イリーナの奴隷印
獣人族の子どもは、威儀を正し、言った。
「わたしの名は、イリーナ。獣人女王スヴェトラーナの血を継ぐものです」
その言葉と、強いまなざしには誇りがあった。
「なんと?!」
「こりゃあまた……」
わたしは驚いた。
それは、ネクトーも同じだ。
「お嬢ちゃん、あんた、獣人のお姫様だったのかい……」
そういって、天をあおいだ。
「ああ、きっとこれはまた、面倒な話になるぞ……」
獣人の国。
現在、王国の中に、獣人たちだけの領土があるわけではない。
過去には、独立した獣人国というものがこの地に存在した時代もあるのだが、長い歴史の結果として、今、獣人たちは王国の民となり、人族とまじって暮らしている。
人族の間に、獣人族に対する蔑視が今なお存在しているのは、否定できない事実だ。
王命により、公式には獣人差別は禁止されているが、悲しいかな、徹底されておらず、それは地方に行くほど、そうなのだ。
このヴィスィエーは、そんな中でも特に差別のひどい土地だと言われている。
そして、この町ヴィスィエーは、獣人に対する差別だけでなく、横行する法律破り、官民あげての賄賂などの腐敗、住民たちの道徳心の低下も嘆かわしい域に達している。
王都から離れた港町であることを悪用、海路をもちいて、王国では禁じられた物品の輸出や輸入、あるいは王国の犯罪者がまんまと国外に逃亡、逆に他国の好ましからぬ人物の密入国など、この地のよくない噂は絶えない。
信仰深き人々からは、いつか神の裁きが下るのではと憂う声もあるのだが、町の現状をみるに、それも
そして、そんな悪徳の町ヴィスィエーの獣人族は、女王スヴェトラーナのもとにかたくまとまり、けっして容易ではない生活の苦難に立ち向かっていると、わたしは聞いていた。
「そんなお姫様が、どうしてこんなことに?」
ネクトーが聞き、イリーナの表情が暗くなる。
瞑目し、
「わたしたちは……わたしたち獣人は」
閉じた瞼から、涙が溢れた。
「このままでは、この地から絶やされてしまうでしょう……」
「なにっ?!」
わたしの中に、理不尽に対する怒りが膨れ上がった。
「それは、いったいどういうことだ!」
思わず、大声がでる。
イリーナは悲しげに、わたしを見つめた。
「いや、まてよ?」
わたしは、記憶をふりかえり、今の今まで見逃していた、あることに気づいて、愕然としたのだ。
数日前にこのヴィスィエーに入ってから、わたしは任務に従い、情報を求めて街を歩き回った。
町で、獣人もみかけた。
だが——そうなのだ、今思い起こすと、わたしがこの地で目にした獣人は、すべてが、一人の例外もなく、奴隷だったのだ。
自由市民としての獣人を、わたしはこの町ヴィスィエーで、ただの一人も見ていない。
そんなばかな!
これは、あきらかにおかしい。
奴隷は、王国に制度として存在する。
だから、奴隷の身分に落ちた獣人がいること自体はおかしくない。
だが、全ての獣人が奴隷だなんてことはない。
わたしは自分のうかつさに腹が立った。
獣人の友だなんて口にしながら、こんな明白な事実に気がつかないなんて……。
イリーナは、わたしが理解したことをみてとって
「お気づきのとおりです。今、この町を自由に歩いている獣人はいません」
「なぜだ。なぜそんなことに……」
イリーナは首をふった。
「最初は、仲間がいつのまにか行方不明になるところから始まりました。なんの理由もなく、姿が見えなくなってしまうのです。家族や友人が必死に探しましたが、見つかりません」
絆の強い獣人たちにとって、それはひどくつらいことだっただろうな…。
わたしは彼らの気持ちをおもんばかった。
「そうこうするうちに、何人かは見つかったのですが」
「うむ」
「見つかった者たちは、みな、奴隷にされていました」
「なんだって?! かってに自由市民を奴隷にするなんて、そんなことは違法じゃないか」
「それが……」
イリーナはつらい表情で言った。
「奴隷にされた者たちには、みな、魔法による奴隷印がつけられていました」
「そんな……どうしてそんなことが?」
制度として奴隷にされる者には、奴隷としての印が魔術により刻印される。奴隷印にこめられた隷化の魔力が、奴隷にされた者が、その所有者に害をなすこと、所有者の意に反する行為をすることを禁じるのだ。
奴隷印を押すことは高度な魔術であり、それなりのスキルがなければできないし、また王国より正式な認可をうけた魔導師しか行ってはならないと定められている。
「どう考えても、不自然だ」
「母も、そのように警吏に訴えたのですが、正式な奴隷印であるからと相手にしてもらえませんでした……」
「いや、しかし、正式な奴隷印だとして、それを刻印した魔導師はわからないのか? 奴隷印を押す魔導師は登録されているはずだ」
「それさえも、教えてもらえないのです。印が正式なものである以上、なにも話す必要はない、と」
「くそっ!」
わたしは吐き捨てた。
ひどい話だ。
——獣人が奴隷になって、なにが問題なのか。
——むしろその方がいい。
——獣人は人族の奴隷であるのが正しい。
そう思っている連中がいるのだろう。
獣人たちの訴えは、意図的に、とりあってもらえなかったのだ。
「状況は悪くなる一方で、あるものはまったく帰って来ず、あるものは奴隷にされ、母スヴェトラーナは、無事な獣人族みんなでいったんこの町を離れることを考えていました。それはつらい決断でしたが……。あの日も、主だった仲間が集まって、脱出のだんどりを話し合っていたのですが――」
イリーナの話によると、獣人族が集まり、話し合っていたその場が、何者かの襲撃を受けたのだという。
強力な魔法による結界が彼らを包み、屈強な獣人戦士も動きがとれなくなったところに、武装した一団がなだれ込んできて、獣人たちはつぎつぎに捕らえられてしまった。
女王スヴェトラーナも、襲いかかってきた男たちに縛され、思わず駆けよったイリーナは、後ろからつよく殴られて、意識を失ってしまったのだという。
「そして気がついた時には、わたしはあの、カルという男の奴隷になっていました。母や、仲間たちがどうなってしまったのかも、まったく分からず」
その目に、再び涙が浮かぶ。
「わたしのこの手にも——」
その、白い小さな手をわたしたちに見せた。
手の甲には、魔術によって、無残にも刻まれた奴隷印が赤黒く光っていた。
「ネクトーさまが、カルを罰して塩にしてくださったので、幸いにも、わたしはカルによる支配からは逃れられました。こうして、いきさつをお二人に話すことができるのもそのためです」
たしかに、カルとの間で奴隷契約が結ばれている状態では、イリーナには、カルに不都合な事を話すこともできなかったのだ。
「だが、イリーナ、カルが死んだとしても、この奴隷印は」
わたしは、いいかけて口ごもった。
「そうです……」
イリーナは悲しげに
「消すことができません。あるいは、これを刻印した魔導師ならできるかもしれないのですが……」
「くそう! 許せんな!」
わたしは、唇をかんだ。
「お嬢ちゃん、ちょっと手を出してみてくれ」
と、ネクトーがひどく静かな声で言った。
「は、はい……」
イリーナは、おずおずとその手を差し出す。
わたしは、ネクトーを見た。
ネクトーの人なつっこい目が、その奴隷印をとらえ、そして、わたしは、ネクトーの目の奥で赤い光が燃えるのを見た。
ネクトーの表情は、かわっていた。
ひどく厳しい表情だ。それは怒りか?
しかし、不思議なのは、たしかにネクトーの顔には怒りが浮かんでいるようだが、その感情が、なぜか、ネクトーのものであるような気がしないのだ。
なんといったらいいのだろうか……まるで、ネクトーの後ろにいる誰か、あるいは何かから、その怒りが顕れているように思えるのだった。
そして、その怒りには、けして人間ごときが逆らってはならないような底知れぬ恐ろしさが感じられ、わたしは、思わず身震いした。
ネクトーの指の長い手が、そっとのばされて、イリーナの小さな手を覆った。
ゴアッ!
なにかとてつもなく大きな力が、ネクトーの手から放たれた。
イリーナの髪が、ふわりと逆立った。
ネクトーが、もとの人なつっこい目に戻り、その手をのけたとき、
「ああっ!」
イリーナが喜びの声を上げた。
イリーナの手の甲からは、奴隷印が完全に消えていた。
「なくなった。消えてしまった……」
わたしは目を丸くした。
「いや、そんなことが?」
前にも述べたように、奴隷印は高度な魔術であり、そうとうな魔力をもつ魔導師によって刻まれるものだ。
それを、刻んだ術者ではない他人が、こんなふうに、魔法の詠唱もなく、あっさりと、跡形もなく消してしまえるなんて……。
「ネクトー、あんた……」
ネクトーは、にやりとして
「なに、おれがやったわけじゃない。あいつだよ」
「あいつって……まさか?」
ネクトーはうなずく。
「そうだ。なんだか知らんが、相当怒ってたぞ、あいつ」
「そ、そうなのか」
「この奴隷印の存在をいっさい許さぬ、そんな意志を、おれは感じたね」
ネクトーの顔に、さきほど浮かんだあの怒りの源は——。
人が決してふれてはならない、神の怒りなのか?
なんと、おそろしい。
「ああ、ネクトーさま! ありがとうございます!」
歓喜して、イリーナが跪く。
「いや、お嬢ちゃん、それはいいから」
ネクトーは、イリーナをまた椅子に座らせると、
「これからどうするか、飯を食いながら、作戦をたてようぜ、なあ」
新しいイゼ海老にかぶりつきながら、そういうのだった。
またイゼ海老かよ。
ネクトー、あんた、どこまでイゼ海老が好きなんだよ……。
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