<天秤>

 ネクトーがヴィスィエーに現れ、イリーナ、ルキウスと出会った、翌朝。

 ヴィスィエーの住人は、その異変に気づく。

 いつものように家から出た一人の住人が、ふと視線をあげた。

 いぶかしげな目でみつめ、そして叫んだ。


「てっ、天秤がっ!」


 人びとは、空を見上げ、そして知った。

 ヴィスィエーの町の象徴である、巨大な天秤。

 記録に残る限り、常に傾き、片側の皿を地面につけていた、神々の天秤が——。

 今、その傾きを変えていた。

 それはわずかなものであったが、確かに天秤は位置を変えていたのだ。

 その証拠に、これまで地面に着いていた大きな皿が持ち上がり、大地との間に隙間ができていたのだった。

 皿が持ち上がったことで、これまで皿があった地面には、すり鉢のような深いくぼみができていた。

 やがて、好奇心の強い者、蛮勇を誇りたい者が、何人か、そのすり鉢のくぼみに降りていく。

 きょろきょろとあたりを見回し、皿を見上げ、声高になにか言いあっている。

 頭上を指さし、げらげらと笑っているものもいた。

 だが、多くの人びとは、その無謀な光景を遠巻きにして、


「これは、いったいどういうことだ!」

「こんなことは未だかつて聞いたためしがないぞ……」

「ひょっとして、なにか、良くないことがおこる先触れではないのか?」


 不安げに話し合う。


「みなの者、何を騒ぐのか! うろたえる必要はないのだぞ」


 そんな人びとを、強い口調で叱責した者がいる。


「これは、吉兆である!」


 そう、威厳のある声で告げたのは、パリャードの神官服に身を包んだ一人の男。


「ああ、チェムノターさま」


 パリャード教会ヴィスィエー支部の長である、チェムノター師は、集まった人びとを前に、


「恐れるな。すべては大神パリャード様の御心のままにある。さあ、みな、安心して、日々の暮らしに戻るが良かろう」


 チェムノター師は、人びとをうながすと、天秤のすぐ脇に建つ、パリャード教会の館に戻っていった。

 教会の門をくぐるチェムノター師を見送ったあと、人びとの集団も、ゆっくりと解散していく。

 それでも、天秤を、なんどもふりかえりつつ歩き出す。



「あっ!」


 誰かがまた、叫んだ。

 天秤が動いたのだ。

 持ち上がっていた皿が、ふたたび下がり、


 ズウウンン!


 もとの位置に戻った。

 皿の下に入りこんでいた者たち全員を、無造作に押しつぶして。

 人々は黙り込む。


 「……はたして、これでも、吉兆と言えるのだろうか?」


 みなの胸には、チェムノター師の自信ある言葉にもかかわらず、重いわだかまりが残ったのだった。

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