第一章 犠牲の子
第一章 犠牲の子(1)
1
巣立ったばかりの燕の子が、親鳥とともに野原の上をかすめて飛んだ。
あれからクルトは高熱を発し、十日間は寝台を離れられなかった。肺炎をおこしていたとウォード(家令)は言う。月がひとめぐりしてようやく外出できるようになったので、アゲイトが見舞いにやってきたのだ。
クレアは白い
少女は夏空色の瞳を長いまつ毛にけぶらせ、花を編みながら訊ねた。
「どうして三年ぽっちなのよ。三十年くらい言えなかったの?」
「あのときは、クルト坊を助けるだけで精一杯だったんですよ」
「意気地なしね」
拗ねた口調で責められ、レイヴンは肩をすくめた。
「クレア。言葉が乱暴だよ」
容赦のない双子の姉を、クルトが小声でなだめる。少年は、肩と袖口に青い小鳥を刺繍した若草色の
「……賢明なる
つんと唇を尖らせるクレア。クルトはそっと溜息をついた。アゲイトは鹿革の
クレアの機嫌はなおらなかった。
「だいたい、何なのよ、その魔王。三年って、どういう基準?」
「異界と
「口約束が信用できるの?」
「かれらのような存在は己の言葉に縛られますので、三年と言った以上は待ちますよ」
レイヴンは濃紺の
「〈影の王〉は魔王ではありません。人であった頃の名はヴェルトリクス。『失われしウリン』の王です」
「ウリン?」
クレアは仔犬の首に花輪をあて、青い
「聞いたことがあるわ。大昔に海にしずんだ伝説の都よね」
「事実だ」
アゲイトがぼそりと言い、クルトは彼の日焼けした精悍な顔を見上げた。古き〈
レイヴンはやや大げさな身振りで腕をひろげ、北の方角を示した。
「今からおよそ四百年前。偉大なるネイ神(地母神)のしもべ、巨人オルトスの築いた水門に護られて、
「でも、もう死んでいるのでしょう?」
「王は死にきれなかったのです。ウリンの滅びの原因が、血を分けた娘であったために」
レイヴンは目を閉じ、片手を胸にあてる嘆きのしぐさをした。
「王のひとり娘が侵略者の男に恋をし、水門の鍵を渡してしまいました。水没するウリンから逃げる際、王は王女を助けたのですが、生き残った民に責められて自ら娘を手にかけました。王の魂は西方の地でやすらぐことができず、〈影の王〉となって現世との狭間をさまよっているのです」
「かわいそう……だからって、クルトを渡すわけにはいかないわ!」
クレアはしんみりしかけ、
「犠牲を捧げても、今さら民が生き返るわけではないでしょう。何故クルトなの? 止めさせる方法はないの?」
「話の通じる相手ではないので……。〈
「たおす? どうやって?」
クレアとレイヴンが話している間、クルトは木立の向こうを流れる川の水音に気をとられていた。アゲイトが冷静に声をかける。
「おれも調べておこう。ウリンのことも、親父たちが何か知っているかもしれない」
「ありがとう、アゲイト。
彼が馬の手綱を取るのをみて、クレアは立ち上がった。アゲイトは
「来るよ、必ず。クルトは病みあがりなんだから、疲れないうちに帰れよ。またな」
「うん……ありがとう。また」
クルトの反応は遅れたが、いつものこととてアゲイトは気にしなかった。鞍なしで颯爽と馬を操る従兄を、姉弟は羨望をこめて見送った。
レイヴンは肩をすくめた。
「わたしもお先に失礼して、〈
「お願いよ、レイヴン卿」
クレアは今度はていねいに応え、レイヴンは頷いた。項垂れるクルトの頭を軽く撫で、彼は外衣をひるがえした。途端に青年は消え、大きな黒い鳥が羽ばたいて二人の頭上をこえて行った。――知っていても、実際に目にすると驚かされる。少年と少女と護衛兵は、感心してその姿を見送った。
クレアはほっと息を吐くと、足もとの仔犬の上にかがみこみ、垂れた耳の下に花輪を結びつけようとした。仔犬は嫌がって暴れ、クレアは諦めて花輪を自分の手首につけた。少女が胸に抱き上げると、仔犬はおとなしくなった。
「大丈夫よ、クルト。みんながついているわ」
「うん」
弟が項垂れている理由を、クレアは不安からだと考えた。しかし、クルトにとっては戸惑いの方が大きい。〈影の王〉に捕らわれたというが、全く憶えていないのだ。
あの日、姉とアゲイトとともに渓流釣りへ出かけたことは憶えている。気がつくと城で寝ていた。熱と息苦しさと悪夢にうなされているうちに日が過ぎ、収穫祭の三日前になっていた。体はまだ本調子ではなく、少し歩くと息があがり、食べ物は胃につかえてしまう。犠牲にされると言われても、他人事のように実感がわかない。
クルトはクレアの抱く仔犬を、うらめしい気持ちで眺めた。自分が助けたらしいのだが、彼が寝こんでいる間はクレアが世話をしたので、仔犬はすっかり姉に懐いてしまった。今から友だちになれるだろうか……。
考えていると、少年の視界のすみで影が動いた。
「クレア。あれ」
「えっ?」
「あの人、目が見えていないんじゃないか?」
クレアは弟の視線の先を見遣り、感心して言った。
「あなたって、本当に目がいいわね、クルト」
それでも、羊歯をかきわけるのも
「ねえ、そこのあなた! そっちは危ないわよ」
岩場へ踏みこみかけていた人物は、少女の声に動きをとめた。長身の男だ。すりきれた毛織の
クルトは男の目隠しに驚いて立ちすくんだ。クレアは構わず、片腕に仔犬を抱き、もう一方の手を白い花の咲いているナナカマドの幹にあてて身をのりだした。
「こっちの方が登りやすいわ。いらっしゃい」
男は数秒ためらったのち、二人の方へやってきた。クレアとクルトは彼の手をとり、土手へ引き上げた。護衛の力を借りる必要はなかった。
この辺りでは見かけない人物だ。丈長の外衣は古いが上等なものらしく、頭巾の縁と前立てに色褪せた刺繍があった。荷袋は
男は二人の前に立つと、恐縮したようすで礼を述べた。
「助けて下さり、ありがとうございます。もしかして……ティアナ様、ですか?」
「おばさまを知っているの?」
クレアが訊き返すと、男の表情がやわらいだ。なめらかな声に安堵が交じる。
「ああ、公女さまですね。すると、こちらは公子さまですか? はじめまして。私はディブレアと申します」
「
不穏な響きに、姉と弟は顔を見合わせた。クレアは彼を頭のてっぺんから革靴の先まで眺めたのち、さらに訊いた。
「それは
「はい。ご要望があれば、
「すごい!」
ディブレアが優雅にお辞儀をしてみせると、クレアは歓声をあげた。クルトは警戒を解かなかった。痩せてはいるものの男は若く、体格がよく、張った
「どうして目隠ししているんですか?」
ディブレアは首をかしげて少年の言葉を吟味したのち、声をひそめた。
「見えないだけでなく、傷があるからです。ちょっと、ご婦人にはお目にかけられないくらいのね」
「……すみません、失礼しました」
クルトがはっとして謝ると、ディブレアは優しく微笑んだ。その表情を観たとき、クルトは彼を誰かに似ていると思ったが、その感覚は
クレアは仔犬を抱きなおし、うきうきと続けた。
「収穫祭に来たの? 〈マオールブルク〉(アイホルム大公家の城)へはいらっしゃる?」
「いいえ。残念ですが、先を急ぎます」
「そう。どこまで行くの? 戻ってくるのはいつ?」
好奇心旺盛な少女をかわすのは難しいと気づいたらしく、吟遊詩人は笑いだした。
「私は〈
詩人らしい応えにクレアは瞳を輝かせ、クルトは困惑した。〈幻影の湖〉 とシルフィーデ、ウリンと〈影の王〉といい、伝説の存在が近づいている。どうしてこんなことになったのだろう。
そのとき、森の澄んだ空気をふるわせて角笛の音が響いた。戦のはじまりではなく、狩りの成果を告げる音だ。誇らしげな響きに面を向け、ディブレアはつぶやいた。
「お客人がいらっしゃったようですね。賑やかなお祭りになることでしょう。では、公子さま、公女さま、お体を大切に。失礼いたします」
「あなたもね。道中のご無事を祈っているわ。帰ったら、旅のお話をきかせてちょうだい」
クレアの言葉に男は微笑み、クルトに一礼して歩み去った。木漏れ日にとけていく後姿を二人は見送った。
クレアは仔犬を地面におろし、弟を促した。
「ライアンおじさまだわ! 行きましょう、クルト」
二人と一匹は山道を駆けだし、葦毛の手綱をもった護衛があとに従った。
~第一章(2)へ~
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