穢れ
あれから弥生の部屋から自室に戻った愛枝花は、風呂に入る準備を整えた。
身を
新築になってからというもの、
つまり、アレはおぞましい黒い悪魔ではない。
だが、愛枝花はそのうごめくモノの正体を知っているようで。
嫌そうに顔をしかめつつも、相手が形になるのを静かに待った。
『
うごうごと動いていたそれは、やがて小さな獣の姿になった。
愛らしさの欠片もない黒い
女神である愛枝花にはそんなモノにしか見えないそれを、冬の冴えざえとした月のような眼差しで見つめる。
そして、口に出す一言一言が身を凍らせるほどの冷たい声音でこう言った。
「
『申し訳ございません。ですが
愛枝花は
「力を失い、人の子よりも
『
「あやつの
『「獣たちの力強い
相も変わらずの言い回しに、愛枝花は思いきり顔をしかめる。
何千年の時が過ぎ、変わらぬ
今夜は、いつもと違っていた。
どうにも空気が騒がしい。
男が
『「どれだけの時が過ぎようとも、何が起ころうとも私の心は変わらない。けれどあなたの心も変わらない。時は満ちた、もう充分に待った。これ以上の時が過ぎることを、私は決して許さない」』
許さない。どの口がそれを言うのか。
勝手に期待して、勝手に待つと決めた者に応える
だが獣から発せられた相手の声からは、拒否を認めない絶対的支配者の
今の愛枝花では、無視ができない
それがもし本気になったのなら、愛枝花は女神を続けてはいられなくなるかもしれない。
対抗しようにも今のままでは力の面で圧倒的に不利であるし、元の力を取り戻そうにも時間が足りない。
わずかに緊張した様子を
『「あなたへの
「
「?!」
背後から聞こえたその声の主は、いつの間にか愛枝花のすぐ側にいて後ろから小さな獣を指でつまみ持ち上げた。
いつものおちゃらけた
うなり声を上げる前に、愛枝花は片手でそれを制した。
「やめよ。お前が触れれば身の
「こんなチビが?」
「小さくとも穢れが
「しゅ?」
「
「大丈夫だって」
そう言いつつも、獣を部屋の外に放り投げつまんでいた自身の指をもう片方の手で押さえている。
肉が焼けるような臭いが愛枝花の
飲み水に愛枝花の涙を
「『
すると、焼け
むしろ前の荒れた手より綺麗になっている。
これは愛枝花の女神としての能力で、以前は涙と水の
今ではほぼ使えなくなっていたというのに、なんの反動も無しに使えたということは。
以前のように、再び力が使えるようになりつつある。
その事実に、愛枝花は心の奥で喜びに満ち
『………雪津梛……』
「帰ってお前の主に伝えよ。私はお前を歓迎することはないとな」
『お優しいあなた様のお言葉とは思えませんね』
「お前たちに関しては、慈悲などない」
『……だからこそ、あの方はあなた様に焦がれるのでしょうね。それゆえに、私と同じ立場から神になられた。生半可なことでは、あなた様を忘れることすら出来ない』
成り上がった神。それがどれだけ大変なことで、一言では言い表せない程の苦労であるか。
愛枝花は知っている。
それが人にも神にも誉められた存在ではないにしろ、力のある神であることに変わりはない。
邪神
愛枝花に会いに来ると伝えにきた獣の主もまた、その
……愛枝花が思い出すのは、おぞましい程の穢れをその身にまとわせておきながら。
およそ正反対の美しい微笑みを浮かべ、愛枝花に恋焦がれていると告げた男の姿。
ただたんに口も聞きたくなかったゆえに、愛枝花は何も言わずにその場を去った。
それを相手は都合よく
男が愛枝花に告白した時、一瞬だけ視線が重なった……ただそれだけ。
あとは舞い散る卯の花が全てをかき消した。
たくさんの白い卯の花が、まるで雪のように降り注ぐ光景は愛枝花に自然と微笑みを浮かばせる。
邪神にはなんの感情も向けられないというのに、ただの花には
邪神は、それ以上何も言うことは出来ず。
遠い昔の、話である。
役目を果たした獣は闇に溶けるようにしていなくなった。
今回のことで力が戻りつつあることを
以前出来ていたことが、もう一度出来るようになることがとても……とても嬉しい。
望んでいたことが叶うことが嬉しい。
神としての
明日への希望などなく、今か今かと消える瞬間が訪れるのを受け入れるしかないと思っていた過去がまるで遠い昔のことのようだ。
思わずといった風に顔を
振り向けば気まずそうな顔をして立っている疾風がいて、まだ痛みでもあるのかと側に寄り手を取ろうとしたらーーーー
「……ひょっとして、余計な世話だったか?」
この男が、心底申し訳なさそうにそんなことを言うのは珍しいと思った。
恨まれても憎まれても、後のことは気にせず相手の為になることしかしない。
その場をなんとか収めることしか考えないようなやつが、こんな言葉を言うなんて。
「何に対してだ?」
「話に割り込んだこと?厄介なことにならねーかなって」
「……元々、私の事情がすでに厄介なのだから今さらだ」
愛枝花の弱体化に加え、疾風という存在が相手に知れれば近日中に災いが
邪神は心が狭く大人げなくてたちが悪い無邪気なところがある。
下手に暴走されれば新しい神社だけでなく、近辺までが
それだけは
今の愛枝花には、その悪意から守ることも逃げることも出来ないのだから。
「私はな、
「それはまぁ、そうなんだが。…愛枝花、困ってただろ?」
あんな小さな存在に困っていたから助けた、疾風はそう言っているのだろうが。
問題を解決する為に、疾風が怪我を負う必要はなかった。
一人でも問題はなかった。
助けてもらう必要など、なかったのだ。
そう言いたげに見ていたせいか、普段から
愛を
「神様たちのいざこざは知ったこっちゃねーが、愛枝花が困ってんのを見過ごすほど俺は恩知らずじゃないぜ?」
「恩?」
「住まわせてもらってる恩、美味い飯食わせてもらってる恩、心の
毎日の暮らしの中で、きちんと礼を言ったり手伝いを自分から申し出てくるなど。
細やかな気配りが出来る男だと、誰もが
そして愛枝花すら、深く感謝し恩を感じている。
だというのに、これはあまりにも
愛枝花の思考が一瞬にして固まる。
疾風との関係が続き、いつの間にか当たり前のように側にいるようになった。
同じ家に住み、疾風が出ていく気が無い上に愛枝花も追い出さないのだから一緒にいるのは当たり前のことだ。
それでも側にいるのが当然のように思っていた相手から、愛枝花が思ってもいなかったような不意討ちをくらって意識しない方がおかしい。
どう反応すればいいのか、何を言えばいいのか。
そもそも、また同じように対応出来るかどうか。
愛枝花はわからなくなっていた。
「お、前でも…きちんと考えていたのだな。その……色々と」
「俺は恩には
「
「それは、さっきも言った色々なことに対しての恩返しだよ」
ほんの少しの苦味を
溶けそうな柔らかな微笑みを見せ、全ての難題を解決してきた大きな手で愛枝花の小さな両手を包み込むように優しく握りしめた。
たったそれだけのことで、なぜか心臓が
「…ずっと、
どこか遠くを見つめる疾風は、淡い光と共に消えてしまいそうなほどひどく儚げな姿を見せた。
人外が、人の世で人と共に生きる苦労も辛さも苦しみも。
悲しみも、愛枝花は嫌というほど知っている。
人の目に見えない人外たちなら、こんなことでは悩まない。
その
だが幸か不幸か、愛枝花も疾風も人に
己の生を全うすると決めている二人は、人と関わりを持たなければ生きていけない。
「帰れる場所が出来たことが、今のお前の喜びなのだな」
「待っててくれる人がいることも俺の喜び」
包み込んだ愛枝花の手をすくいとる形に持ち変える。
そしてその場に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます