誘拐

 ヴィスィエーの歓楽街。

 もう夜も更けているが、人通りがとぎれることはない。

 あちこちから聞こえる、嬌声や、放歌、あるいは怒声。

 そんな通りを、でっぷり太った男が、歩いていた。

 そうとう酔っている。顔は赤く、足取りもおぼつかない。

 身なりはずいぶん良い。

 高価な装飾を、これみよがしに身につけている。かなりの金持ちのようだ。

 そんな金持ちが、歓楽街の夜道を、酔っ払って歩いて大丈夫なのか。

 しかし、男には危険を気にするそぶりはない。

 無防備に、治安の悪い夜の歓楽街をぶらついている。

 男がこうまで気ままにふるまえる理由――それは、この太った男に、ぴたりとつき従うものがいるからだ。

 獣人である。

 鋼のような筋肉に包まれたその身体は、人間をはるかに越える身体能力を持っている。

 獣人は、鋭い目で、男に危害を加える者がいないか、警戒を続けている。

 獣人の、むき出しの胸には、赤黒く光る魔法印があった。

 奴隷の印である。

 この獣人は、男の奴隷なのだ。

 それで、男が安心しきっているのも分かる。

 魔法印によって奴隷化された獣人は、自らの命を躊躇なく盾にして、主人を守る。

 主人の命令に背くことはけっしてできない。

 見るところ、この獣人はそうとうな手練れだ。

 たくましい身体にはいくつもの傷があり、歴戦の勇士であることを示している。

 このような獣人が、主人の命を守るために、絶対の忠誠を誓っている以上、たとえそれが、深夜の繁華街であろうと、男が危険な目に遭う可能性はほとんどないだろう。

 金持ちの男は、さらに、もう一人、奴隷を連れていた。

 こちらは若い獣人の女性である。

 獣人の女性には宝石で飾られた首輪がつけられ、編んだ革のリードが結びつけられていた。

 そのリードを、金持ちの男が握っているのだった。

 ときどき戯れに、男がリードをぐいと引く。

 獣人女性の喉が絞まり、苦しそうな悲鳴をあげて、倒れ伏す。

 ほとんどその身体を隠せないような衣装をきた、獣人女性の、露出した白い太股には、これも奴隷印が光っている。

 すれ違う人びとは、そんな獣人女性に好色な目をむけ、ひやかしの声をあげる。

 助けようとするものは、ここには一人もいない。

 欲望のままに、獣人女性に手を出そうとする者ならいるが、横にひかえる獣人戦士に、ギラリと鋭い目でにらまれ、その手を慌ててひっこめる。

 魔法による奴隷印がある以上、この獣人女性には、主人である太った男の意に反することは、何一つできない。

 したがって、逃亡することもありえないのだ。

 にもかかわらず、わざわざ首輪をつけ、リードをつないで、衆人環視の中を連れ歩いているところに、この男がどのような人間かが如実に現れている。


 ――つまり、こいつは最低のクズ野郎と言うことだ。

 こんなやつには、情け容赦無用だ。

 そして、獣人女性に同情の気配を全くみせることのない、繁華街を行き交う大勢の連中も、まったくの同罪である。


 太った男が、ふらりと、獣人戦士、そして獣人の娘とともに、人気のない路地にはいったところで、わたしたちは行動に出た。


「ん…?」


 路地の壁に向かって、だらしなく放尿していた男は、酔った目をしばたたき、路地の奥をみつめた。


「あ? ……だれだ、そこにいるのは?」


 路地の奥に立つ、小さな影。

 小さな影は、すっと、一歩前に進む。

 酒場の窓からもれる灯りが、その影を照らす。

 ほとんど子どもと言ってよい年齢だが、整ったその顔立ち。

 大きな目が美しい。


「おうおう、これはこれは……こんなところに、とびきりかわいい獣人の娘が」


 男の目が、娘を値踏みし、そして好色に光る。


「奴隷印がない。ということは、手つかずの……これは拾いものだの」


 男は、手招きをした。


「お前、悪いようにはしないから、こっちに来るのだ、さ、来い」


 娘は動かない。

 このとき、娘の姿をみとめた獣人戦士と獣人女性の目に、驚愕の色が浮かんだことに、男は気づかない。


((イリーナさま! なぜここに?))


 二人の獣人は心の中で叫んだ。


((われわれにかまわず、早く、お逃げください!))


 獣人の悲痛な心の叫びに気づくはずもなく、


「怖いのかのう? まあ、今さら逃げても無駄だけどの。フフフ」


 男は、卑しく笑った。


「返してもらう」


 と娘――イリーナが言った。


「はあ? なんだって?」


 イリーナは、凜とした声で繰り返した。


「同胞を返してもらう、と言ったのよ」

「なんだとお? おい、お前、さっさとこの娘を捕まえてこい」


 男が目配せし、男の意に反することのできない獣人女性が前に出る。


「お前も行け」


 男は、獣人戦士にも命令するが、獣人戦士はその場から離れない。


「おい、さっさと行かないか!」


 男がいらだった声をあげるが、戦士は逆の方向に身体を向けた。


「何をしている、逆らうつもりか!」


 怒鳴る男に、


「ばかだな、あんた」


 わたしは、路地の入り口を塞ぐように立ち、静かに声をかけた。


「なっ! なんだ、お前は?!」

「あんた、酔っ払って、ろくに頭がまわってないんだな。わたしから、あんたを守るために、この戦士ひとは動けないんだよ。なっ、そうだろ?」


 戦士は無言で、剣を構える。

 わたしも、自らの剣を抜き、構えをあわせた。


「くっ、さっさとそいつを始末しろっ!」


 太った男がさけび、同時に、戦士が神速の踏み込みで、真っ向からわたしに斬りつける!


 ガイン!!


 わたしの剣が、戦士の攻撃を受け止めるが、すごい衝撃だ。

 やはり、この戦士はかなりの手練れだ。

 全力でかからねば、こっちがやられる。


 ガイン! ガイン! ガイン!


 次々に繰り出される重い攻撃を、わたしは必死でかわしながら、


「おい、ネクトーっ、はやくなんとかしろよっ!」

「ん……」


 路地の暗闇から、ネクトーがふらりと現れた。


「わけのわからん命知らずが、また一人か……お前ら、そいつも片づけてしまえ。逃がすなよ」


 男が、二人に命ずる。

 命令を受けて、獣人女性と、戦士の奴隷印が光る。

 それを見た、ネクトーの目が赤い輝きを放った。

 ネクトーの表情から、人間的なものが、ふつりと落ちる。

 そして、その口から、存在の深みから響き渡るような、底知れぬ声がこぼれた。

 それはけしてネクトーのものではありえない。

 その場にいた者はすべて、自分という存在が、一吹きでかき消されそうな恐怖を感じたのだ。

 その声に含まれる御稜威みいつは、人間には持ち得ない。

 声は告げた。


 ――このさかしき印は、われら神の印にあらず

   


 ネクトーが、すっと両手を広げる。


 ゴフウッ!!


 その両の掌から、大きな力が放たれ、ネクトーに向かった獣人女性と、今まさに、わたしに渾身の一撃を放とうとした獣人戦士を直撃した!

 ふたりは、物も言わず、その場にばったりと倒れた。


「なにっ?!」


 太った男がうろたえた。

 しかし、すぐに二人の獣人が、むくりと立ち上がったのを見て、ほっとした声で


「よし、殺してもかまわんぞ、こいつらを始末するんだ」


 命令を下す。

 二人の獣人は、しかし、立ち上がると静かに歩き出し、男の前に立つ。


「なんだ? もたもたするな、さっさと――」


 ザグリ!


 獣人女性の腕が目にもとまらぬ速さで振り下ろされ、男の高価な衣装が、胸のあたりで裂けた。

 獣人の鋭い爪に切り裂かれた傷から、鮮血が噴き出す。


「ぎゃああっ!」


 男は叫び声をあげて、路上を転がった。


「どうして…どうしてだ?」


 うめく男に、わたしは教えてやった。


「あんた、よく見てみろ。このお二人には、もう奴隷印はない」

「なにっ? そんなことがあるはずが」


 男は、二人の身体から奴隷印が消失しているのに気づき、目を丸くして、悲鳴をあげた。


「ひいいいい! たっ、助けて! 誰か来てくれッ!」

「もう、うるさいなあ。お前、すこし黙ってろ」

「グェッ」


 わたしは、剣で峰打ちにして、男の意識を刈り取った。


「イリーナさま!」

「よくぞご無事で……」


 二人の獣人は、イリーナのところに駆けよる。

 イリーナは、いたわるように言った。


「二人とも……つらい目に遭ったわね。でも、もう、大丈夫。わたしたちには、ネクトーさまがおられる」


 獣人二人の目が、路地の壁にもたれて、ひとなつっこい笑いを浮かべているネクトーにそそがれた。


「「ネクトーさま?! まさか、ネクトーさまが、われらのもとに……」」


 あわてて、その場に深く跪く。


「いや、そういうのはいいって。さあ、さっさとずらかろうぜ」


 ネクトーが言う。


「なあ、戦士のあんた」

「おれの名は、グリゴリーです」

「そうか、グリゴリー、悪いが、その太いのを担いでくれるか」


 グリゴリーは、憎しみのこもった目で、倒れている男に吐き捨てた。


「こいつは、クジマって言うやつですよ。ヴィスィエーで十本の指に入る富豪です」

「なるほど。こいつからは、いろいろと有意義な話がきけそうじゃないか、なあ、みんな」


 グリゴリーは、意識のないクジマの巨体を、軽々と肩に背負った。

 そして、わたしたちは、闇に溶けるようにその場から撤退した。


 わたしたちが去った路地には、男の放尿の跡と、幾つかの血痕が残ったが、それはヴィスィエーの歓楽街ではありふれていて、目にしたとしても、今さら、だれも気にもとめないのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る