塔の上のレイヴン
石燈 梓
第一部 魔犬と少年
序章: 影の王
嵐が近づいていた。
海から偏西風が吹きつけるこの地方では、防風のため家々の西側に木が植えてある。長年の風雪におしまげられた木々は、ねじれた黒い腕を伸ばし、うめき声をあげていた。
刈りいれ前の麦畑は、夕日を浴びて金紫色に輝いている。まるく肥った実をつけた穂が、風にあおられて一斉に波うつ。大麦はザワザワ、小麦はサワサワと。うちよせる光の波間を、むらびとたちは飛ばされぬよう腰を屈め、ある者は鍬をかつぎ、ある者は牛を連れて家路をいそぐ。
畑の間の小道を、男がひとり歩いていた。
農村には似合わぬ華奢な男だ。濃い褐色の毛織の
道を護るために植えられた
風は警告の叫び声をあげながら、灰色の雨雲を運んできた。雲は陽光をさえぎり、次から次へと畑に巨大な影を落としていく。慌てて戸締りをするむらびと達を尻目に、男はうすい唇に微笑をうかべ、鼻歌でもうたいそうな気楽さで歩きつづけた。
風がごうと吼え、たてつけの悪い牛小屋の扉が悲鳴をあげた。農夫がつっかい棒をかませている。怯えた山羊が鳴き、鶏の羽ばたく音がした。さあっと潮の紗幕がとおりすぎたと思うと、ついに雨が降りはじめた。大粒のしずくが襟を打ち、焼けた土を叩いて埃をたてる。それまで悠然と歩いていた男だが、暗紫色の霧が流れてきて畑をおおうと、足を止めた。
西海からわき起こった雨雲が、ひくく雷鳴を
男は背をのばし、風に負けじと声をはりあげた。
「王よ! いまだ狩の季節にあらず。その子を何処へ連れて行くおつもりか?」
渦まく雲から、二頭の白馬のひく黄金の戦車と、幼な子を脇にかかえた〈影の王〉が姿をあらわした。魔犬の群れを従えている。王の体の輪郭は闇におおわれていたが、琥珀色の双眸がぎろりと男をにらんだ。
「レイヴンよ、王の狩を呼び止めるとは何事か」
「お待ち下さい。その子は〈白の
「いかにも」
遠雷のごとく、王は答えた。
「我らが忍従のときは永く過ぎた。もはや耐え忍ぶこと
黒い影が、はるかにそびえる雪峰を仰いだ。〈聖なる炎の岳〉の女神は、この千年ねむり続けている。
レイヴンと呼ばれた男は濡れ羽色の
群れの先頭の犬が彼の前にすすみでた。二歳の牛なみに巨大な犬だ。純白の毛は長く、尾は牛をつなぐ柱のごとく、大槍の穂のような耳の内は深紅で、瞳も燃える緋色をしている。たてがみには蒼白い焔がまといつき、ぼうと浮かびあがって見えた。
魔犬の長〈モーザ・ドゥーグ〉は牙をむいて威嚇した。
「どけ! 卑しいカラスめ」
「ちょお待ち! お待ち下さい。王よ、この十年、人間どもは平和を保っています。村人たちの暮らしは、いい感じに落ち着いています。彼らも貴方の民ではありませんか」
王は黙っていた。ふつふつと泡立つ闇から、少年の白い腕と金髪がのぞく。気を失っているのか、泣き声は聞こえない。レイヴンはごくりと唾を飲み、犬の吐く息の生臭さにひるみつつ訴えた。
「もう少しお待ち頂けませんか。わたしは今の人間どもとの暮らしを気に入っているんです。〈白の御方〉とその子にも、備えが必要です。どうか、お願いします」
〈影の王〉が不満げに思案している間、魔犬たちは牙を噛み鳴らし、よだれと鼻息を吹き散らした。レイヴンは顔をそむけたいと思いながら、我慢して待っていた。やがて、王はいまいましげな舌打ちとともに少年を投げてよこした。
痩せた子どもの体をうけとめきれず、レイヴンはよろめき、
「三年だ。そちらの時間で三年、待ってやる」
王はわれ鐘のような声で宣言して鞭をふった。レイヴンは少年を抱えて抗議の声をあげた。
「三年? ちょっ、短すぎやしませんか。せめて五年、いや十年」
とたんに魔犬の長が吼えかかったので、彼は少年もろとも木の根元にまろび落ちた。
王は戦車の向きをかえ、冷ややかに二人を見下ろした。
「三年経ったら迎えに行く。待っておれ」
ぴしりと鞭がひらめき、戦車は騒がしい音をたてて走り去った。魔犬たちがあとを追う。残されたレイヴンは、少年を膝にのせたまま呆然とそのさまを見送った。
雨はいまや
「クルト! 大丈夫か?」
少年は裸足で、白金色の髪も毛織の
「しっかりしてくれ。わたしの翼ではおまえを運べないんだぞ」
雨と風の叫びをぬって、馬蹄の音が近づいてきた。夜霧のなかでまたたく
「クルト! どこ?」
「クレア! ここだ! 助けてくれ!」
レイヴンがはっとして呼ぶと、蹄音が迫って鼻息と泥を跳ねあげた。少女の悲鳴に、変声したばかりの少年のかすれた声が重なった。
「クルト! レイヴン卿!」
「アゲイト! 良かった。手を貸してくれ」
葦毛の牝馬にはクルトそっくりの金髪の少女が
「クルトの馬か?」
問われて、アゲイトはこくんと頷いた。一瞬、唇の端をゆがめたのは、クルトがひとりではうまく馬に騎れないことを知っているからだ。黒曜石の瞳でレイヴンをみつめ、短く訊いた。
「あんたは?」
「この風では飛べない。騎せてくれ」
レイヴンは葦毛に駆けより、クレアの後ろに
四人を騎せた二頭の馬は、森のなかをひきかえした。鬱蒼としげるブナや杉の根元に領民たちが石畳を敷いた道を、二頭は雷鳴に追われてとぶように馳せた。
辺りはすっかり闇におおわれている。時折はしる稲妻が濡れた石畳に反射し、木々の姿を幽霊のように描きだす。クレアは葦毛の首にしがみつき、そのたびに悲鳴をあげた。
アイホルム大公家の城〈マオールブルク〉は、〈聖なる炎の岳〉の中腹にある。元は先住民が山の女神を祀るために建てた神殿を、北から来た征服者が居城として整備したのだ。〈炎の岳〉から北西にのびる丘陵のうえに、周囲を堀に、背面をきりたった崖に護られた石造りの城壁と塔がそびえている。そこに至る道は、旧い神殿の参道だ。二頭が木立を抜けると、灰紫色の雨雲におおわれた空を背景に、嵐に耐える狼のようにうずくまる城が現われた。
外出したまま帰ってこない公子たちを心配していたのだろう。跳ね橋はおろされ、門には松明が燃えていた。彼らをみとめた衛兵たちが口々に声をあげるなか、レイヴンとアゲイトは乗馬を内郭に騎り入れた。
家令のウォードが松明を手に出迎えた。白髪まじりの褐色の髪、灰色の瞳と銀の口髭をもつ謹厳な壮年の男だ。数人の侍女と下男を従えている。
「クレア様、クルト様! どうなさいました?」
「詳しい話は後だ。
レイヴンが叫ぶと、ウォードは蒼ざめつつも下男を報告に走らせた。侍女頭のゲルデがおおきな亜麻布をひろげ、葦毛から降りるクレア公女を抱きとめる。アゲイトは栗毛から降りると、炭袋のように軽々とクルトを背負い、ウォードについて大広間への階段を昇っていった。
クルトの意識は戻らない。血の気のない頬を従兄の肩にのせ、白い腕をだらりと垂らしている。
新鮮な
「クルト! クレア!」
「おばさま!」
クレアは侍女頭の腕をはなれ、彼女にしがみついた。母代わりとなって双子の姉弟を育ててきた女大公は、少女の凍えた頬を掌につつんだ。
「こんなに冷えて。何があったの? ……そっとおろしてね、アゲイト。ありがとう」
家令と侍女たちが樫の木のテーブルの上に乾いた藁と亜麻布を重ね、アゲイトはそこにクルトを寝かせた。女大公が甥の顔をのぞきこむ。アゲイトは少年の傍をはなれ、部屋の入口にさがった。
ティアナ女大公はクルトの髪を撫で、レイヴンに向き直った。
「貴方がついていながら。どういうことですの、レイヴン卿」
(ついていたんじゃありませんー。通りがかっただけですー) 胸のなかでぼやきつつ、レイヴンは説明を試みた。
「〈影の王〉が魔犬の群れを率いてあらわれ、クルト坊を攫おうとしたのです」
「〈影の王〉?」
ティアナ女大公は柳眉を寄せてつぶやいた。嵐とともに現われる幽霊の狩猟隊、魂を狩る〈夜の騎行〉は、真冬が多い。季節外れなだけでなく、クルトひとりを狙う理由が分からない。
レイヴンが続ける言葉を探していると、クルトの体を拭こうとした侍女が悲鳴をあげた。意識のない少年の
一同は息をのんだ。さては悪霊かと身構える大人たちの眼前で、上衣の襟を押しあげて、クンクン鳴くとがった鼻が現われた。
真っ黒な毛はぬれて痩せた体にはりついている。耳は木の葉のように垂れ、黒い瞳はおびえきっている。少年の衣から這いだした仔犬は、震えながら彼の肩によじのぼり、くしゅんと小さなくしゃみをした。
~第一章(1)へ~
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