<魔神降臨>

 ——


 完全封鎖されたヴィスィエーの町のすべての場所に、その威厳ある声が響き渡った。


「な、なんだ?」

「今のは、いったい?」


 町のほとんどの住人は、処刑を見物するために広場に集まっていたのだが、そうでなかったわずかな者にも、この声は、はっきりと届いていた。


「ばかな……こんな……今の声は、まさか神の……?」


 チェムノターは、目を剥いて、唇を震わせた。

 五人委員会の面々も、顔面蒼白となっている。


「チェムノター師、これはどういうことですか……?」

「まずいことが起きているのではないでしょうね?」

「吉兆だと、言ったではないか、チェムノター師!」


 チェムノターは答えることができない。

 そうしている間にも、ネクトーの身体には、地から湧き出した黒い雲がまとわりつき、鋼のような筋肉となって実体化していく。

 そのために、痩せぎすだったネクトーの身体は、厚みも大きさもみるみる増して膨れ上がり、まるでそこに漆黒の巨人が誕生したようだった。

 ネクトーが、四つん這いのまま、ゆっくり首をもたげた。


「ひいっ!」


 それを目にした者から恐怖の叫び声が上がった。

 ネクトーの髪は逆立ち、まなじりをあげたその双眸では赤い輝きが燃えていた。

 眉間のしわはふかく、大きく裂けた口からは、何本もの鋭い牙がのぞいている。

 目にした者が一瞬で魂を消しとばされるような、純粋な憤怒の表情がそこに顕れていた。


「ゴアアアアアアアアッ!!」


 ネクトーが吠えた。

 その漆黒の身体のあちこちでは、稲妻が、青白い蛇のようにまといついて光った。

 強烈な硫黄の臭いが、広場を満たしていく。

 少し前までネクトーだった何かが、ゆっくりと立ち上がる。


「うわーっ!」

「魔神、魔神だあれは!」

「どっ、どうしてこんなことに」

「本当に、あいつは邪神のしもべだったのか?」

「助けてくれ! おれは何も悪いことはしていない」


 恐れ戦く住民たち。

 しかし、彼らも既に断罪されているのだった。

 我先に広場から逃げ出し、あるものは町の外に出ようとするが、彼らのために扉が開くことはけしてなかった。


「衛兵、早く、あいつをなんとかするんだ!」


 市長ゼミニヤーが命令する。


「しっ、しかし……」


 衛兵も尻込みしている。


「市長命令だ! 攻撃しろ! 我々を護れ!」


 市長の叱責が飛ぶ。


「やああああああっ!」


 腰が引けながらも、職務に逆らえない衛兵が、槍を突き出して突撃する。


 ずぶり!


 魔神の身体に、槍が突き刺さった。

 それが魔神の血液なのだろうか、黄色いどろっとした液体が溢れ出て、魔神の足下に滴る。


「おおっ? 槍が刺さるぞ」

「よし、いけっ」

「おうっ!」


 攻撃が通ることに勇気づけられ、次々と槍を突き出す衛兵たち。

 たちまち何十本もの槍が、魔神の身体を突き通した。

 硫黄の臭いのする黄色い体液が、無数の傷口から噴き出す。


「うむ、やったか?」


 貴族アレクサンドルがほっとした声をだした。

 しかし


「ゴアアアアアアアアッ!!」


 魔神は叫び、身体を槍に突き刺されたまま、のしり、と歩くと、さきほど天秤の皿が地面に激突した衝撃で斜めに傾いてしまっていた、焚刑のための鉄柱を、片手でつかんだ。

 そのまま鉄柱を、ぐいっと引き抜いて持ち上げ、


 ブウウウウン!


 その豪腕で振り回した。

 太い鉄柱が、凄い速さで風を切って回り、まるで鞭のようにしなった。


「ぎゃあ——っ!」

「げえっ!」

「ぐはっ!」


 魔神に槍を刺して取り囲んでいた衛兵たちが、鉄柱の直撃をくらい、叩き潰されて吹き飛ぶ。

 魔神が、二回、三回と鉄柱を振り回すと、その攻撃の届く範囲に、命のある衛兵は、もはや一人もいなくなった。

 魔神の身体から、もはや使い手のいなくなった槍が、バラバラと抜け落ちる。

 何事もなかったかのように、魔神は歩き出した。


「ひいいっ!」

「無理、無理だっ!」


 魔神を遠巻きにして、攻撃に加わらなかったため、命を落とさずにすんだ衛兵は、みな、恐怖に駆られ、武器を捨てて逃げ出した。


「何をしておるッ! 馬鹿者、逃げるなっ!」


 警察長官ナシリエがわめくが、無駄だった。

 敬愛する女王奪還のために、命を捨てることも覚悟して死地に飛びこんだ獣人戦士たちとはちがい、衛兵たちには、この町の支配層に対するなんの敬意も、忠誠もなかった。


「逃げろ! あとは知ったことか!」


 みな、算を乱して、われさきに逃げ出していく。


「まっ、待てっ、お前らッ!」

「敵前逃亡は、重罪だぞ!」


 ゼミニヤーとナシリエの叱責もむなしい。


「チェムノター師、なんとかならないのか? パリャードさまの力で、この化け物を!」

「そうだ、善神パリャードさまに頼んでくれ!」


 アレクサンドル、ジャードニスがチェムノターに叫ぶ。


「むううっ!」


 チェムノターは、先ほどから、必死になって魔法の詠唱をしていた。

 チェムノター自身、優れた魔法の才能をもって生まれたのだ。

 その才能によって、パリャード教会に見いだされ、のし上がった。

 リツミエリは確かに天才であったが、チェムノターの才能も劣るものではなく、リツミエリの魔法印なども、いざとなれば自力で再現可能であると思っていた。

 その持って生まれた魔法の才能に、聖職者として、パリャード神の加護が加わり、チェムノターの魔法の力はさらに高められていた。チェムノター自身が、あらゆる魔法に通暁し、自分に使えぬ魔法はない、と自認するほどに。


 そのチェムノターが、今、全身全霊をつぎこみ、魔神を斃すために、魔法を詠唱していた。

 汗がだらだらと流れる。

 しかし——しかし、どうしたことなのか。

 まったく、魔法が発動しないのだった。

 防御の魔法も、攻撃の魔法も、すべての魔法がその力を発揮しない。

 魔力はある。

 この場に満ちる魔力は、したたるばかりに濃い。

 ところが、チェムノターがどれほど意志をふるっても、いっかな魔法が動かないのだ。

 パリャード神の助力も感じられない。


「パリャードさま、なぜですか!」


 チェムノターは、絶叫した。


「なぜ、あなたの加護がこないっ!」


 そのとき、チェムノターの脳裏に、獣人女王スヴェトラーナの、突き刺すような言葉が浮かんだのだ。


「汝の心に、まことの神はないぞ!」

「ばかなっ!」


 ネクトーの、あきれたような言葉も浮かんできた。


「あんた、根本的に、考え違いをしているようだな」

「ばかな、ばかな、ばかなーっ!」


 魔法が発動しそうもないのを見て取って、ゼミニヤー、ナシリエ、ジャードニス、アレクサンドルの四人は、チェムノターを見捨て、きびすをかえして逃げ出した。


「ど、どこへ逃げますか?」


 駆け出しながら、ナシリエが聞く。


「とにかく、ここから離れないと……」

「どこか安全な場所へ!」

「そうだ、町の外へ!」

「ヴィスィエーを、いったん捨てるのだ!」


 息を切らせながら走る四人。

 だが、


「ゴアアアアアアアアッ!」


 魔神が吠え、手にした鉄柱を、肩に担ぎ、ぐいっと後ろに引くと、まるで槍のように、目にもとまらぬ速さで投擲した。

 そして


「「「「ぎゃあっ!」」」」


 魔神の投げた鉄柱は、回転しながら神速で突進し、その鉤に四人を巻き込んで捕らえ、四人をひっかけたまま、ヴィスィエー商工会の正面扉に突き立った。

 扉を半ば突きとおし、斜めに突き立った鉄柱から、血まみれになった四人がぶら下がっている。


「助けてくれ……」

「苦しい…」

「ぐううう……」


 まだ息はあるようだ。彼らは苦痛に苛まれ、うめき声を上げていた。

 その姿は、生け贄そのものだった。

 これまで彼らが殺めてきた多くの無辜の命。

 今、報いを受けるときがきたようだ。

 一方、詠唱がすべて空しく虚空に消えて、力尽き、がっくりと膝を突いているチェムノターのもとに、魔神が近づいていく。

 チェムノターが顔を上げた。

 チェムノターは、虚ろな目で、近づく魔神を見上げていた。

 魔神の後ろには、完全に傾きを変えた巨大天秤がそびえたっていた。

 折れた教会の尖塔。

 崩れた庁舎。

 すべてが瓦解していく中で、チェムノターは、絞り出すように言葉を吐いた。

 チェムノターは、どうしても聞かずにはいられなかった。

 それは、ネクトーであった魔神にというより、その魔神の背後に在るなにものかに、尋ねたのだ。


「ひとつ……教えてほしい、あなたは、真実どちらの神なのですか……?!」


 憤怒の表情でチェムノターを見下ろす魔神の目の奥で、赤い炎が燃えている。


「あなたは、ネクトーをしもべとした、邪神ハーオスなのか、それとも、まさか……まさか?」


 魔神は応えず、チェムノターに覆いかぶさった。


 やがて、大地を埋め尽くすほどの、数限りない稲妻が天から下り、ヴィスィエーの町を覆った。


 この日、歴史あるヴィスィエーの町は滅んだ。

 町の中にいたヴィスィエーの住人は、だれ一人生き残らなかった。

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