言い伝え
「さあ、どんどん食べようぜ」
わたしは、がつがつと食べ続けるネクトーの、底知れぬ食欲にあきれた。
「ネクトー、あんた、そうとうな大食だなあ」
「ん? ……おれは、いつでも無性に腹が減るんだよ。これも、あいつのせいかもなあ……」
「どういうことだ?」
「あいつの力を使うためには、体力が必要なのかも……」
そう言いながら、ネクトーは次のイゼ海老に手を伸ばそうとする。
「まて、ネクトー」
「なんだ?」
わたしは、別の皿をネクトーの前に置いた。
「これを食べてみろ」
わたしが、ネクトーに押し出した皿には、塩茹でにされた、正三角形の甲羅をもった生き物が載っている。ごつごつした三角の甲羅は紫色に染まっていた。三角形の三辺から、一本ずつ、太い鋏をもった腕が伸びて、甲羅の上で丸まっている。そして、甲羅の中心には、ギョロリとした大きな単眼があった。
「なんだこれは」
「ゲ蟹だ」
「うまいのか?」
「まあ、たべてみろ」
ネクトーは、手に取ると、ゲ蟹の甲羅をはがした。
下からたっぷりの黄色の蟹ミソがあらわれ、甲羅を取り巻く脚の根元には、みずみずしい赤い肉がつまっていた。
「肉に蟹ミソをつけて、食べるんだ」
「こうか」
ネクトーは言われたとおりに、ミソをつけた肉を口に含んだ。
その目が丸くなる。
「うまっ! なんだこりゃ!」
「いけるだろう、ゲ蟹はヴィスィエーの名産なんだぞ」
「そ、そうなのか! しまったあー!」
「なにがだ」
「そうとは知らず、イゼ海老ばかり食べちまった」
ネクトーの情けない顔に、わたしは笑った。
イリーナも微笑んだ。
「うまっ、うう、うますぎるぞ、これは!」
それから、ネクトーはとりつかれたようにゲ蟹を食べ続けた。
一心にゲ蟹を食べ続けるネクトーを見ながら、わたしはイリーナに声をかけた。
「イリーナ……」
「はい?」
ネクトーの健啖ぶりを楽しそうにみていたイリーナが、わたしに目を向ける。
「君たち、獣人のあいだには、ネクトーのことが知られているのか?」
イリーナはうなずく。
「それは、どんなふうに……?」
イリーナは、美しい声で、歌うように言った。
「ネクトーさまは大いなる神のしもべ。
その力、計り知れず。
獣人族に危機がせまるとき
いずこからともなく現れ
世界の天秤を動かす……」
「なんだって? 世界の天秤?」
天秤と言われ、このヴィスィエーの町にある、あのばかでかい天秤が頭に浮かんだのだが。
あれとなにか関係があるのか?
「どういう意味なんだい、それは?」
「……わかりません。そう言い伝えられているとしか……」
イリーナはそう答えた。
「そうか……ところで、その『神』とは、君たちの言い伝えではどうなっているんだい? それは、パリャードさまなのか、それとも、やっぱりあっちの……」
「いえ……わたしたちは、ただ『神』とだけ」
「そうなのか? しかし、善神と邪神では大きな違いがあるんでは」
イリーナは断言した。
「わたしたちは、神を分けて考えません」
「神を区別しない……」
そういう考え方もあるのか。
「おい、ネクトー」
「うまい、とんでもなくうまいぞ」
ネクトーの前には、すでに、山のようにゲ蟹の殻が積み上げられている。
「おい、ネクトー」
「ん……なんだ?」
「イリーナが言っていることはどうなんだ、あんたは獣人族のためにここに……?」
「わからん」
ネクトーは首を振った。
「おれには、正直なにもわからんのだ。だが……あいつが怒っているらしいことは確かだ。何に怒っているかはわからんが……。おれは、あいつのしもべだからな。せいぜい、走り回ってみるさ。これまでもそうだったが、おれが思うままに動き回ると、それであいつは満足するらしい。おれがじたばたしたことで、いったい何が解決したのか、なにが達成されたのか、さっぱりわからないこともよくあるんだよ。まあ、神の考えることは、しょせん人には計り知れないものかもしれんな」
わたしたちは、これからのことを相談した。
囚われていると思われる、女王スヴェトラーナを救わなければならない。
今、奴隷とされている獣人族を開放し、行方不明の獣人たちも見つけなければ。
そして、何者がこれを企んだのかを明らかにし、厳格な裁きを受けさせねばならない。
王の統べるこの地に、このような非道が許されてよいはずがないのだ。
そのためには――。
わたしたちは、とりあえずの計画をたてると、酒場を後にした。
開け放された酒場の戸口からは、明るい光がもれて夜道を照らしている。
酒場のなかに動くものは、何一つなかった。
朝が来て、近隣の人々が異常に気づくまで、ずっと。
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