ためらいと信頼と

「よかったら、話してみないか?」


 と、ネクトーは言ったのだ。


「おれが、なんのためにこの町ヴィスィエーに放りこまれたのかが、それで分かるかもしれないからな……」

「ううむ……」


 わたしは、瞬時、ためらった。

 自分は邪神ハーオスのしもべだと公言し、そして記憶がまったくない、自分がどんな生まれ育ちなのかも分からないという、この初対面の男ネクトーに、わたしの正体を明かしても良いものか。

 そもそもこの男が、本当のことを話しているとも限らない。

 まっとうに考えたら、答えは明らかに、否だ。

 危険が大きすぎる。

 だが……。

 獣人の子どもに対するネクトーの態度が、わたしに、この男は、仲間とするに足る人物だと告げている。

 そしてなにより、そのひとなつっこい笑いに、わたしは惹かれてしまっていたのだ。


「ネクトー、わたしのことを話す前に、確認しておきたいことがあるんだが」

「ん? なんだい?」


 さらに次のイゼ海老を、もぐもぐと頬ばりながら、ネクトーが聞く。

 しかしこの男、イゼ海老がどこまで好きなんだ。


「その……あんた、ハーオスから、具体的な命令は受けてないんだな?」

「ああ、その通りだ」

「善良な人びとに害をなすようなことは……」

「ん……」


 ネクトーは、すこし考えて


「まあ、そういうことにはならんのではないかな、たぶん」

「たぶんか……」

「たぶんだ」


 そのとき、獣人の子どもが口を挟んだ。


「ありえません。ネクトー様が、そんなことをなさるはずがないのです」


 確信にみちた口調だった。

 この子どもはネクトーについて、なにかを知っているようだ。


「おいおい、こりゃあまた、おれも、ずいぶん買いかぶられたようだなあ……」


 ネクトーは、あきれ顔で言った。

 しかし、獣人の子どもの顔には、ネクトーに対する絶対の信頼があった。

 美しく輝く、その目。


「わかった」


 わたしも覚悟をきめた。


「話そう。わたしの名は、ルキウス・フレデリクス、王命をうけた秘密調査官だ」


 それを聞いて、獣人の子どもは、ぴくりと身体を硬くした。


「ほお、それはまたたいそうなご身分だな、あんた」


 ネクトーが言うが、嫌みはない。


「それで、秘密調査官ルキウスが、いったいこの町で何を探っているんだい? あんたのような優秀な武人が潜入するほどの、何があるんだ、このヴィスィエーに」

「わたしなんぞ、べつに優秀でもなんでもないが……」

「そんなことはない。その子を守る手並みはあざやかだったぞ。それに決断も速くて、確かだ。おれの頼みを即座に聞いてくれたじゃないか」

「やめてくれ」


 わたしは照れてしまった。そんなふうに言われることになれていない。


「それよりも、わたしの使命だ」

「うむ」

「この町で、王の御心に背くようななにかが起きているという情報が届いたのだ」

「謀反か?」

「いや、わからない。わたしは、あるいは邪神に関係することではないかと思っていたのだが……」


 ネクトーが、手を伸ばして、新しいイゼ海老の皿を引き寄せながら、指摘した。


「思っていたのだが……? 過去形だな」

「自信がなくなってしまったよ」

「そりゃ、どうしてだ」

「あんただ、ネクトー」

「ん? おれか? おれがどうした」

「あんたがもし、邪神のしもべだというのなら、邪神はそんなにひどい存在ではないのかも知れない」

「ふえぇっ?」


 ネクトーは、すっとんきょうな声をだし、そして、ゲラゲラ笑い出した。


「ハハハハ、こりゃあ可笑しい。おいおい、ルキウス、あんた自分が何を言ったのか分かってるのか? 今、たいへんなことを口にしちまったぞ、幸い、ここにはおれたちしかいないから、いいようなものの、だれかが聞いてでもいたら……」


 わたしは真面目な声で言った。


「ほんとうにそう思っているんだ、わたしは」


 ネクトーはまだ、その顔に笑いを浮かべたまま、


「ルキウス、あんたのような謹厳実直な武人にそんなふうに言われて、も目を丸くしてるんじゃないかな…ただ」


 その顔に真剣な表情を浮かべて、言った。


「あいつは……そんなに優しい存在じゃないぞ。その思考も感情も、おれたち人間に、はかりしれるものではない。油断すると、とんでもないことになるからな」


 そう告げるネクトーの目は暗かった。

 わたしはうなずいた。


「そうだな……だが、わたしは、ネクトー、まず、お前という人間を信じるよ」

「お前までかよ! だからおれを買いかぶるなって」

「てれるなよ、ネクトー」

「いや……で、ルキウス、あんたはこれからどうするつもりだ?」

「うむ……」


 実のところ、わたしにも、はっきりした当てがあるわけではなかったのだ。


「どこから手をつけたらいいものか……この酒場にいたのも、なにか噂でも聞けるかと考えてね。まあ、とりあえず、もう少し町を歩き回って、情報を集めてみようと思うんだが……」

「あの……」


 そこで、静かに話をきいていた獣人の子どもが、口を開いた。


「そのことで、わたしからお話できることがあるかもしれないんですが……」

「おっ?」

「なんだって?」


 わたしとネクトーは、おどろいて獣人の子どもを見つめた。

 あのカルとかいうやつに、ひどい扱いをうけ、身なりもみじめなものだし、顔も泥でよごれていたが、こうしてみると、顔立ちはととのい、そして言葉遣いもしっかりしており、育ちの良さがうかがえた。

 そんな子どもが、なぜあんなやつの奴隷に身を落としていたのか?


「よし、お嬢ちゃん、詳しい話をきかせてくれ。なあ、ルキウス」

「うむ、頼むよ、——ああ、そうだ、君はなんていう名前なんだい?」


 獣人の子どもは、姿勢をただすと、りんとした声で言った。


「わたしの名は、イリーナ。わたしは、獣人女王スヴェトラーナの王位継承権者です」

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