穢れ




あれから弥生の部屋から自室に戻った愛枝花は、風呂に入る準備を整えた。

身をきよめる為とはいえ、毎度のことながら愛枝花は豊かで長い髪を洗うことも乾かすことも億劫おっくうだなどと考えていると。



衣装箪笥いしょうだんすの影に隠れるようにして、部屋のすみに黒く小さなうごめくなにかが、いた。



新築になってからというもの、徐々じょじょに取り戻しつつあった神力で虫限定ならば建物内に入れないように愛枝花が結界を張ったのだ。

つまり、アレはおぞましい黒い悪魔ではない。


だが、愛枝花はそのうごめくモノの正体を知っているようで。

嫌そうに顔をしかめつつも、相手が形になるのを静かに待った。



雪津梛愛枝花乃比女様ゆきつなあえかのひめさま



うごうごと動いていたそれは、やがて小さな獣の姿になった。

愛らしさの欠片もない黒い瘴気しょうきかたまり


女神である愛枝花にはそんなモノにしか見えないそれを、冬の冴えざえとした月のような眼差しで見つめる。

そして、口に出す一言一言が身を凍らせるほどの冷たい声音でこう言った。



低俗ていぞく瘴気しょうきかたまり風情ふぜいが、私の名を口にするな。けがらわしい」

『申し訳ございません。ですが御身おんみのあまりのお変わりように、我が主が名を告げて確認せよと厳命げんめいを受けております』



愛枝花は小馬鹿こばかにするように鼻でわらった。



「力を失い、人の子よりも脆弱ぜいじゃくとなった我が身では女神には見えぬと?えらくなったものよなぁ、お前の主とやらは。物見ものみを出させ、私の現状げんじょうを調べて愉悦ゆえつの種にでもする気か」


真意しんいはわかりかねますが、主様からの御言葉を伝えるだけでございます。他の命は受けておりません』


「あやつのたわむれ言など聞きとうもない」


『「獣たちの力強い咆哮ほうこうや自然の息吹きよりもあなたの関心を買えない、私の言葉で申し訳ない」』



相も変わらずの言い回しに、愛枝花は思いきり顔をしかめる。

何千年の時が過ぎ、変わらぬ挨拶あいさつのごとく言葉を送ってくる男に一々驚きはしなくはなったが。


今夜は、いつもと違っていた。

どうにも空気が騒がしい。

男が寄越よこした言葉の先に、嫌な予感を感じとった。



『「どれだけの時が過ぎようとも、何が起ころうとも私の心は変わらない。けれどあなたの心も変わらない。時は満ちた、もう充分に待った。これ以上の時が過ぎることを、私は決して許さない」』



許さない。どの口がそれを言うのか。

勝手に期待して、勝手に待つと決めた者に応える義務ぎむも責任もない。

だが獣から発せられた相手の声からは、拒否を認めない絶対的支配者の威圧いあつが感じられる。


今の愛枝花では、無視ができない厄介やっかいな相手。

それがもし本気になったのなら、愛枝花は女神を続けてはいられなくなるかもしれない。


対抗しようにも今のままでは力の面で圧倒的に不利であるし、元の力を取り戻そうにも時間が足りない。

わずかに緊張した様子を気取けどられないように、気を引き締め直してなおも続く獣の言葉を聞いた。



『「あなたへの献上品けんじょうひんを用意して、近々御目見えいたします。何千年という永き月日、あなたの声すら届けてもらえなかった哀れな私に女神の慈悲を」………以上が、主様からの御言葉でございます』



粘着力ねんちゃくりょくが強いのは接着剤せっちゃくざいだけでいいんじゃねぇの?」

「?!」



背後から聞こえたその声の主は、いつの間にか愛枝花のすぐ側にいて後ろから小さな獣を指でつまみ持ち上げた。


いつものおちゃらけた雰囲気ふんいきなど垣間かいま見えることもなく、鋭い視線と地をうような低い声で獣を威嚇いかくしている。

うなり声を上げる前に、愛枝花は片手でそれを制した。



「やめよ。お前が触れれば身のけがれだけでは済まぬぞ」

「こんなチビが?」

「小さくとも穢れが圧縮あっしゅくされた存在だ、なんのまもりもないお前が触れただけでそれはしゅに変わる」

「しゅ?」

のろいだ。いいからそれを降ろせ、そして山の清水きよみずで身をきよめよ」

「大丈夫だって」



 そう言いつつも、獣を部屋の外に放り投げつまんでいた自身の指をもう片方の手で押さえている。

肉が焼けるような臭いが愛枝花の鼻腔びくうに届き、慌てて枕元に置いていた飲み水を手に取った。

飲み水に愛枝花の涙を一滴いってき入れたかと思えば、涙が入った水を疾風の手にかけながら言葉を放つ。



「『きよめよ』」



すると、焼けげていた手が元通りになったのだ。

むしろ前の荒れた手より綺麗になっている。


これは愛枝花の女神としての能力で、以前は涙と水の媒介ばいかいを使わずとも出来ていたことだが。

今ではほぼ使えなくなっていたというのに、なんの反動も無しに使えたということは。


以前のように、再び力が使えるようになりつつある。

その事実に、愛枝花は心の奥で喜びに満ちあふれていた。



『………雪津梛……』

「帰ってお前の主に伝えよ。私はお前を歓迎することはないとな」

『お優しいあなた様のお言葉とは思えませんね』

「お前たちに関しては、慈悲などない」

『……だからこそ、あの方はあなた様に焦がれるのでしょうね。それゆえに、私と同じ立場から神になられた。生半可なことでは、あなた様を忘れることすら出来ない』



成り上がった神。それがどれだけ大変なことで、一言では言い表せない程の苦労であるか。


愛枝花は知っている。

それが人にも神にも誉められた存在ではないにしろ、力のある神であることに変わりはない。






邪神





八百万やおよろずの神々が存在するように、邪神にも八百万の神々が存在すると言われている。

愛枝花に会いに来ると伝えにきた獣の主もまた、その一柱ひとはしらなのだ。


……愛枝花が思い出すのは、おぞましい程の穢れをその身にまとわせておきながら。

およそ正反対の美しい微笑みを浮かべ、愛枝花に恋焦がれていると告げた男の姿。


ただたんに口も聞きたくなかったゆえに、愛枝花は何も言わずにその場を去った。

それを相手は都合よく解釈かいしゃくしたのか、未だに恋心をつのらせ事あるごとに愛を告げる。


男が愛枝花に告白した時、一瞬だけ視線が重なった……ただそれだけ。

あとは舞い散る卯の花が全てをかき消した。


たくさんの白い卯の花が、まるで雪のように降り注ぐ光景は愛枝花に自然と微笑みを浮かばせる。

邪神にはなんの感情も向けられないというのに、ただの花にはほころぶような笑みを見せることに。

邪神は、それ以上何も言うことは出来ず。

羨望せんぼう焦燥しょうそうからめたような眼差しで愛枝花を見つめ続けていた。





 遠い昔の、話である。

















役目を果たした獣は闇に溶けるようにしていなくなった。

今回のことで力が戻りつつあることを実感じっかんしたので、気休め程度の浄めや結界じゃないものを使うことが出来る。


以前出来ていたことが、もう一度出来るようになることがとても……とても嬉しい。

望んでいたことが叶うことが嬉しい。

神としての尊厳そんげんを取り戻せることが、嬉しい。


明日への希望などなく、今か今かと消える瞬間が訪れるのを受け入れるしかないと思っていた過去がまるで遠い昔のことのようだ。


思わずといった風に顔をほころばせ微笑んでいる愛枝花の背後から、気の抜けたような声が聞こえた。

振り向けば気まずそうな顔をして立っている疾風がいて、まだ痛みでもあるのかと側に寄り手を取ろうとしたらーーーー



「……ひょっとして、余計な世話だったか?」



この男が、心底申し訳なさそうにそんなことを言うのは珍しいと思った。

恨まれても憎まれても、後のことは気にせず相手の為になることしかしない。

その場をなんとか収めることしか考えないようなやつが、こんな言葉を言うなんて。




「何に対してだ?」

「話に割り込んだこと?厄介なことにならねーかなって」

「……元々、私の事情がすでに厄介なのだから今さらだ」



愛枝花の弱体化に加え、疾風という存在が相手に知れれば近日中に災いが飛来ひらいしてくるだろう。

つかいの獣は見たままを報告するはずだからだ。


邪神は心が狭く大人げなくてたちが悪い無邪気なところがある。

下手に暴走されれば新しい神社だけでなく、近辺までが跡形あとかたもなくなってしまう。

それだけは阻止そししなければならない。

今の愛枝花には、その悪意から守ることも逃げることも出来ないのだから。



「私はな、得体えたいの知れない物に触れて負わなくてもいい怪我を負ったことの方にあきれている。お前ほどの者なら、あれに触れてはならぬことぐらいわかっただろうに」

「それはまぁ、そうなんだが。…愛枝花、困ってただろ?」



あんな小さな存在に困っていたから助けた、疾風はそう言っているのだろうが。

問題を解決する為に、疾風が怪我を負う必要はなかった。


一人でも問題はなかった。

助けてもらう必要など、なかったのだ。

そう言いたげに見ていたせいか、普段からかんするどい疾風は数多あまたの女たちがとろけるような笑みを見せ。

愛をささやく時のように甘い声でこう言った。



「神様たちのいざこざは知ったこっちゃねーが、愛枝花が困ってんのを見過ごすほど俺は恩知らずじゃないぜ?」

「恩?」

「住まわせてもらってる恩、美味い飯食わせてもらってる恩、心のり所になってもらってる恩、だな」



毎日の暮らしの中で、きちんと礼を言ったり手伝いを自分から申し出てくるなど。

細やかな気配りが出来る男だと、誰もが太鼓判たいこばんを押すことは間違いない。


そして愛枝花すら、深く感謝し恩を感じている。

だというのに、これはあまりにも不意討ふいうちだ。

愛枝花の思考が一瞬にして固まる。


疾風との関係が続き、いつの間にか当たり前のように側にいるようになった。

同じ家に住み、疾風が出ていく気が無い上に愛枝花も追い出さないのだから一緒にいるのは当たり前のことだ。


それでも側にいるのが当然のように思っていた相手から、愛枝花が思ってもいなかったような不意討ちをくらって意識しない方がおかしい。

どう反応すればいいのか、何を言えばいいのか。

そもそも、また同じように対応出来るかどうか。

愛枝花はわからなくなっていた。



「お、前でも…きちんと考えていたのだな。その……色々と」

「俺は恩にはむくいる男だぜ?」

律儀りちぎなのは知っている。うむ、社再建のことや他にも色々働いてくれたしな!」

「それは、さっきも言った色々なことに対しての恩返しだよ」



ほんの少しの苦味をふくんだ甘い声を愛枝花の耳に届かせて。

溶けそうな柔らかな微笑みを見せ、全ての難題を解決してきた大きな手で愛枝花の小さな両手を包み込むように優しく握りしめた。


たったそれだけのことで、なぜか心臓が早鐘はやがねのようにうるさく高鳴っていることに気がついてしまう。

動揺どうようを隠しきれない愛枝花に気づかないまま、疾風は言葉を続けた。



「…ずっと、あこがれれてたんだ。明るい光が灯った家、邪険じゃけんにせず出迎えてくれる相手。美味い飯をその家で食って、その日を楽しく働いてまた明日も頑張る。長い人生、悪いことばかりじゃなかったが…最低限と思えることさえ、俺は一生手に入らないと思ってた」



どこか遠くを見つめる疾風は、淡い光と共に消えてしまいそうなほどひどく儚げな姿を見せた。

人外が、人の世で人と共に生きる苦労も辛さも苦しみも。

悲しみも、愛枝花は嫌というほど知っている。


人の目に見えない人外たちなら、こんなことでは悩まない。

その苦悩くのうの全てと関わらず生きていこうとすればそれで済むからだ。


だが幸か不幸か、愛枝花も疾風も人に認識にんしきされる女神と人外だ。

己の生を全うすると決めている二人は、人と関わりを持たなければ生きていけない。



「帰れる場所が出来たことが、今のお前の喜びなのだな」


「待っててくれる人がいることも俺の喜び」



包み込んだ愛枝花の手をすくいとる形に持ち変える。

そしてその場にひざまずき、白く柔らかな指先にソッと触れる程度のキスをした。


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