拝跪する獣人の娘

 いったい酒場の中では何が起きたのか。

 今、酒場からはなんの物音もしない。

 あの男はどうなった。

 まさか、狂戦士カルに斬られてしまったなんてことは?

 しかしそれにしては、あまりに静かすぎた。

 神経を張りつめながら、そっと扉を開けたわたしは、おどろきのあまり、目を見張った。


「これは、どうなっている……?」


 なんと、酒場の中には、だれもいなかったのだ。

 あの狂戦士カルも。

 店をうめていた、乱暴な酔客たちも。

 太った店主の姿もなかった。

 みな、消えてしまった。

 ただ一人、あの若い男をのぞいて。

 男は、騒動が起こる前にわたしが座っていたその卓に肘をついて座り、酒を飲んでいた。


「よう」


 男は、目を丸くしているわたしに


「悪いな、あんたの酒、勝手にいただいちまってるぜ」


 照れたように笑った。


「うまそうだったんでな、つい、な……」

「あ、ああ……それはかまわんが……」


 わたしは、あちこちに目をやりながら、中にふみこむ。


 ジャリッ


 わたしの靴が、なにかを踏んで音を立てた。

 靴の下でなにか固いものが砕ける感覚があった。

 下を見ると


「むう、これはなんだ?」


 白い粒が、酒場の床を埋め尽くしていた。

 前に、こんなものはなかった。

 わたしは、身をかがめて、一粒つまみとった。

 透きとおった、不揃いの結晶のような……。


「これは塩か? 岩塩のようだが……?」


 さっぱりわけがわからない。


「こわいっ」


 わたしの服をつかんで後からついてきた、獣人の子どもが、両耳を押さえた。


「どうした?」


 わたしが聞くと、


「声が……声が聞こえる」


 獣人の子が、唇を震わせていった。


「声だって?」

「ゆるして……たすけて……、そう言ってる」

「それは……?」

「ここにいた人たちの声、おおぜいの声が、塩の中から聞こえてくる」

「この塩の粒からか?」


 わたしは思わず、手にした岩塩の粒をとりおとした。

 獣人のするどい感覚が、わたしには聞こえないその声を聞き取ったのだろう。

 だが、いったいどういうことだ。

 あの連中が、この塩に変わったとでもいうのか。


「ありがとう、あんたが居てくれて助かったよ」


 男が、わたしに言う。


「まあ、ここに来て、酒でも飲まないか?」


 ふっと人なつっこく笑って


「おれの酒じゃないけどな、飲み放題だぜ。みんな、いなくなっちまったからな」

「あ、ああ……」


 いったいこの男は何者なのか。

 悪いやつではなさそうだが。


 わたしは、獣人の子どもの手を引き、男の座る卓に近づこうとした。

 しかし、獣人の子は、男をじっとみると、その目をかっと見開いた。

 獣人の耳がピンと立った。


「まさか……まさか……まさか?」


 震えだし、立ち止まってしまった。


「どうした?」


 わたしは、子どもを安心させようと


「大丈夫、この人は、いい人らしいぞ。心配するな」


 子どもは、首を横にふると、わたしの手を離し、ぱっとその場でひざまずいた。

 額を床に擦りつける。

 わたしはあっけにとられた。

 それはまるで、尊い存在に拝跪するかのようだった。

 たしかに、この男が突然現れなければ、この子どもは悲惨な目にあっていた。それは確かだが……。

 子どもは、わたしの知らない言葉を、まるで祈りの文句のようにつぶやいている。


「おいおい、なにしてんだよ」


 そういったのは、男だった。

 優しい声でいった。


「おれなんかに、そんなことする必要はないぞ。さ、こっちに来いよ。ろくなもん喰わせてもらってなかったんだろ? ごちそうが載ってる皿をあつめたから、三人でたらふくいただこうぜ」

「そんな……ネクトーさまに畏れ多いことは……」


 子どもは、そういわれても、なおもためらっている。

 わたしは、気がついて


 ネクトー?


「あんた、ネクトーっていうのか?」


 わたしが聞くと


「ん…?」


 男は、なぜか遠い目をして


「……ああ、そうだ。おれの名はネクトー、明日をも知れぬ彷徨さまよいびとさ」

「ああ、……ああ、やっぱり」


 獣人の子どもが、深くうなずいた。


「ネクトーさまが、降臨された。われらを苦難から救うために」


 そして、その美しい目から涙があふれるのだった。


「えっ、そうなのか?」


 おかしなことに、そういったのはネクトー本人だった。


「ええっ、ちがうのですか?」


 獣人の子も、ネクトーの反応に驚いている。

 わたしは、もとより話の展開についていけない。


「ネクトーとやら、これはいったいどういうことなんだ? わたしには何が何だか、さっぱりわからないのだが……」

「うーん……」


 ネクトーは、頬をぽりぽりかきながら


「これはちょっと、分かりにくい話なんだ。とにかく、二人ともここに座れよ。飯を食いながら、ゆっくり話そう。おれは腹が減っちまったよ」


 そういうネクトーの腹が、まさに、ぐうと大きく鳴った。

 それで、わたしと、獣人の娘子も、ようやく卓についたのだった。

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