非道の酒場 秘密調査官ルキウス
——くそっ、これは……ききしにまさる、ひどいところだ……!
わたしは、表情を殺して、歯がみした。
ここは、港湾都市ヴィスィエー。
港の荷下ろし場に近い、場末の酒場。
夜の歓楽を求めてやってきた雑多な男たちで賑わう酒場だ。
水ギセルからもうもうとタバコの煙がただよい、酒が酌み交わされ、そして給仕の女の嬌声がひびく。
そんな酒場の隅で
獣人の子どもが、粗暴な戦士にいたぶられているのだ。
大きな目の、顔立ちの整った獣人の女の子だった。
泥だらけのぼろをまとった、その子どもには、赤い首輪がつけられ、重そうな太い鎖につながれている。
その鎖の端を、酒に酔い、顔を赤らめた、筋骨たくましい戦士が握っている。
どうも、子どもは奴隷のようだった。
その小さな手の甲に、奴隷の証しである魔法印が
戦士が所有者なのだろう。
自分の奴隷をどのように扱おうとかまわないだろうという、そんな態度を、その男は隠そうともしない。
「この、クズがっ!」
男が鎖を力任せに引く。
「ぐぅっ!」
からだの小さな獣人のこどもは、宙を舞って、ごろごろと男の足下に転がった。
(こんな子どもに、ひどいことを……)
しかし、酒場に充ちているのは、哄笑と、はやし立てる声、そしてさらなる暴虐を期待する雰囲気ばかりである。
「こりゃあ、今日は面白いものが見られそうだ。あんた、ついてるな」
わたしの向かいに座っている男が、嬉しそうに言った。
「そうなのか?」
「ああ、
その目は、これから起こることへの期待に輝いている。
いたいけな子どもがこんなふうに扱われていることに、この男も、なんの痛痒も感じていないようだ。
「ふん、大枚はたいて手に入れてはみたが、クソの役にも立たんな!」
戦士が怒鳴りつける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
獣人の子どもは怯えた声であやまる。
「おい、カル、ちゃんと躾けてやった方がいいんじゃないか?」
と、どこかから下品な声がかかる。
「そうだ、獣人は、
別の席から、また、そんな声。
「そうだな」
カルと呼ばれたその戦士は、にやりと顔をゆがめ
「ちょっくら、わからせてやるか」
そういって、腰から小刀を手にとった。
するどい刃が、明かりに反射して、ギラリと光った。
「あちこち、刻んでやれば、ばかな獣人でも身にしみるだろうよ」
「うぅっ!」
獣人の子どもが身をすくませる。
その美しい目には、涙が光る。
どっと、酒場の客たちが笑う。
カウンターの向こうにいる太った店主も、とめるそぶりはない。
そして、何人かいた女給たちは、ここに至ってさすがに見ていられないのか、いつのまにか引っ込んでしまっていた。
だが、興奮した客たちはそんなことはもはや気にも留めず、カルの一挙手一投足に期待をこめて注目しているのだった。
くそっ!
どいつもこいつも、ひどすぎる!
とびこんで、助けるべきか?
わたしは葛藤した。
この子どもを救おうとすれば、おそらく酒場の客全員が敵にまわり、わたし一人でお相手をすることになるだろう。そもそも、奴隷の正当な所有者があの戦士なのだ。
まあ、しかし、そんなことは想定の内だ。
この程度の連中を恐れるわたしではない。
いくらかかってこられようと、全員を叩きのめし、制圧する能力がわたしにはある。
だが、問題は――わたしがここにいる理由なのだ。
実を言うと、このわたし、ルキウス・フレデリクスは、王に命じられ、この町ヴィスィエーを探るために潜入した、秘密調査官なのである。
近年、港町ヴィスィエーではなにか異常な事が起きている。
王の御心に背くようななにかが……。
そんな情報が寄せられ、秘密裏に調査せよという密命をおびて、わたしはこの街に来ているのだ。
この酒場にやってきたのも、情報収集のためである。
自分に課せられた任務を考えると、こんなところで大暴れして目立つわけにはいかない。
だが、このような非道を見逃していいものか?
世間には獣人に対する差別がないとはいえない。
しかし、それは間違いだ。
彼らは、わたしたちとともに、この世界に生きる、かけがえのない同胞なのだから。
わたしは戦場でお互いの命を預け、剣を並べて、共に戦うことで、それを学んだ。
獣人を人でないという
獣人を見下し虐げる、そのような風潮は、正されなければならないのだ。
だが、このままでは、あの獣人の子どもは――。
「おらッ」
カルが、獣人のこどもを引き寄せると、そのぼろぼろの着衣をはぎとった。
「いやっ!」
子どもは、背を丸め、うずくまる。
肉のほとんどついていない、子どもの白い背中があらわになる。
背骨に沿って金色のたてがみがあった。
だが、それだけではなく
(ひどいな……)
子どもの小さな背には、打たれた鞭のあとが赤く、いくつもついていて、どんな扱いをうけてきたのかが明らかだ。
「さあ、大人しくしてろよ……忘れられないようにしてやる」
カルが手にした小刀を、子どもの背に近づける。
子どもは、それでも抵抗しようとしたが、カルの太い片腕に押さえつけられ、身じろぎもできない。
ええぃ、くそっ、もう我慢できるものか!
これを見逃したら、わたしは自分が許せない。
わたしは、義憤に燃え、剣を構えてとびだそうとした。
そのときだ。
「おおっとぉ?」
いきなりだ。
いきなり、間の抜けた声がして、何の前触れもなく、酒場の中空に男の身体が出現したのだ。
その男は、驚いた表情のままに、落下した。
落下する男の足の下に、偶然にも、小刀を握ったカルの腕があり、
ザクリッ!
「ぎゃああっ?!」
カルが苦痛の叫びをあげた。
男がぶつかったため、方向がそれて、今、カル自身の太ももに、小刀が深々と突き立っていた。
みるみる血があふれ、カルの太ももが真っ赤に染まる。
酒場の客はみな、何が起こったのかわからず、唖然としている。
「ん? あー、悪い悪い」
男が、軽い口調で言った。
細身の、人懐っこい目をした、若い男だった。
革の袋を背負って、それ以外、武器のようなものはなにも身に着けていない。
男はまわりをぐるっと見回し、
「もう、こんどはどこなんだよ……」
とつぶやいた。
「お、おま、お前っ!」
カルが苦痛をこらえ、わめきながら起き上がる。
その手には大剣が握られている。
「お前、なにもんだ?! くそっ、ぶっ殺してやる!」
だが男は、焦る様子もない。
「悪かったが……みたところ、お前、自業自得というやつじゃないのか?」
度胸の据わったやつだ。
男の動じない様子に、さらに激高して、カルが吠える。
「おい、てめえ、ハーオスさまのしもべとして、その名の知れた
なんと、邪神ハーオスか!
苦痛と暴虐の神として悪名高く、災いを呼ぶからと、口に出すのもはばかられるその名、ハーオス。
たしかに、この狂戦士カルが、ハーオスのしもべだというなら、この非道さ、うなずける。
だが、男は意外な反応を示した。
「はあ? あんた、ハーオスの、あいつのしもべだってか?」
その顔にはなんの恐れもなく、そこに浮かんでいるのはおそらく、とんでもなくうんざりとした表情で。
「あーあ……またかよ……かんべんしてくれよ……」
そう言って、天を仰いだ。
かさにかかった狂戦士カルは
「へっ、どうだ、ハーオス様の名前に、すくんじまったか? そうさ、このカルさまは、ハーオス様の加護をうけている。どうだ、膝をついて、許しを乞うてみるか?」
「お前な……」
そんなカルに、男が冷たい声で言う。
「バカだな」
「ああっ?!」
「それに、嘘つきだ。お前は、あいつのしもべなんかじゃないし、たぶん狂戦士でもないだろう」
「ふざけるな!」
カルの顔は怒りに真っ赤に染まる。
大剣を持つ手が、ぶるぶると震えた。
男はそれにかまわず、ふっとわたしに顔を向ける。
見つめるわたしと、視線が合った。
男は、ふっと笑った。
「おい、あんた」
人懐っこい目で、男がわたしに声をかける。
「頼みがある」
「なんだ?」
「この子を連れて、酒場の外に出てくれ」
そういって、床にしゃがみこんだままの、半裸の子を抱き上げた。
なにをどうしたのか、首輪が外れ、鎖がじゃらんと床に落ちる。
「はだかじゃ、かわいそうだな」
男は自分の上着を脱ぐと、それで獣人の子どもを、そっとくるんだ。
「おおっ」
わたしは目を見張った。
服を脱いで、むきだしになった男の上半身には、いくつもの傷痕があった。
それも、どの傷一つとっても、十分に致命傷と思われるような、大きく深い傷跡ばかりで、こんな傷を負って人間が命を保てるとは、武人としてのわたしの経験から言って、とうてい思えない。
この男はいったいなにものだ?
「頼むよ、しばらく外に出て、その子を守っていてくれ」
「それだけでいいのか?」
わたしは言った。必要とあらば、ともに戦うつもりがあった。
「だいじょうぶだ、むしろ、中にいないほうが助かる」
その声は落ち着いていた。
武器一つ持っていないが、なにか秘策があるのだろう。
「わかった」
わたしはうなずく。
「この子は、まかせろ。わたしが必ず守る」
「おう。あんた、いいやつだな」
男は、また、にこりと笑った。
わたしも、その笑いにひきこまれ、おもわず頬がゆるんだ。
「てっ、てめえええええええ!!」
ようやく事態を把握したカルが叫ぶ。
わたしは、左腕で獣人の子を抱え、右手で剣を振り上げると、
「でぃゃあああああ!」
「ぎゃあっ!」
「ぐぇっ!」
「げはっ!」
邪魔をしようとする、カルと同罪の酔客どもを、情け容赦なく切り伏せながら、酒場の扉に突進した。
酒場を飛び出す寸前、ちらりとふりかえると、大剣を振り上げたカルが、男に切りかかるのが見えた。
男は無防備に、カルの前で両手を広げていたのだ。
あの男、だいじょうぶなのか?
いや、信じよう。
わたしは、外に出ると、追手がかからないように酒場の扉を蹴り飛ばして閉めた。
次の瞬間、
「ぎぃゃああああああああああ!」
ものすごい絶叫が、頑丈な扉をとおして漏れ聞こえた。
だれの声なのかわからない。
夜の闇がさらに暗くなったような気がした。
扉の隙間から、稲光のような輝きがなんどか漏れた。
扉がガタガタと揺れ、そして、静かになった。
「こわいよ、こわいよ」
その間、獣人の子はわたしにしがみついて震えていた。
しばらくそのままでいたが、酒場はしんと静まり返っている。
だれも出てこない。
入ってみるか?
わたしは、慎重に扉に近づく。
耳を当てて様子をうかがうが、やはり、何の物音もなかった。
人の話し声もしない。
わたしは、剣をかまえると、思い切って扉をあけた。
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