第一章 犠牲の子

第一章 犠牲の子(1)



          1


 巣立ったばかりの燕の子が、親鳥とともに野原の上をかすめて飛んだ。

 カシの木に囲まれた日当たりのよい空き地ネメトンに、クルトとクレアは腰をおろしていた。アゲイトとレイヴンは立っている。木陰には護衛の兵士が控え、少年たちのってきた二頭の馬がのんびり草をんでいる。先月の嵐が嘘のような和やかさだ。

 あれからクルトは高熱を発し、十日間は寝台を離れられなかった。肺炎をおこしていたとウォード(家令)は言う。月がひとめぐりしてようやく外出できるようになったので、アゲイトが見舞いにやってきたのだ。

 クレアは白い亜麻リネン袖なし胴着シフトドレスの上に、青い透かし編みの上着を羽織っている。ひとつに編んだ金糸の髪は陽光を浴びて蜂蜜色に輝き、ミルク色の肌はほんのり紅色に染まっている。シャムロック(クローバー類の草)の花を摘む少女のかたわらには、夜色の長毛の仔犬がねそべり、彼女の革靴にじゃれかかっていた。

 少女は夏空色の瞳を長いまつ毛にけぶらせ、花を編みながら訊ねた。


「どうして三年ぽっちなのよ。三十年くらい言えなかったの?」

「あのときは、クルト坊を助けるだけで精一杯だったんですよ」

「意気地なしね」


 拗ねた口調で責められ、レイヴンは肩をすくめた。


「クレア。言葉が乱暴だよ」


 容赦のない双子の姉を、クルトが小声でなだめる。少年は、肩と袖口に青い小鳥を刺繍した若草色の上衣チュニックの下に、灰色の脚衣ズボンを穿いている。着衣と短い髪をのぞけば、繊細な顔のつくりも高い声も姉と同じだ。


「……賢明なる大鴉おおがらす卿におかれましては、是非ともその……と交渉し、弟に百年のよわいを勝ちとっていただきたく存じますわっ」


 つんと唇を尖らせるクレア。クルトはそっと溜息をついた。アゲイトは鹿革の上衣チュニックを着た胸のまえで腕を組み、ほつれかかる前髪ごしに彼女とレイヴンを見比べている。

 クレアの機嫌はなおらなかった。


「だいたい、何なのよ、その魔王。三年って、どういう基準?」

「異界と現世うつしよでは時のながれる速さが違うのです。わたしたちの三年は、かの者にとって三か月程度かと」

「口約束が信用できるの?」

「かれらのような存在は己の言葉に縛られますので、三年と言った以上は待ちますよ」


 レイヴンは濃紺の外衣マントの下で肩をすくめ、クルトに向き直った。


「〈影の王〉は魔王ではありません。人であった頃の名はヴェルトリクス。『失われしウリン』の王です」

「ウリン?」


 クレアは仔犬の首に花輪をあて、青いひとみをまばたかせた。


「聞いたことがあるわ。大昔に海にしずんだ伝説の都よね」

「事実だ」


 アゲイトがぼそりと言い、クルトは彼の日焼けした精悍な顔を見上げた。古き〈くろがねの民〉の族長の息子でもある従兄は、真摯なまなざしを返した。

 レイヴンはやや大げさな身振りで腕をひろげ、北の方角を示した。


「今からおよそ四百年前。偉大なるネイ神(地母神)のしもべ、巨人オルトスの築いた水門に護られて、麗しの湖ウリン・ロッホの中島で栄えていた国です。北方民が侵入してきた際、水門が開き、島もろとも海底に没しました。リー・ヴェルトリクスとわずかな民だけが生き残りました」


 征服者フォルクメレの子孫でもあるクレアとクルトは、居心地わるくなって身じろぎをした。クレアが口ごもる。


「でも、もう死んでいるのでしょう?」

「王は死にきれなかったのです。ウリンの滅びの原因が、血を分けた娘であったために」


 レイヴンは目を閉じ、片手を胸にあてる嘆きのしぐさをした。


「王のひとり娘が侵略者の男に恋をし、水門の鍵を渡してしまいました。水没するウリンから逃げる際、王は王女を助けたのですが、生き残った民に責められて自ら娘を手にかけました。王の魂は西方の地でやすらぐことができず、〈影の王〉となって現世との狭間をさまよっているのです」

「かわいそう……だからって、クルトを渡すわけにはいかないわ!」


 クレアはしんみりしかけ、かぶりを振って否定した。彼女の剣幕に驚いた仔犬が、きゃんと悲鳴をあげる。クルトは手をさしのべたが、仔犬は彼を避けてクレアの背後に隠れてしまい、少年は肩を落とした。


「犠牲を捧げても、今さら民が生き返るわけではないでしょう。何故クルトなの? 止めさせる方法はないの?」

「話の通じる相手ではないので……。〈闇の魔物スピナ・ドッホダス〉のように、たおすしかないかと」

「たおす? どうやって?」


 クレアとレイヴンが話している間、クルトは木立の向こうを流れる川の水音に気をとられていた。アゲイトが冷静に声をかける。


「おれも調べておこう。ウリンのことも、親父たちが何か知っているかもしれない」

「ありがとう、アゲイト。収穫祭ネワンには来られる?」


 彼が馬の手綱を取るのをみて、クレアは立ち上がった。アゲイトははがね色のつややかな毛並みの愛馬にまたがり、年下の従妹に微笑を向けた。


「来るよ、必ず。クルトは病みあがりなんだから、疲れないうちに帰れよ。またな」

「うん……ありがとう。また」


 クルトの反応は遅れたが、いつものこととてアゲイトは気にしなかった。鞍なしで颯爽と馬を操る従兄を、姉弟は羨望をこめて見送った。

 レイヴンは肩をすくめた。


「わたしもお先に失礼して、〈森の賢者サルヴァン〉を探しに行きます。〈白の御方〉に頼まれたのでね」

「お願いよ、レイヴン卿」


 クレアは今度はていねいに応え、レイヴンは頷いた。項垂れるクルトの頭を軽く撫で、彼は外衣をひるがえした。途端に青年は消え、大きな黒い鳥が羽ばたいて二人の頭上をこえて行った。――知っていても、実際に目にすると驚かされる。少年と少女と護衛兵は、感心してその姿を見送った。



 クレアはほっと息を吐くと、足もとの仔犬の上にかがみこみ、垂れた耳の下に花輪を結びつけようとした。仔犬は嫌がって暴れ、クレアは諦めて花輪を自分の手首につけた。少女が胸に抱き上げると、仔犬はおとなしくなった。


「大丈夫よ、クルト。みんながついているわ」

「うん」


 弟が項垂れている理由を、クレアは不安からだと考えた。しかし、クルトにとっては戸惑いの方が大きい。〈影の王〉に捕らわれたというが、全く憶えていないのだ。

 あの日、姉とアゲイトとともに渓流釣りへ出かけたことは憶えている。気がつくと城で寝ていた。熱と息苦しさと悪夢にうなされているうちに日が過ぎ、収穫祭の三日前になっていた。体はまだ本調子ではなく、少し歩くと息があがり、食べ物は胃につかえてしまう。犠牲にされると言われても、他人事のように実感がわかない。

 クルトはクレアの抱く仔犬を、うらめしい気持ちで眺めた。自分が助けたらしいのだが、彼が寝こんでいる間はクレアが世話をしたので、仔犬はすっかり姉に懐いてしまった。今から友だちになれるだろうか……。

 考えていると、少年の視界のすみで影が動いた。樫の輪ネメトンの外、ハシバミとトネリコの木立の向こう、ごつごつした岩の転がる河原をよろめきながら歩いている人がいる。クルトはつぶやいた。


「クレア。あれ」

「えっ?」

「あの人、目が見えていないんじゃないか?」


 クレアは弟の視線の先を見遣り、感心して言った。


「あなたって、本当に目がいいわね、クルト」


 それでも、羊歯をかきわけるのも躊躇ちゅうちょなく声をかけるのも、クレアが先なのだ。


「ねえ、そこのあなた! そっちは危ないわよ」


 岩場へ踏みこみかけていた人物は、少女の声に動きをとめた。長身の男だ。すりきれた毛織の外衣マントをはおり、左の脇に荷袋をかかえている。頭巾フードの奥の顔は頬がこけ、目には布が巻かれていた。

 クルトは男の目隠しに驚いて立ちすくんだ。クレアは構わず、片腕に仔犬を抱き、もう一方の手を白い花の咲いているナナカマドの幹にあてて身をのりだした。


「こっちの方が登りやすいわ。いらっしゃい」


 男は数秒ためらったのち、二人の方へやってきた。クレアとクルトは彼の手をとり、土手へ引き上げた。護衛の力を借りる必要はなかった。

 この辺りでは見かけない人物だ。丈長の外衣は古いが上等なものらしく、頭巾の縁と前立てに色褪せた刺繍があった。荷袋は竪琴リラ(七弦の竪琴)の形をしている。浅黒い肌に癖のある黒髪、骨ばった顎は不精髭におおわれ、目隠しには繊細な織り模様がはいっていた。

 男は二人の前に立つと、恐縮したようすで礼を述べた。


「助けて下さり、ありがとうございます。もしかして……ティアナ様、ですか?」

「おばさまを知っているの?」


 クレアが訊き返すと、男の表情がやわらいだ。なめらかな声に安堵が交じる。


「ああ、公女さまですね。すると、こちらは公子さまですか? はじめまして。私はディブレアと申します」

追放者ディブレア?」


 不穏な響きに、姉と弟は顔を見合わせた。クレアは彼を頭のてっぺんから革靴の先まで眺めたのち、さらに訊いた。


「それは竪琴リラ? あなた、吟遊詩人バルドなの?」

「はい。ご要望があれば、呪歌ガルドル哀悼歌キーンも、狂歌ドッガネル(囃子歌)もうたえます」

「すごい!」


 ディブレアが優雅にお辞儀をしてみせると、クレアは歓声をあげた。クルトは警戒を解かなかった。痩せてはいるものの男は若く、体格がよく、張った弓弦ゆづるのような気配を感じさせた。外衣の下に剣を隠しているかもしれない。


「どうして目隠ししているんですか?」


 ディブレアは首をかしげて少年の言葉を吟味したのち、声をひそめた。


「見えないだけでなく、傷があるからです。ちょっと、ご婦人にはお目にかけられないくらいのね」

「……すみません、失礼しました」


 クルトがはっとして謝ると、ディブレアは優しく微笑んだ。その表情を観たとき、クルトは彼を誰かに似ていると思ったが、その感覚はとらえる前に消えてしまった。

 クレアは仔犬を抱きなおし、うきうきと続けた。


「収穫祭に来たの? 〈マオールブルク〉(アイホルム大公家の城)へはいらっしゃる?」

「いいえ。残念ですが、先を急ぎます」

「そう。どこまで行くの? 戻ってくるのはいつ?」


 好奇心旺盛な少女をかわすのは難しいと気づいたらしく、吟遊詩人は笑いだした。


「私は〈幻影の湖ロッホ・ルネデス〉を探しているのです。そこに棲む大気の妖精シルフィーデに用があるのでね。可愛らしい公女さま、公子さま。帰って来たら、是非立ち寄らせて頂きますよ」


 詩人らしい応えにクレアは瞳を輝かせ、クルトは困惑した。〈幻影の湖〉 とシルフィーデ、ウリンと〈影の王〉といい、伝説の存在が近づいている。どうしてこんなことになったのだろう。

 そのとき、森の澄んだ空気をふるわせて角笛の音が響いた。戦のはじまりではなく、狩りの成果を告げる音だ。誇らしげな響きに面を向け、ディブレアはつぶやいた。


「お客人がいらっしゃったようですね。賑やかなお祭りになることでしょう。では、公子さま、公女さま、お体を大切に。失礼いたします」

「あなたもね。道中のご無事を祈っているわ。帰ったら、旅のお話をきかせてちょうだい」


 クレアの言葉に男は微笑み、クルトに一礼して歩み去った。木漏れ日にとけていく後姿を二人は見送った。

 クレアは仔犬を地面におろし、弟を促した。


「ライアンおじさまだわ! 行きましょう、クルト」


 二人と一匹は山道を駆けだし、葦毛の手綱をもった護衛があとに従った。






~第一章(2)へ~

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る