第一章 犠牲の子(3)



          3


 日が暮れて辺りが暗くなると、家令のウォードが鐘を鳴らし、人々は仕事をかたづけて本丸キープに集まった。

 大広間の床に新しいわら藺草イグサが敷かれ、樫の板が架台にのせられて三本の長いテーブルになった。城主と身分の高い客人用のテーブルに、白い麻布がかぶせられる。侍女たちは灯心草の蝋燭ろうそくをともし、一人ひとりの席に木製の杯と椀とさじを置き、薄く切ったライ麦パンを並べた。それから全員の杯にエールを注ぎ、蜂蜜をかけて焼いたチーズとベーコンをパンにのせる。丸い白パンも配られた。料理人たちが湯気をたてている大鍋を運んできて、豚肉の団子と空豆のスープを椀に注いだ。長椅子ベンチに坐った衛兵と小姓たちがざわめくなか、ティアナ女大公とクレアとクルト、グレイヴ伯爵と騎士たちが入ってきた。

 騎士たちは入浴を終え、こざっぱりとした衣装に着替えている。ライアンは癖のつよい赤毛を戦士らしく首の後ろでまとめ、襟と袖ぐりに組紐くみひも模様をあしらった上質の亜麻布の上衣チュニックを着ていた。もつれた灰色の毛をもつ二匹の猟犬を従えている。長い金髪をふたつに編んだクレアは、耳の垂れた黒い仔犬を抱いてきて自分の椅子に乗せた。

 侍女頭のゲルデが蜂蜜酒ミードをふちまで満たした銀の大盃を運んできた。側面に牙をかかげた一角鯨が浮彫されている。クレアはそれを両手で捧げ持った。


「グレイヴ伯爵と騎士の皆様の、ご健康と長寿を祝して」


 ライアンは盃を受け取ると、ととのえた口髭をぬらさぬよう、ゆっくりと飲んだ。途中、初夏の新緑色の眸で少女をうかがい、悪戯っぽく笑う。クレアは吹き出しそうになるのをこらえながら、その様子を見守った。

 ライアンが酒盃を干すと、クレアは拍手し、騎士たちは膝を叩いてあるじたたえた。ティアナとクルト、ウォード達も拍手する(注①)。ライアンはお辞儀をして盃を少女に返し、侍女たちが騎士たちに蜂蜜酒を配り、食事が始まった。

 暖炉に最も近い席にティアナが坐り、その隣にクルト、ライアン、クレアの順で並んでいる。ティアナはライアンに微笑みかけた。


「相変わらず見事な飲みっぷりですね、グレイヴ卿」

「いや。三十を越えてから、段々きつくなっていますよ。次は手加減してください」

「まあ」


 叔母が珍しく声をあげて笑ったので、クレアは嬉しくなった。ライアンの手元をのぞきこみ、


「おじさま。蜂蜜酒にベリーを入れたのは、わたしよ。どうだった?(注②)」

「ベリーを? どうりで、さわやかな味だと思った。美味うまかったよ」

「よかった!」


 料理人たちが焼いた鹿肉を運んできた。客人の前で切り分け、ローズマリーとサクランボのソースを添えて給仕する。ライアンは筋肉をそぎおとした鹿の脚の骨を取り、テーブルの下で待っている愛犬たちに与えた。二匹が噛りつく音を聞きながら、クレアは仔犬にも肉を食べさせようとした。

 仔犬は少女の膝のうえで短い後脚をふんばり、テーブルに前脚をかけていた。小さな尾をぴこぴこ振って首をのばし、肉のにおいを嗅ぐ。しかし、ソースが気に入らないのか、食べようとはしなかった。


「欲しくないの? チビちゃん」

「チビというのが名前ですか?」


 ライアンが右の眉をあげて問う。クレアはかぶりを振った。


「仮にそう呼んでいるだけ。クルトがつけてくれるのを待っているの」

「クレアがつけたらいいよ」


 クルトは気乗りしない口調で答えた。テーブルマナーに自信がなく、姉と揃いの白い上衣を汚さずに食べようと苦心している。


「クレアに懐いているんだから……」

「だめよ、クルトが拾ったのだから。レイヴン卿が証人よ」


 ライアンは腕をのばして少年にナイフの使い方を示しつつ、穏やかに言った。


「こいつは大きくなりますよ。『チビ』では済まなくなるから、考えた方がいいでしょう。名づけは魂を与えることです」


 仔犬はちらと赤毛の伯爵を見たが、やはり食べようとはせず、クレアの手首の花輪にじゃれつき始めた。

 ライアンはぐるりと室内をながめると、公子の頭ごしにティアナ女大公に話しかけた。


「そういえば、大ガラス卿は留守ですか? 姿をみかけませんが」

「日が暮れたから、間もなく帰ってくるでしょう。〈森の賢者サルヴァン〉を探して下さるよう、お願いしたのです」

「〈森の賢者〉を……。例の件で?」

「グレイヴ卿」


 叔母が声をひそめたので、クルトは緊張した。切った肉をナイフにのせて口へ運びながら聞き耳をたてる。ティアナは蜂蜜酒を飲み、杯のなかの水面をみつめた。


「そのことについて、相談させてください。収穫祭のあとで……。しばらく城にいて下さるのでしょう?」

「ええまあ。そちらのご都合がよろしければ」


 ライアンが家令を見ると、ウォードは承知しましたと言うように頭を下げた。ティアナはふわりと微笑んだ。


「今日はお疲れでしょうから、騎士のみなさんはお休みになって。鹿をありがとう、ごちそうさま」


 ティアナが立つと、一同は女主人を見送るために立ち上がった。彼女が蝶のはねのような長い袖をひるがえし、侍女頭を従えて奥の部屋に入ると、再び談笑がはじまった。



 食事が終わり食器が下げられ、長テーブルは片付けられた。騎士と城で働く者たちは、めいめい藁と毛織の布を重ねて寝床をつくりはじめた。クレアとクルトは、ライアンにフィヘル(チェスに似た盤上ゲーム)を教えてもらっていたが、夜が更けたので挨拶をして部屋にさがった。ライアンは二人を見送ると、愛犬たちの顎を撫で、外衣マントを羽織って広間を出た。

 伯爵は厨房に寄って余り物のベーコンとチーズと白パンを手にいれると、木製のトレイにそれらをのせ、クレア特製の蜂蜜酒を入れた杯を手に主塔へ向かった。城の奥、地母ネイ神を祀る神殿だ。ところどころに点された小さな灯りを頼りに、素朴な木の扉を開け、古い石造りの塔に入る。

 らせん状に築かれた階段を慎重にのぼる。自分の革長靴ブーツの足音に、爪が石畳に当たるカチカチという小さな音が重なっていることに、ライアンは気づいた。クレアとともに寝たはずの仔犬が、後をつけているのだ。伯爵は大きな口の端をひいてにやりと嗤い、知らぬふりで歩き続けた。


 塔には、かつて二人の少女が暮らしていた部屋がある――セルマとティアナ、美しい双子の姉妹の。ティアナが〈山の民マオール〉の国へ送られた後は、セルマが一人で使っていた。セルマが結婚してからは、夫と子ども達(クレアとクルト)とともに。セルマが戦争で命を落とし、先代の大公夫婦が亡くなってからは、誰も住んでいない――はずだった。

 先代の大公妃エウィンが、この塔から身を投げたからだ。


 頂上に近い部屋の扉の隙間から、やわらかな燈色の光が漏れている。ライアンは軽く肩をすくめると、杯をもつ手で扉を叩いた。返事を待たず扉を開ける。ライアンの足の間を小さな影が音もなくすりぬけ、寝台の下へ滑りこんだ。

 室内は明るかった。暖炉では泥炭が燃え、数本の蝋燭が炎をあげている。書きもの机のうえで羽繕いをしていた大鴉オオカラスは、彼の気配にふりむくと同時に飛びあがり、歓声をあげた。


「〈大鷲アドラーの若殿〉ではありませんか。いらっしゃい。いつ城においでで?」

「今日の昼、お前の留守中にな。食べ物を持ってきたぞ」

「ありがたい! 空きっ腹なんですよ」


 青年は伯爵の差し入れをうけとると、椅子の背にもたれて酒をのどに流しこみ、猪肉のベーコンを口に運んだ。眼を閉じてうっとりと味わう姿を、ライアンはしげしげと眺めた。


「以前から訊いてみたかったんだが。お前の本性は、カラスか人か?」


 レイヴンは紫水晶の瞳をきらめかせ、愉快そうに唇を歪めた。


「そうですねえ。三百年くらい前は人だった気がしますが、鴉だったかもしれません」

「忘れているのか。それでいいのか」

「いいじゃありませんか、どっちでも。わたしはわたしですよ」


 ライアンは呆れたが、レイヴンは澄まして答えた。パンをひとくち齧り、酒を飲んで満足の息を吐く。


「食べ物は人のものが好きですよ。やっぱり蜂蜜酒は最高ですねえ。こいつはベリー入りだ。御方さまの工夫かな?」

「クレアだ」

「嬢ちゃんは最近お菓子作りに凝っていますからね。収穫祭には梨のトルテ(タルト)を焼いてくれるそうで、楽しみです」

「……クレアはよいが、問題はクルトだ。〈影の王〉にさらわれそうになっただと。ウリンの幽霊戦車シアヴルハルパトか」

「はい」


 レイヴンはすっと真顔になって頷いた。ライアンはぎりりと奥歯を噛み鳴らした。


「目的は何だ? 三年の期限を設けて、何をしようとしている」

「それを知るために、〈森の賢者サルヴァン〉を探しに行ったのです」

「会えたのか? それと――」

 答えようとするレイヴンを制して、ライアンは身をかがめた。寝台の下に片腕を突っこみ、隠れていた仔犬の首をつかんで引きずりだす。驚きもがく仔犬を、レイヴンの眼前にぶらさげた。

「こいつは何だ。監視役か?」


 息を呑むレイヴンに、仔犬は深紅の口を開けて吼えかかった。


「離せ、キサマ!」


 身をよじってライアンの手から逃れた仔犬は、一瞬で巨大化した。耳の内が朱に染まり、眸が緋色に燃えあがる。寝台に降りたつと体毛は白く変わり、青白い焔がその体をふちどった。


魔犬モーザ・ドゥーグ!」


 レイヴンは叫ぶと人型のまま窓枠まで飛びさがり、ライアンは愛剣〈輝ける鉤爪グレンツェン・クラオレ〉を抜いて身構えた。魔犬はぐるぐる喉の奥でうなり、人語を発した。


アドラー若雛ひよこが、見破るとはさすがだな。カラスが間抜けすぎるのか」


 ライアンは身構えをとかず、横目でレイヴンを睨んだ。


「気づいていなかったのか。一か月も!」

「あー、えー、そうでしたっけ?」

「言っておくが、女大公は知っているぞ。最初に挨拶を済ませたからな」


 魔犬はフンと鼻を鳴らし、ライアンは(やっぱりお前が間抜けなんじゃないか)と鴉をねめつけた。レイヴンは肩をすくめた。

 ライアンは剣の切っ先をさげずに問いを重ねた。


「何故クレアにく? 喰うつもりではなかろうな」

「まさか」

 魔犬は真っ赤な舌でくちの周りを舐めて嗤った。

「そこの屍肉あさりと一緒にするな、我らが喰らうのは魂だけよ、時には酒ももらうがな。〈山の民マオール〉の子らは加護が強い。見張っているだけだ」


 魔犬にこちらを襲う意図はないと察して、ライアンは剣を収めた。レイヴンは恐る恐る窓枠から降りてくる。ジジ……と音をたてて暖炉のなかの泥炭が崩れた。

 魔犬は三角の耳をぴんとたて、ぶるんと首を振って髭を揺らした。


「三年後の王の迎えまでにえに逃げられては困るゆえ、わしが目付を仰せつかった。王は男児をご所望だが、儂は娘の方が活きがよくて好きだな」

「ただ見張るだけか。危害を加えたら承知せぬぞ」


 威嚇するライアンに、魔犬はハッと嗤うような息を吐いた。


「人間とは違うからな、儂らは言ったことは守る。……キサマこそ、天空神セタム眷属けんぞくが、ずいぶんながくこの一族につきまとっているではないか。喰らうわけでもなかろうに」

「……あのう」


 魔犬と大鷲、二匹の天敵におびえつつ、レイヴンが口をはさんだ。上目づかいにライアンの機嫌をうかがい、魔犬に話かける。


「〈影の王〉の目的は、ウリンの復活ですか」

「復活?」

「さよう」

 片眉を上げるライアン。魔犬は牙の隙間から言葉を吐いた。


「失われしウリンは、いまだあそこにある。キサマらが湾と呼ぶロッホの底にな。現世うつしよ幽世かくりよの境にて、民は最期の日を繰り返している。王の願いは地母神の情けにすがり、民を救うこと」

地母神ネイへそにかけて。そんなことが可能なのか?」


 ライアンの唸り声に、魔犬は人さながら肩をすくめただけだった。レイヴンはぐいと蜂蜜酒を飲み、口調をととのえて続けた。


「〈森の賢者サルヴァン〉の話では、千年前、〈聖なる炎の岳〉から流れ出た火の川がウリン湖の基を創ったそうです。現在山は眠っていますが、今もその力はあります。よしんば噴火に至らずとも、大地を隆起させ古代の街をもちあげるのは不可能でないと」

「クルトが何の役に立つ? 年端もゆかぬ子どもだぞ」

「ネイは産み育てる神ですが、死を好む神でもあります……。アイホルム家は、ウリンを滅ぼした一族の直系の子孫です。〈影の王〉に怨まれていても不思議ではありません」

「祖先の所業が子孫に祟るのか」


 ライアンは片手で額をおさえ、やっていられないと首を振った。


「純粋な先住民ネルダエ(ネイ神の民)など殆ど残っていないぞ。ウリンの民も征服民フォルクメレと融和し、大公家の領民になっている。……〈炎の岳〉が動けば、この辺りの森と村はただでは済むまい。天空神セタムの翼にかけて、そんな乱暴なやり方があるか」

「神々の意向など、儂の知ったことではない」


 魔犬はあふっと欠伸をしてうそぶいた。大きな前脚を重ね、寝台の上に寝そべりながら。


「〈影の王〉然り。〈鷲の子〉の言うとおり、地母神が易々と人の言うなりになるとも思えぬ。儂は見張りを命じられたのみ。三年の猶予があるのだ、せいぜい足掻くのだな」


 そう言うと、魔犬はするする縮んで元の耳の垂れた黒い仔犬に戻った。片方の後脚をあげて耳の後ろを掻く。

 ライアンとレイヴンは半ば呆れつつ、互いの顔を見合わせた。





~第一章(4)へ~

(注①)フィクション上の演出です。お酒の一気飲みは、急性アルコール中毒を起こす危険がありますので、決して真似をしないで下さい。また、一気飲みの強要はハラスメントです。自主的にしようとする人がいた場合も、止めて下さい。

(注②)蜂蜜酒の自家醸造は、日本では酒造法で禁止されています。

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