ティアナが〈
先代の大公妃エウィンが、この塔から身を投げたからだ。
頂上に近い部屋の扉の隙間から、やわらかな燈色の光が漏れている。ライアンは軽く肩をすくめると、杯をもつ手で扉を叩いた。返事を待たず扉を開ける。ライアンの足の間を小さな影が音もなくすりぬけ、寝台の下へ滑りこんだ。
室内は明るかった。暖炉では泥炭が燃え、数本の蝋燭が炎をあげている。書きもの机のうえで羽繕いをしていた
「〈
「今日の昼、お前の留守中にな。食べ物を持ってきたぞ」
「ありがたい! 空きっ腹なんですよ」
青年は伯爵の差し入れをうけとると、椅子の背にもたれて酒をのどに流しこみ、猪肉のベーコンを口に運んだ。眼を閉じてうっとりと味わう姿を、ライアンはしげしげと眺めた。
「以前から訊いてみたかったんだが。お前の本性は、カラスか人か?」
レイヴンは紫水晶の瞳をきらめかせ、愉快そうに唇を歪めた。
「そうですねえ。三百年くらい前は人だった気がしますが、鴉だったかもしれません」
「忘れているのか。それでいいのか」
「いいじゃありませんか、どっちでも。わたしはわたしですよ」
ライアンは呆れたが、レイヴンは澄まして答えた。パンをひとくち齧り、酒を飲んで満足の息を吐く。
「食べ物は人のものが好きですよ。やっぱり蜂蜜酒は最高ですねえ。こいつはベリー入りだ。御方さまの工夫かな?」
「クレアだ」
「嬢ちゃんは最近お菓子作りに凝っていますからね。収穫祭には梨のトルテ(タルト)を焼いてくれるそうで、楽しみです」
「……クレアはよいが、問題はクルトだ。〈影の王〉に
「はい」
レイヴンはすっと真顔になって頷いた。ライアンはぎりりと奥歯を噛み鳴らした。
「目的は何だ? 三年の期限を設けて、何をしようとしている」
「それを知るために、〈
「会えたのか? それと――」
答えようとするレイヴンを制して、ライアンは身をかがめた。寝台の下に片腕を突っこみ、隠れていた仔犬の首をつかんで引きずりだす。驚きもがく仔犬を、レイヴンの眼前にぶらさげた。
「こいつは何だ。監視役か?」
息を呑むレイヴンに、仔犬は深紅の口を開けて吼えかかった。
「離せ、キサマ!」
身をよじってライアンの手から逃れた仔犬は、一瞬で巨大化した。耳の内が朱に染まり、眸が緋色に燃えあがる。寝台に降りたつと体毛は白く変わり、青白い焔がその体をふちどった。
「
レイヴンは叫ぶと人型のまま窓枠まで飛びさがり、ライアンは愛剣〈
「
ライアンは身構えをとかず、横目でレイヴンを睨んだ。
「気づいていなかったのか。一か月も!」
「あー、えー、そうでしたっけ?」
「言っておくが、女大公は知っているぞ。最初に挨拶を済ませたからな」
魔犬はフンと鼻を鳴らし、ライアンは(やっぱりお前が間抜けなんじゃないか)と鴉をねめつけた。レイヴンは肩をすくめた。
ライアンは剣の切っ先をさげずに問いを重ねた。
「何故クレアに
「まさか」
魔犬は真っ赤な舌でくちの周りを舐めて嗤った。
「そこの屍肉あさりと一緒にするな、我らが喰らうのは魂だけよ、時には酒ももらうがな。〈
魔犬にこちらを襲う意図はないと察して、ライアンは剣を収めた。レイヴンは恐る恐る窓枠から降りてくる。ジジ……と音をたてて暖炉のなかの泥炭が崩れた。
魔犬は三角の耳をぴんとたて、ぶるんと首を振って髭を揺らした。
「三年後の王の迎えまで
「ただ見張るだけか。危害を加えたら承知せぬぞ」
威嚇するライアンに、魔犬はハッと嗤うような息を吐いた。
「人間とは違うからな、儂らは言ったことは守る。……キサマこそ、
「……あのう」
魔犬と大鷲、二匹の天敵におびえつつ、レイヴンが口を
「〈影の王〉の目的は、ウリンの復活ですか」
「復活?」
「さよう」
片眉を上げるライアン。魔犬は牙の隙間から言葉を吐いた。
「失われしウリンは、いまだあそこにある。キサマらが湾と呼ぶ
「
ライアンの唸り声に、魔犬は人さながら肩をすくめただけだった。レイヴンはぐいと蜂蜜酒を飲み、口調をととのえて続けた。
「〈
「クルトが何の役に立つ? 年端もゆかぬ子どもだぞ」
「ネイは産み育てる神ですが、死を好む神でもあります……。アイホルム家は、ウリンを滅ぼした一族の直系の子孫です。〈影の王〉に怨まれていても不思議ではありません」
「祖先の所業が子孫に祟るのか」
ライアンは片手で額をおさえ、やっていられないと首を振った。
「純粋な
「神々の意向など、儂の知ったことではない」
魔犬はあふっと欠伸をしてうそぶいた。大きな前脚を重ね、寝台の上に寝そべりながら。
「〈影の王〉然り。〈鷲の子〉の言うとおり、地母神が易々と人の言うなりになるとも思えぬ。儂は見張りを命じられたのみ。三年の猶予があるのだ、せいぜい足掻くのだな」
そう言うと、魔犬はするする縮んで元の耳の垂れた黒い仔犬に戻った。片方の後脚をあげて耳の後ろを掻く。
ライアンとレイヴンは半ば呆れつつ、互いの顔を見合わせた。
~第一章(4)へ~
(注①)フィクション上の演出です。お酒の一気飲みは、急性アルコール中毒を起こす危険がありますので、決して真似をしないで下さい。また、一気飲みの強要はハラスメントです。自主的にしようとする人がいた場合も、止めて下さい。
(注②)蜂蜜酒の自家醸造は、日本では酒造法で禁止されています。
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