第8話:欲しいのよ

 ペルセポネーは、玉座のハデスに詰め寄った。


「おじさま、地上に帰れってどういうこと? 私はまだ満足していないわ!」

「お前に教えることはもうない。……むしろ、私は教えすぎた」


 ハデスの表情が暗いのは常のことだ。けれども、今はさらに痛ましげに見える。

 そのくせ、深紅の瞳はペルセポネーを見ようともしない。


「このままでは餓死者が続出する……お前はヘルメスとともに地上に帰り、喪服の母を慰めてこい。そうすれば、地上に豊穣が戻る」

「……わかったわ。じゃあ、お母様が落ち着いたら、またここに来るから――」

「もうここに来てはいけない」


 ハデスの低い声に、ペルセポネーは目を見開いた。


「そもそもお前がここにいるのは、私の愚行によるものだ」

「私が許したわ!」

「お前が許してもデーメーテールが許さないだろう。本来、お前がここにいること自体が間違いだ。――地上に帰れ。きっと二度と会うことはないだろう」


 ハデスは視線を合わせない。ペルセポネーは、ヒマティオンの裾を握りしめた。


「二度と……?」

「そうだ。二度と会うことはない。会うべきではない」


 二度と会えない。二度と話せない。二度と教えられない。二度と触れられない。

 そうして、終わる。このまま、終わる。

 永遠に。


「……それがいい。それで、正しい」


 ――なのにこの男は『それでもいい』と言った。


 爆ぜたような音が聞こえた。

 髪に大輪の花が一瞬で咲いた音。そうして地を蹴った音だった。

 その色さえもわからないまま、気付けばペルセポネーは玉座のハデスに飛びかかっていた。

 玉座の背に手をついて――「ッグ」――いい感じにハデスの腹に膝を入れながら。


「……貴方はどう思っているの」


 声も出せずに悶絶する冥王を見下ろして、ペルセポネーは囁いた。


「永久に私達は会わない……貴方は、それでいいの? それが貴方の望みなの?」

「……そうするべきだ。お前は、私の許にいるべきではない」

「心からそう思っているの?」

「――そうだ」

「ステュクスの水に誓えるの?」


 途端、ハデスは息を飲んだ。

 ――神々は、ステュクスの水を使って誓いを立てる。

 この誓約を違えることは、決して許されない。


「『冥王ハデスはペルセポネーと永遠に会うことはない』――貴方が誓うというなら、私は従うわ。私も貴方に二度と会わないって誓う。……でも」

 ペルセポネーは小さくため息を吐くと、手を伸ばし、青白い冥王の顔に触れた。

「……私はまだ満足してないわ」


 ペルセポネーは囁く。ハデスは何も言わない。

 しかし顎を指先で辿ると、ハデスは明らかに狼狽して瞼を震わせる。


「なのに、ここを永遠に離れることになるなんて……それに、貴方は私が好きなんでしょう?」


 ペルセポネーは顔を近づけた。

 この男は、死のにおいがする。湿った墓土、糸杉の冷たい雫、灰に埋もれる火――そうして墓場に咲く、かすかに甘い水仙のにおい。


「こんなにかわいい私を手放すことに耐えられるの? ――ハデス」

「……誰に……」


 ハデスはかすれた声を零した。

 赤い瞳が闇を彷徨い、初めてペルセポネーを映した。


「こんな真似を教わった?」

「さぁ。ギリシャヘラスの女神は過激だから」


 肩をすくめてみせるペルセポネーにハデスは額を押さえ、深くため息を吐いた。


「とんだ小娘だ……」

「私は枠には収まらないのよ。そっちのほうが楽しいって、貴方達が教えてくれたんだもの」

「ヘカテーはともかく私は教えていない……」

「攫ったじゃない」


 指摘すると、ハデスはがっくりとうなだれた。


「……私は、誓えない」

「そうでしょう、そうでしょう。なんたって私はとってもかわいいから――」


 引き寄せられた。

 そうして気付けば、ペルセポネーはハデスの腕の中にいた。

 死のにおいが、いっそう強く漂った。


「私はお前を手放せない」


 かすれた声は、悲鳴のようにさえ聞こえた。


「……耐えていた。私は耐えていたんだ、ずっと。耐え忍ぶのには慣れていた。望みが目の前で奪われても、今までなにも思わなかった……なのに……どうしてくれる」

「私なら奪われたら奪い返すだけ」


 ペルセポネーは涼しい顔で答えながら、ハデスの背中に触れてみた。

 自分よりも、ずっと体格のいい男だった。ペルセポネーの肩を抱く筋張った腕はひんやりとしている。そのくせ背中は、幼子のように震えていた。

 それをそうっと撫でながら、ペルセポネーは思考を巡らせる。


「私、わりとよくばりなの。あと落ち着きがないし……辛抱もないって、アテナやアルテミスからよく言われる。お母様のところにいた時は我慢ができたけど……でも貴方が私の事を攫っちゃったから、箍が外れちゃった」


 ペルセポネーは肩をすくめると、猫のようにするりとハデスの腕から抜けた。


「よくばりなのよ、私」


 ペルセポネーは繰り返し、踵を返した。

 紫の瞳は、決然とした光を湛えて天井を――豊穣の絶えた地上を睨む。


「だから考えるの……望むものをできるだけ全部手に入れるには、どうすればいいか」


 鞠の転がるような足取りで、ペルセポネーは駆ける。

 ハデスはその背中を見つめると、玉座に身を預けた。天井を見上げる赤い瞳には、いまだかすかな苦悩と――そうして、確かな企みの影があった。

 不意に、ハデスは視線を下ろす。見つめた先には、果物を盛った器があった。

 そこには、いくつかのザクロが盛られていた。


「……望むものを、できるだけ……」

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