第10話:春の乙女
「ここ?」
「そう、ここ。ここに籠もってるんですよ、あの御方は」
羽根つき帽子を被ったヘルメスが疲れ切った顔でうなずく。
馬車は、大地に生じた大穴の縁に留まっている。背後には冥界の闇があり、眼前にはデーメーテールが身を隠したエレウシスの地がある。
空はすっかり色褪せ、冷たい風が無情に吹き付けてくる。
痩せた大地には、花はおろか緑すらない。
静かな町の彼方には、神殿が見える。
この枯れた地においても、それはどこか清廉な輝きを放っているように見えた。
――母はあそこにいる。
ペルセポネーは直感した。感じたこともないほどの、凍えた母の気配を感じる。
たぶん、デーメーテールは自分の帰還に気付いていない。
伝えなければ――ペルセポネーは、馬車から外に一歩踏み出した。
土を踏んだその瞬間、ペルセポネーは感じた。
五感が研ぎ澄まされていく。胸の奥底から、熱い力が湧き上がるのを感じた。
ペルセポネーは大きく目を見開いて、自分の手を見つめた。
なにか大きなことができる気がした。
そして今、それはここでするべき事なのだということを直感した。
大穴から抜け出た。弱々しい陽光が、華奢な体に注いだ。
「――この時は終わり」
ペルセポネーは囁き、両手を広げた。
胸から発した熱が指先にまで行き渡るのを感じながら、ペルセポネーは天を仰いだ。
「これより花の時を始めましょう」
そうして、歩き出した。瞬間、世界はさながら花が開くかの如く激変した。
一歩踏み出す。大地に眠っていた種が芽吹く。
二歩踏み出す。柔らかな芽が一斉に地を突き破る。
三歩踏み出す。爆発的に地表に花が咲き、散って、実を成す。
四歩踏み出す。実が落ち、朽ちて土となり、痩せた地面を膨らませる。
月と太陽とが急速に巡った。
陽光と月光とが一瞬にして乱れ、雲の激流が雷雨をもたらす。
――そして、一瞬のうちに一巡した。
「これは……」
ヘルメスは眼をこすり、一瞬のうちに変貌した周囲を見回した。
あの不毛の景色はどこにいったのか。
いまやあたりに花が咲き乱れ、陽光が優しく地を照らしている。菜園にも果樹園にも果実がたわわに実り、風にそよぐ青い麦が豊作の予感を感じさせた。
――地上が初めて迎えた春だった。
ペルセポネーは息を吐き、自分の胸に手を当てた。
こんな御業は、かつての自分にはできなかったことだ。ハデスの手ほどきによるものか。あるいはあのザクロの作用なのか――それはわからない。
けれども、ペルセポネーはこのうえない満足感を感じていた。
「……そうよ。歓喜なさい」
あたたかな風に金髪をなびかせて、ペルセポネーは笑う。その髪で甘い香りを漂わせているのは、かつてハデスが贈ったものと同じ水仙だった。
「とってもかわいいペルセポネーが帰還したのよ。だからもっと――」
「コレー……」
かすれた声に、ペルセポネーは視線をそちらに向ける。
デーメーテール――喪を示す黒の衣に身を包む母の姿が、そこにあった。
娘を前に立ち尽くし、豊穣の女神は呆然とあたりを見回す。
「一体、なにが起きたのです……? これは、私の権能じゃ――」
「お母様!」
ペルセポネーは歓声を上げ、デーメーテールに駆け寄った。そうしてすっかり痩せた母の体を抱き締め、やつれたその顔に触れた。
「今戻ったわ、お母様! 貴女のかわいいコレーにしてペルセポネーが戻ったのよ!」
「おかえりなさい、私の可愛い子……ペルセポネー……?」
「そうよ、コレーにしてペルセポネーなの」
困惑する母の顔を見つめて、ペルセポネーはにいっと笑った。
「――だって私、よくばりだから」
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