<ネクトーの首>
「ええい、何をしておるッ! 獣人女王を逃すなっ!」
長官ナシリエが、あわてふためいて怒鳴る。
しかし、目の前で閉まった城門は、閂もさされていないのに、殺到した衛兵たちがどんなに力をいれても、なぜかピクリとも動かない。
ついには、大勢で扉に体当たりをしたが、それでもだめだった。
「だめです、まったく、開きません!」
衛兵が叫ぶ。
「そんな、ばかな……」
力なくつぶやくナシリエ。
実はこの時、町から外に出るための全ての門で、扉が同時に閉じていたのだ。
どの扉も、もはや決して開かず、この時点で町の中にいた者は一人残らず、ヴィスィエーに閉じこめられたのだった。
「くそっ! 女王が……そうだ、こちらの男は……」
ナシリエが広場に目を戻す。
ネクトーは、焚刑の鉄柱の脇で、衛兵の突き出した槍衾に取り囲まれていた。
もはや逃れるすべはなさそうだが、しかし、その表情には、退路を完全に断たれた緊張感など、どこにもなかった。
槍に囲まれても抵抗するでもなく、腕を組んで、にやにやと笑っている。
(なんなんだ、この男は?)
常軌を逸した不気味なものをチラリと感じたが、そんな不安を押さえつけ、ナシリエは命じた。
「その者をここに、連れてこい! 尋問する!」
槍に突かれて、ネクトーが連行される。
五人委員会が見下ろす前に立たされたネクトーの身体には、鋭い槍先につけられた傷がいくつもできて、そこから赤く血が流れていた。
「おいおい、ずいぶん乱暴だなあ」
しかし、あいかわらず、飄々としている。
「きさま、何者だ?」
ジャードニスが言う。
「ん…? おれか? おれは、どうも、ネクトーという者らしいぞ」
「らしい? なんだそれは!」
「いや、実のところ、おれにもよくわからなくてねえ、ハハハ」
ジャードニスは、かっとなって大声を上げた。
「何を言ってるんだ、きさまは! われらをバカにしておるのか?!」
ネクトーは頭をかきながら、悪びれもせず
「いやいや、おれは、ほんとうのことを言ってるんだがなあ……」
「お
と、声をかけたのは神官長チェムノターである。
「お主からは、なにか
その声には疑いが含まれていた。
「リツミエリをあのような目にあわせたのは、お主か?」
「あ? ああ、あの奴隷印の男か。あれをやったのは、おれじゃない」
チェムノターはうなずく。
「そうであろうな、お主のような……」
と、言いかけたチェムノターであったが、
「リツミエリは、その行いが神の怒りにふれたのさ」
サラリと言ったネクトーの言葉に、さっと厳しい顔になり、
「だまれ! お主のようなものが、神を語るなど不遜であろうが」
激しい口調で投げつけた。
しかしネクトーは、気にもとめず、続ける。
「神官長、あんたも分かっていたはずだ。あの男、リツミエリの意図は、神の禁忌にふれているのだ」
チェムノターは、ぎりっと歯がみし、ネクトーをにらんで、言った。
「お主……いったい何者なのだ?!」
ネクトーは、静かに言った。
「おれか? いいだろう、教えてやろう。おれは、正真正銘の、神のしもべ……、そう、邪神ハーオスのしもべなのだ」
「なにいっ!」
「なんだとおっ!」
「ばかなっ!」
「ふざけるなっ!」
五人委員会の面々が叫ぶ。
五人委員会がネクトーを尋問するさまを、固唾をのんで見ていた、ヴィスィエーの住民たちは、このネクトーのセリフを聞いて、失笑していた。
「ハハっ、言うに事欠いて、ハーオスのしもべだと」
「だからなんなんだ?」
「この町には、そんなやつ、いくらでもいるだろうよ」
「ヒヒ、実はこのおれさまだって、ハーオスさまのしもべだぞ」
などと嘲笑する。
だが、チェムノターだけは、厳しい顔をかえず、だまってネクトーを見つめている。
「チェムノターさんよ」
ネクトーが言う。
「あんた、天秤がうごくのが吉兆だと言ったらしいな。本当に、そう思っているのか?」
「当然だろう。……世界が、人族のもとで純化され、神の秩序が打ちたてられる、その
「ほう……秩序ねえ……」
ネクトーは、薄笑いを浮かべて
「だれが、それを言った。パリャードか?」
「きさまっ!!」
チェムノターは顔を真っ赤にして、叫んだ。
「不敬であろう! その言い
「さっき女王さまにも言われただろ、チェムノター、あんたは、根本的に考え違いをしているようだな……本気でそんなこと思っているのなら、パリャードも、今ごろきっと、天で泣いてるぞ」
「だまれえええええっ!」
神官長チェムノターは、壇上からとびおりると、衛兵の腰から剣をつかみ、振りあげた。
「あっ、チェムノターさまっ!」
市長ゼミニヤーが声をあげるが、チェムノターは止まらない。
「地獄に落ちよ、不敬者ネクトー!」
ザギッ!
チェムノターが力任せに振り下ろした大剣は、狙い過たず、無防備に立つネクトーの首を、完全に切断した。
切り離されたネクトーの首は、くるくると回転し、鮮血をまき散らしながら、高々と舞い上がった。
そして、なんの偶然か、広場の後ろにそびえる天秤の大皿に飛びこんだのだった。
まさに、これまで宙に浮いていた、左側の大皿の中に——。
ガラーン!
皿に落ちたネクトーの首は、まるでそれが、人ひとりの首なのではなくて、なにかとてつもなく重い何かのように、激しい音を立てた。
「おおっ! チェムノター様が、やった!」
そのさまを目撃したヴィスィエーの住民は、どっと歓声をあげ、手を叩き、笑い出した。
「ざまあない」
「なにがハーオスのしもべだ」
「あとは、あの獣人女を捕まえて、火あぶりだな」
「それそれ、身の程知らずの獣人にわからせてやらねばな」
チェムノター自身は、ネクトーの血に塗れた剣をぶら下げたまま、呆然としていた。
そのとき、ネクトーの首が入った、天秤の大皿が、ゆっくり下がり始めた。
「天秤が……動く」
チェムノターが、つぶやく。
傾き始めた天秤の動きは、次第にその速さを増した。
巨大天秤のバランスが、ついに、決定的に崩れていく。
そして
ズウウウウウウウン!
人の知る限り地に着いたことのなかった左の大皿が、今、大地に激突した!
その衝撃に、ヴィスィエーの町が、大地震の到来のように震える。
一部の建物は、その揺れにたえられず、がらがらと崩れた。
ひときわ高い教会の尖塔も、根本からポキリと折れて倒れ、あたりに瓦礫が散らばった。
商工会の屋根から瓦が落下する。
市庁舎の窓が砕けた。
焚刑の鉄柱も、大きく傾いてしまった。
「うわーっ?!」
「何が起きたんだ?!」
人々は悲鳴を上げて逃げ惑う。
そんな中、ネクトーの首が、大皿から飛び出した!
飛び出した生首は、うつろな目をしたまま、ごろごろと転がり、仰向けになって血を流して横たわっている、自分の身体に戻ってくる。
転がってきた首は元通りの位置におさまった。
首と身体が一つになる。
首がつながると、それまでうつろに見開いていたネクトーの瞼が、震えて、瞬きをした。
「ひっ、ひいっ!」
うろたえた衛兵が、いっせいに槍を突き出す。
横たわるネクトーの身体に、次々に槍が突き刺さる。
だが——。
「ギャアッ!」
ネクトーの体から稲妻のような光が放たれ、近づいていた衛兵がすべて、弾き飛ばされた。
弾き飛ばされた衛兵たちは、壊れた人形のように、ねじくれた形になり、もう動かない。
雲はいっそう分厚く垂れ込め、まだ昼前だと言うのに、もはや夕暮れのような暗さとなっている。
倒れたネクトーの周りに、何か黒く渦巻くものが湧き出し、その身体を覆いはじめた。
そして、恐るべき威圧を持った声が、雷のように、ヴィスィエーの町に轟きわたったのだ。
立て、ネクトー、わがしもべよ。
この町の命運は、今ここに尽きたり。
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