その男、ネクトー
わたしたちの卓の上には、だれもいなくなった酒場の、他の客の卓から集められた料理と酒が、所狭しと並べられている。
ネクトーの前には、焼きイゼ海老の皿がいくつもならんでいる。
ネクトーは、断ち割られた、真っ赤なイゼ海老の殻から、身をむしり取った。ぷりぷりした、その白い肉にかぶりつく。
「うん、これは絶品だ。このミソの部分をつかったソースもいい」
「まあ、ここヴィスィエーは港町だからな。たしかに、海産物はどれも新鮮でうまいよ」
わたしがいうと、ネクトーは顔をあげ、
「ん? つまり、おれがいるここはヴィスィエー、天秤の町なのか……?」
わたしはあきれた。
「おい、ネクトー、あんた自分がどこにいるのかもわからんのか?」
「うむ」
ネクトーは、あっけらかんとした顔で言った。
「そうなんだ、いつも、そんなふうだ」
「そんなばかな……」
と言いかけて、わたしは、ネクトーがここに現れた次第を思い出した。
そうだ、この男は、いきなり空中に出現したのだった。
ということは……。
「あんたは、だれかによって、行き先も教えられずに、魔法かなんかで送りこまれたってことか?」
ネクトーがうなずく。
「するどいな。まあ、そんなもんだ。ただ、あれは魔法じゃないけどな」
「いや、魔法だろう。でなきゃ、そんなことできないだろう」
わたしが言うと、それまで、串焼きのザンマ魚を、ひたすらかじっていた獣人の子どもが、
「それは神の力です。ネクトー様は、神のしもべであられるのです」
と言ったのだ。
「神だって?」
おもわず聞き返した。
そんなことが、はたしてあるものだろうか。
どう考えても、このネクトーという男には、聖職者の雰囲気はないのだが。
「まさか、ネクトー、あんた、そんななりをしているが、神官かなにかか? 善神パリャードさまのしもべなのか?」
「いや……ちがうよ。それにしてもうまいな、これ」
ネクトーは、二尾目のイゼ海老に取りかかっている。
どうもイゼ海老が好物のようだ。
わたしは、納得していった。
「うん、やっぱり、そうだよな。神のしもべだなんてな……そんなわけないよな」
「ん? おれが、違うと言ったのは、パリャードのしもべってところだぞ」
「えっ?」
「あんただから正直に言うが、この子のいうことは正しい。おれは、たしかに神のしもべだ。だが、その神はパリャードではなくて」
とんでもないことを口に出した。
「おれは、実のところ、あいつ、ハーオスのしもべなのさ」
「なにいいいいっ!」
わたしは思わず立ち上がった。
剣をにぎりしめる。
暴虐の邪神、口に出すのもためらわれるハーオス。
このネクトーは、その邪神ハーオスの手下だというのだ!
邪神ハーオスのしもべが、邪神の異常な力によって、この町ヴィスィエーに送りこまれた。
もしそれが本当なら、これこそ王国の秩序を揺るがすような重大事態ではないのか?
「何のためだ、何が目的だネクトー!」
わたしは口調を強めて詰問した。
「ことと次第によっては、わたしは!」
「おいおい、そんなに興奮するな。まあ、すわりなよ」
ネクトーはいたって平静だ。
その表情にはなんの敵意も害意もない。
そして、獣人の子どもも、ザンマをまたかじりなから、にこにこしてうなずいている。
獣人の子どもの目には、ネクトーにたいする崇拝の光がある。
そうだ。
このネクトーは、虐げられていた獣人の子どもを助けたのだ。
自らの服を着せてやって。
そして身体をはって、外に逃がした。
そんなネクトーが、邪悪な存在なんてことは、ありえるはずがないだろう。
「あ……そうか? そうだな」
わたしは、座り直した。
卓の上の、マザン酒のグラスをとりあげ、喉を潤す。
マザン酒がわたしの喉を通るとき、気泡がプツプツとはじけた。
「ふう、うまいな……」
そして、こころを落ち着けたわたしは、ネクトーの語る言葉に耳を傾けるのだった。
それは、信じられない話だったのだ。
——おれの名は、ネクトー。
だが、この名も、おれの本当の名前ではないかもしれん。
いや、そっちの可能性の方が高いな……。
おれは、自分がいったい何者なのか、全く記憶がないのだよ。
どこで生まれ、どうやって生きてきたのか、家族は居るのか、一切が分からない。
おれに分かるのは、今のおれが、いつからか、混沌の神ハーオスのしもべで、あいつの手の中で操られていると言うことだけだ。
といっても、あいつから、直接、何々をしろと命令をうけるわけじゃないんだ。
今日みたいに、ハーオスの力で、いきなりどこかに飛ばされてしまうんだ。
何の説明もなしだぞ。
ひどい話じゃないか。
飛ばされた先では、たいてい、なんだかしらんがたいへんなことになっていてな、それは戦いのさなかだったり、災厄のまっただ中だったり。しょうがないから、おれは、わけのわからないまま、そこで走り回るわけさ。
よくわからないが、そうやっておれがじたばたすることが、あいつの御心にかなうみたいだ。
なにが良いのかわからないが、なにしろ向こうは神さまだからな、なにか大きな計画というか、目的があるのかもしれんが、しょせん、人にはわからん。そのへんは、おれは達観しているよ。
だがなあ、なんでこんなことになってしまったんだろう。
ハーオスのしもべという、恐ろしい呪いをうけるような、なにかとんでもないことを、過去のおれはしてしまったのだろうか。
さっぱりわからない。
でも、おれはまだ、あきらめきってはいないんだ。
こうして
おれが誰なのか分かるときがくるかもしれない。
ひょっとしたら、おれに課せられた役割を果たし、ハーオスのしもべという任をとかれ、もとのおれの生活、……それがどんなものかわからないがな……に戻れる日がくるかもしれない。
その日がくるまで、おれはこうして、この世界を彷徨っているんだ——。
ネクトーの話をきいて、わたしは言葉を失った。
(なんという運命……)
ネクトーの言葉は重く、この話をしているあいだ、彼の人なつっこい目の奥には、深い悲しみが光っていたのだ。
わたしが黙りこんでいると、ネクトーは、ふわりと笑い
「ま、おれに関して言えば、そんなわけなんだ。で、どうなんだ、そちらは。武人のあんたと、獣人のお嬢ちゃん、あんたたちも、そうとうなわけありだと思うんだが?」
ネクトーは、三皿目のイゼ海老に手を出しながら、
「よかったら、話してみないか?」
と言った。
「まあ、無理にとは言わんが……」
獣人の子どもをみるその目は、やさしかった。
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