第9話:冥妃
「コレーを返していただきたい」
冥王に謁見したヘルメスは言って、
「よかろう」
早々にハデスは承諾した。
「おお、それは困ります、
「話を聞け。返すと言っているだろう」
「……返す? 返すと仰いました? マジすか?」
「二度も言わせるな」
薄暗い広間で繰り広げられるやり取りを、ペルセポネーはじっと見守る。
ヘルメスは、風のように速かった。ペルセポネーが『望むものをできるだけ全部手に入れる方法』を見つけるよりも早く、彼は来た。
そして、ハデスは結局自分を手放すようだ。ペルセポネーは、肩を落とした。
「……なまいき」
円柱の影に隠れ、ペルセポネーはぽろぽろと涙を零す。髪に絡む花が、雪のように白い花弁を静かに散らした。
思い知った。
涙を零すほどに、自分は冥界にいたかったのだと。
そうして冥王が欲しかったのだと、今さらになって理解した。
求婚されたことは前にもあった。
オリュンポスの若い神全てが、あらゆる宝物を手にペルセポネーに求婚した。
そのたびデーメーテールに阻まれて、諦めた。
花をくれたのは――そうして攫いに来たのは、ハデスだけだった。
「なまいきだわ……」
足音がした。はっと顔を上げると、ハデスが立っていた。
表情はない。常と変わらず物憂げな赤い瞳からは、なんの感情も読めない。
「……ヘルメスは?」
「ヘカテーとともに支度をさせている。じきに来る」
「そう……休む時間もないのね」
白い花弁を散らして、ペルセポネーは肩を落とす。
ハデスは、足音もなく近づいてきた。
影のようなその長身が目の前に迫り、ペルセポネーは思わず後ずさる。
「な、なに」
「別れの挨拶を」
「別れ……そうね、うん……もう二度と会えないものね、わたし達……」
うなだれるペルセポネーの顔に、ハデスは片手を添えた。
「……おじさま?」
「此度の件は……私が悪い。けれども、お前も悪いんだ」
赤い瞳がペルセポネーの瞳を見た。けれども、それは一瞬のこと。
すぐにペルセポネーの視界は、頬から滑ってきたハデスの手によって覆われた。
「――だから、許せ」
そうして、深く口づけられた。
冷たい唇と舌の感触に、ペルセポネーは一瞬身を固くした。
しかし直後、全てを理解した。
離れようとするハデスの動きに対し、ペルセポネーはとっさに彼の首に腕を絡ませた。
さらに深くなる口付けに、ハデスは眼を見開く。
「……なっちゃいないわ。まったくなっちゃいないわ」
ペルセポネーは蠱惑的に笑って、体を離した。そうして、裂けたザクロを見せつける。
口づけの際に、ハデスが一粒口移したものだ。
ペルセポネーは先ほど生じた隙を逃さず、ハデスの手から掠め取ったのだった。
「ザクロ一粒だなんて! これじゃ喉だって潤わないわ。……ね、私は言ったでしょう?」
言いながら、ペルセポネーはこれみよがしにザクロに齧り付いてみせた。
赤い果汁が、唇から白い喉へと滴る。
アフロディーテもかくやというあでやかな様に、冥王は息を飲む。
「よくばりなのよ。……一粒じゃ満足できないわ」
ペルセポネーはハデスの顔を引き寄せ、自分から彼に口づけた。
ハデスは一瞬、眼を見開いた。やがて、彼は躊躇いがちにペルセポネーの頭に手を添えた。
「……とんだ娘だ」
酸素を奪い合うような口付けの狭間で、ハデスは囁いた。
「愚弟の娘なだけのことはある……とんだ娘だ」
「私は私よ。デーメーテールでもゼウスでもないわ」
ペルセポネーは囁き、名残惜しさを感じつつもハデスから体を離した。
くるりと身を翻して、蠱惑的に微笑む。
「コレーで、ペルセポネーなの。――おわかり?」
「……ああ。十分、理解した」
どこか疲れたような顔でうなずくハデスに、ペルセポネーはふと不安げに首を傾げた。
「……よくばりな私はきらい?」
「そんなわけがないだろう」
ハデスはやや力のこもった声で即答した。
燃えるような赤い瞳を見上げて、ペルセポネーはふっと微笑んだ。
足音が聞こえた。神の鋭い聴覚は、ヘルメスとヘカテーが戻ってこようとしていることを理解した。もうペルセポネーの出立の時が来たのだ。
「――機を見て戻るわ。その時に思い切り可愛がってあげる」
「……私を?」
「だから私のことも思い切り可愛がってね、ハデス」
微笑んで、ペルセポネーは踵を返した。
軽やかな足取りで駆けていく娘神の背中を、冥王は呆気にとられて見つめる。
やがて青白い手をゆるゆると持ち上げ、深くため息を吐いた。
「……あいつめ。ゼウスとデーメーテールの強いところばかりを受け継いだな」
天井を仰ぎ、もう一つ息を吐く。
その薄い唇が、わずかに弧を描いた。
恐らく生まれて初めて、ハデスは笑った。
「……とんだ娘だ、まったく」
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